13
異教パビリオン


白石さんに「門限を破ってみる?」と提案した時点では、俺は怒られる覚悟なんてしていなかった。彼女がそれに乗ってくるとは思わなかったから。
だけど一緒に過ごしていくうちに、家に帰るのがよほど嫌なのだろうと思えた。少なくとも気乗りしないのだろうと。そんな白石さんが隣で楽しそうにしてくれるのは嬉しかったし、俺自身も普段の景色が別世界みたいに感じられて、時間なんて忘れていた。


「この駅だよ」


白石さんの最寄り駅は、彼女の通う鈴ヶ丘学院に近い場所にあった。治安が良い住宅地、しかも良い家が並んでいる場所だ。電車を降りて歩いていると、見かける家のほとんどに広い庭があったり車が二台・三台あったりして、裕福なのが伺えた。


「ごめん。俺が変な提案しなきゃよかった」
「変な提案?」
「門限のこと……」


門限を破ろうだなんて言わなければ、白石さんはこんなに重い足取りで家に帰る必要もなかったのだ。先ほどから口数も少ない。親への言い訳などを考えているに違いない。
そして、俺も同じく考えていた。大見得きって「送る」と言ったはいいが、十中八九俺は怒られる。自分の親ならまだしも、他人の親に。初対面の大人に。普段から生意気言ってる俺でさえ、知らない大人に怒られるなんて恐ろしいことだった。


「そんなことないよ。嬉しかったから」


しかし白石さんがそう言って首を振るので、俺の心はいくらか救われた。


「それに楽しかった。すごく」


さっきまでの俺と過ごした短い時間、白石さんは心から楽しんでくれていたようだ。俺も楽しかった。このまま夜が来なければいいと思ったし、柄じゃないけど「時が止まればいいのに」なんて考えた。こんなの漫画やドラマで見た時は、くっせえ台詞だなと思っていたのに。


「ここだよ」


やがて俺たちは、一軒家の前に辿り着いた。門にはインターホンがあり、その横には「白石」と書かれた表札。間違いなく白石さんの家である。駐車場には車がない。父親はまだ帰宅していないのだろうか。どうかそうでありますように。父親に顔を合わせるのはヤバい。俺の本能がそう告げている。

俺が固まっていると、白石さんは門を開いた。が、そのまま敷地に入って家のドアを開けるのではなく、インターホンを指さした。


「押してもいい?」
「う、うん」


そして白石さんはインターホンを押し、聞きなれた電子音が鳴った。こんな立派な家だけど、インターホンの音はうちと同じなんだな。
しかしその音が止むと、一気に心臓がばくばくとし始めた。家の中から足音が聞こえてきたのだ。母親? 父親? 兄弟? 冷や汗が流れるのを感じる。横目で見た白石さんの顔は俯いているので見えなかった。誰が出てくるんだろう。俺は開口一番に何を言えばいいんだろう。いや、黙っといたほうがいいのか? そういえば筋書きを全く考えていない。
そうこうしているうちに玄関で物音がして、がちゃりとドアノブが動いたかと思うと、勢いよく扉が開いた。


「……すみれ!?」
「ただいま……」


出てきたのは母親だ。 俺は気付かれないように肩を落とした。よかった、父親のほうじゃなくて。
白石さんの母親は、まずは白石さんの姿を確認すると驚きつつもホッとしたように見えた……が、すぐにカッと火がついたように話し始めた。


「どこに居たのこんな時間まで! どうして電話に出ないの!? 心配したんだから!」
「ごめんなさい……」
「……そちら、どなた?」


消えて無くなりそうなほど縮こまっている白石さんの隣には、一般的な高校生よりも大柄な俺が立っている。それはそれは怪しいだろう。母親は俺を明らかな不審者を見るような目で見上げていたが、黙っているわけにはいかない。今ここで俺が話す番だ。


「二口堅治です。あの、白石さんとは友だちで」
「お友だち?」
「俺が白石さんを誘いました。すみませんでしたっ」


こういう品のいい世界の人間から見ると、俺はきっと見た目で損をしている。謝罪の言葉と同時に頭を下げた時に自分のスニーカーが汚いのが見えたし、制服のシャツは部活後に適当に着たせいでぐしゃぐしゃだ。日曜日だから先生にも会わないと思って着崩している。
……いや、白石さんに会う前にきちんと整えたはずだ。ゲームセンターで遊んだ時に制服が崩れたんだ。これって最悪の印象では?


