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飛び降りてみせようか


先日、白石さんがわざわざ待ってくれていたことに、俺は少し浮かれていたかもしれない。自分の置かれた現実というものを忘れていたのだ。それは翌週の月曜日、再び配られたプリントを手にしてから気づいた。


「決まってねぇーっつの……」


その進路調査の紙は、いま一番見たくないものだった。考えたくもないし、自分の将来の可能性をたったの第三希望までしか書かせないやり口も気に入らない。……というのは言い訳で、本当は今こうしてだらだらと勉強し、部活にのめり込んでいるのが楽であり心地良いからなんだけど。
それでも避けては通れないこの話題を、同じ学校の友人に相談するのは妙なプライドが邪魔をする。だからもう一人、学校外の知り合いに話してみることにした。


『白石さんは将来何になりたいの?』


白石さんと連絡を取っていたいだけ、ってことには気付かれないだろうと思いたい。
はじめは自分と違う環境に居る女の子への興味だけだったのに、今じゃわざわざ理由を作ってメッセージを送っているなんて、自分が自分じゃないみたいだ。そしてなかなか彼女からの返事が無い時には、気に触ることを送ってしまったのでは? と過去の送信内容を読み返す。俺が誰かにここまで気を遣うのは人生初である。


「……やべ。答えにくいかなコレ」


そういえば将来の話をする時には、というかバイオリンの話をする時の白石さんはいつも浮かない様子だ。それを察していたくせに俺は、自分の悩みに繋げるために無神経なことを送ってしまった。あいにく既に既読だし、万が一未読だとしてもメッセージの取消なんかしたら怪しい。どうしよう。返事を待つ? 続けて全く別の話を送ってみる?

昼休みのあいだずっと画面と睨めっこしていたので、危うく五限目の体育に遅れるところであった。しかしぎりぎりで着替えを終えて授業を受け、教室に戻ってきた俺には、うれしいご褒美が待っていた。


『また会いに行ってもいいですか』


質問の回答にはなっていない。が、メッセージの返信としては素晴らしいものだった。もちろん俺の回答はイエスである。



しかし俺たちの時間はあまり頻繁には合わない。俺は放課後になるとほぼ毎日部活があるし、土日も半日は練習で潰れる。対して白石さんはバイオリンのレッスンと、聞くところによると他にも英会話を習っているようだ。どんな英才教育だよ。
というわけなので、予定が合ったのは週末の午後となった。


「ごめんね、日曜日なのに」
「や。俺、平日は遅い日が多いから」


待ち合わせ場所は分かりやすく仙台駅にした。日曜だからかなり人が多くて申し訳ないけど、これだけの人混みなら学校のやつらに見つかりにくいと思ったから。目撃されたら絶対あとから茶化されるに決まっているのだ。


「念のためなんだけどさ……今日はバイオリンの日じゃない?」
「え?」
「いやっ、この前みたいなことになったら良くないかなと」


先日、白石さんは俺の部活の試合を見学するためにレッスンを休んだ。しかも無断で。おかげで親にこっぴどく叱られたというのだから、今回もそうだったら大変だ。


「サボってないよ。大丈夫」
「……そっか」
「でも、学校のお友だちと会ってくるって嘘ついちゃった」
「へ」
「面倒くさいよね、私の家」


そう言って笑ってはいるものの、白石さん自身は窮屈に感じているのが伺えた。小さいころからそんな環境で育ったはずなのにそれを当たり前だとは思わず、少し嫌気がさしているようだ。

だけど、白石さんの両親がそれほど娘を大切に箱入りにしたくなる気持ちも分かる。白石さんは俺みたいなのからするとあまりに可憐で清純で、汚してみたらどうなるんだろう? と思わせる恐ろしさがあった。おまけに平日は鈴ヶ丘の制服を纏っているときてる。そりゃあさっさと家に帰らせたいだろう、俺のような不良に絡まれる前に。


「でもね、お父さんもお母さんも凄い人なんだよ。おじいちゃんもおばあちゃんも。だから、私も何か凄いことしなきゃいけない気持ちになる」


家のことを少し鬱陶しいと感じている反面、白石さんは家族のいいところを挙げ始めた。……が、やっぱりそれらは彼女自身を追い詰めているような感じ。母親はチェリスト、父親は指揮者? 祖父母も俺が手も足も出ないような職業で、サラリーマンとパートをしているだけの自分の両親と比べてしまった。いや、俺の親だって一つや二つくらい凄いところはあるはず。全然知らないけど。
色々と考えながら聞いていたので、俺の口はぽかんと開いたままになっていた。それを見た白石さんは俺がつまらなそうにしていると思ったのか、慌てて両手で口を押さえた。


「……ごめん! 愚痴ばっかり」
「え、いや……だいじょぶ。俺の周りなんかみんな愚痴ばっかだよ」
「そうなの?」
「授業だりー、テストだりー、練習だりー」
「あはは」


くだらない冗談で笑ってくれるのは有難かった。俺は重苦しい話が苦手だから。


「……あと、進路考えんのダリィ」


でも、ついつい口をついて出たのは自らの悩みごと。こうして白石さんと会っている楽しい時間も、頭のどこかで無意識に考えていたらしい。


「……進路か。進路」


白石さんも繰り返し言葉に出して、その後黙り込んでしまった。
そうだ、俺は白石さんとその話もしたかったのだ。せっかく会えたのに乗り気じゃない話をさせて悪いとは思うけれども。