「本当なの?」


白石さんの母親は、俺の姿を上から下まで見てから言った。さすがにじろじろとは見られなかったけど、観察されているのは感じる。その母親の問いに白石さんはどう反応したのかは分からないが、俺はこくりと頷いた。


「……本当なのね?」
「はい」


もう一度、俺は頷いた。誘ったのは俺で、俺があちこち連れ回して、俺のせいで帰りが遅くなったのだから。
その俺の返事を聞くと、母親は深々と溜め息を吐いた。一瞬、無事に白石さんが帰ってきたことに安心したのかと思ったけれどどうやら違う。


「なんてことしてくれるんですか」


溜め息のあと、まるで別人のような低い声で言ったのだ。これは白石さんではなく俺に向けて。声だけで分かる。明確な嫌悪感を露わにされている。おかげで俺はびくっとして、咄嗟に答えることができなかった。


「うちの子に何かあったらどうしてくれるの? 夜になるまで連れ回すなんてどういう教育受けてるの!?」
「……すみません……」
「すみれ! 大体あなたもあなたよ! よく知りもしない男の人と軽々しく会うんじゃありません」
「お……お母さん!」


それまで黙っていた白石さんが憤慨するように母親を呼んだ。俺は情けないことに緊張とか恐怖とか後悔とか色んな感情のおかげで固まっていたが、白石さんはそんな俺をフォローするために声を上げてくれたようだ。


「知りもしない人なんかじゃない。この人なの、変な人に絡まれた時に助けてくれたのは」


変な人に絡まれた時というのは、初めて会った日のことだと思う。俺がしつこい男から白石さんを護った(と言うほど立派なものでもないが)のは事実である。それを聞くと母親は、一瞬だけ冷静になったかに見えたのだけど。


「それとこれとは別でしょう」
「でも……」
「この人となら連絡もなく門限を破るのは仕方ないとでも?」


その言葉を受けて、白石さんは返す言葉を失っていた。母親の言うことが正しいからだろう。あの日俺が助けたことと、今日門限を破ったことは別問題だ。


「先日のことは聞いてます。娘を助けてくれたのは、そりゃあ感謝してますけどね」
「……いいえ、それは……」
「だからってあなたのような不良に弄ばれるのは困ります」
「お母さん!」


白石さんが再び大きな声を出した。俺までびっくりするくらいの。もしかしたら俺を「不良」と呼ばれたことに怒ったのかもしれないけど、俺は髪を染めて制服も着崩しており、どこからどう見ても不良である。真面目で善良な進学校の生徒とは大違い。
そんな俺でも今の言葉には少し違和感を覚えた。不良であることに反論はないが、俺は決して白石さんを弄んでいるつもりはないのだ。


「二口くんでしたっけ? あなた、どちらの学校に通ってらっしゃるの?」


母親は気にせず冷静な声で言った。
その質問の意味を俺は一瞬理解できなかった。正確に言えば、意味は分かるが意図が分からなかった。


「……伊達工業っていうところです」
「工業高校?」


しかし、その復唱の声で全て分かってしまった。俺の通う高校が、娘の交流相手として相応しいかどうかを判断するためだ。そして一瞬で俺は「相応しくない」ほうに判別された。


「卒業後はどうするつもりなんですか」
「それは、迷ってるとこですけど……」


言いようのない屈辱と、感じたことのない悔しさと、うまい言葉が出てこない粗末な頭への怒り。将来のことは俺が今いちばん悩んでいることだった。卒業後、俺は進学したいのか就職したいのか。自分でも分からないのに、いきなり聞かれて答えられるわけもなく。由緒正しい家柄のこの女性には、そんな俺の受け答えでは通用しなかった。


「仲良くしてるならご存知でしょうけど、この子は将来バイオリニストになるの。来年にはウィーンで公演があるし、留学だってさせるつもりです」
「りゅ……留学!? そんなの聞いてない」
「あなたは黙ってなさい!」
「黙らない!」
「すみれ!」


これまでで一番の大きな声で、母親が叫んだ。呼ばれた白石さんは怯えるようにびくりとして言葉に詰まり、その場で固まってしまった。


「部屋に行きなさい」


今度はとても小さく諭すような声の母親に、白石さんは操られるかのようにゆっくりと頷く。恐らく、この人がこんなに怒ることはそうそう無いのだろう。それほど今日は怒らせてしまったのだ。


「……」


白石さんは静かに靴を脱ぐと、その靴を揃えもせずに小走りで行ってしまった。階段を登る音が聞こえる。二階が白石さんの部屋なのかな、なんて変に冷静なことが頭を過る。
玄関に取り残された俺は、未だ静かな怒りがおさまらない母親からの言葉を浴び続けた。


「分かってくださいね。この時期に男遊びなんて覚えられたら大変なの。特にあなたみたいな、よく分からない経歴の男の子と」


怒られるだろうとは思ったけど、ここまでか。こんなにか。そんなに俺には釣り合わないって言いたいのか? 俺は授業は時々ぼんやりするけど部活は絶対に休まないし、学校をサボることもなければ人道から外れたこともしない。こんな格好してるけど真っ当に生きているのに、経歴がどうとか弄ぶとか言われたくない。でも、そんなことは言えない。今日この人を怒らせたのは、百パーセント俺の責任だ。


「娘を送ってくれてありがとう。もう帰ってくださる?」


だから返事をしないうちに無慈悲に扉を閉められたって、俺には文句を言う筋合いなんてないのだ。
追い出された俺は意識が朦朧とする意識の中、白石さんの家をぼんやりと見上げた。二階の角部屋で、さっきは消えていたはずの電気がついている。あそこが白石さんの部屋なのだろうか。分かったところで俺は、確実に親に嫌われちゃったんだけど。