「白石さんは音大? ……だっけ?」


何気なく、たった今思い出しましたーみたいな白々しい演技をしながら聞いてみると、白石さんはこくりと頷いた。


「……の、予定。に、なるのかな」
「そういや、バイオリニストになりたいわけじゃないって言ってたっけ」


これも猿芝居。俺はずっと覚えていたし気になっていた。白石さんがバイオリンの話をする時、楽しそうではないことを。


「よく覚えてたね」
「や、まぁ。うん」
「私、二口くんにそんなこと話してたのも忘れてたよ」


白石さんのほうは覚えていなかったらしく複雑だったけど、俺がどれだけ白石さんのことを考えているのかは分かってもらえるだろうか。ちょっと気持ち悪いかな俺。しかし白石さんは素直に話を始めてくれた。


「本当はね、保育士さんになりたいの」


あまりにも突然その単語が出てきたので、心の準備が出来ていなかった。というか、こんなデリケートなことをすぐに打ち明けてくれるとは思わなかったので。


「……保育士」
「あの、ほら保育園とかの」
「そ、それは分かるよ。けど……」


白石さんが保育士、単純に似合いそうだ。しかし家柄からは似合わない。立派な職業なのに似合う・似合わないを判断するのは大変失礼でおこがましいことだとは思うが、予想もしていなかったので驚いた。


「私の家は両親とも忙しくって、小さいころから保育園に預けられてたの。あ、それ自体は全然構わなかったんだけどね」
「うん」
「保育園の先生がすごくいい人だったから。迎えが遅くて泣いてる時も、ずっとそばに居てくれた」


白石さんは両親が忙しい人だったと聞く。保育園に預けられている時間が長かったのだと思う。そして、恐らく、本当に赤ん坊のころからそうだったのかも。


「だから、保育士になりたい?」
「そう」
「へー……」


俺は心から感心した。けれど客観的には全然興味がなさそうな相づちに聞こえたのかもしれない。


「なんか、ぼんやりした動機だよねぇ」


と、白石さんが照れくさそうに言ったのだった。ぼんやりだなんて思ってない、むしろちゃんとした理由に聞こえる。なにせ俺は自分の意志で「コレをやりたい」「アレになりたい」という目標が無いのだ。


「そんなことないと思うけど。白石さん、すげーちゃんと考えてる」
「そうかな」
「ずっと続けてきたバイオリンよりそっちを選べるってことは、そうなんじゃね?」


普通なら、継続してきたことをそのまま活かすんじゃないかと思う。俺ならたぶんそうする。まあ、俺は自分で考えようとしない人間だからかもしれないけど。


「選べるかどうかは分かんないけどね……」


しかし、白石さんはまだまだ浮かない顔だった。どうしてそこで「分かんない」と言うのか、俺にはそれが分からなかった。選ぶのは自分なのだから、自分が決めた道を進めばいいのでは?


「……まだ親に言えてなくて」
「言えないの?」
「言えないよ。絶対怒られる」
「でも白石さんの人生じゃん」
「そうなんだけど」
「親に何言われたって関係ないと思う」


少し強引かもしれない。けど、白石さんには俺とは違いやりたいことがあるんだから、是非それを優先してほしいと思えた。たとえ親に反対されたとしてもだ。何も法律違反を犯そうと言うのではない、「保育士になりたい」と言うだけなのだから。


「逆らったこととかねーの? 親に」


まさかとは思うけど。俺なんか親の言うことなんて無視しっぱなしだ。さすがに最近はああだこうだ反抗したりしないけど、中学の時なんかは最悪だったと思う。けれど白石さんはさすがと言うべきか、ふるふると首を振った。


「レッスンさぼったのも、このあいだが初めてだから」
「門限破ったことは」
「ないよ! 急な学校の用事とか以外は」
「じゃあ破ってみる? 今日」


半分冗談で、半分本気の提案だった。親の定めた門限、しかも夕方六時という時間なんて破ってしまえばいい。死にはしない。


「え……」


それでも白石さんは目を見開いて、まるで信じられないといったような表情を見せた。そんなにびっくりするような話なのだろうか。門限破っちゃおうぜ、なんて思春期ならば当たり前だと思っていた。


「……や、まあ、冗談だけど……」


あまりのギャップだったので、俺は自分が恥ずかしくなる。俺のような考えを持つ人間が白石さんを連れ回そうなんて、到底釣り合わないんだ。白石さんだって今ので「こいつとは意見が合わない」と思っただろう。
時間を戻したい。門限を破ろうという笑えない冗談はかき消したい。忘れてもらうために別の話を振ろうかと、「ええと」と意味無く発した時だ。


「破る」


空耳かと思った。だからスルーするかどうか悩んだ。でも白石さんが神妙な面持ちでぎゅうっと拳を握っていたので、まさかと思い聞き返す。


「……へっ?」


間抜けな声になってしまったけど、白石さんはひとつも笑うことなく俺を見た。これまでの人生で道を踏み外したことなんか無いのだろう、すごく透き通った目だ。
ごくりと息を呑む音が、自分の喉から聞こえた。それから次に聞こえたのは、「やってみたい」という白石さんの強い言葉であった。