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臆病者の夢の跡


「白石さん……」


その姿を確認し、それが彼女であると認識した時、俺は自然と名前を口にしていた。この一週間まったく音沙汰のなかった女の子が突然現れたのだから仕方ない。
俺の周りでは部員たちが口々になにかを言っていた。「鈴が丘だ」「二口さんの彼女?」「ばか、どつかれるぞ」なんて好き勝手なことを。だけど俺はそれらに突っ込むのも忘れて、そこに立つ白石さんをぽかんと眺めていた。


「先帰っとくわ」
「え」


我に返ったのはこの言葉のせい、または誰かに背中を叩かれたせいなのだが。俺が動かないところを見てなにかを察した部員はぞろぞろと帰って行った。通り過ぎる時、白石さんに会釈ををするのを忘れずに。そして、白石さんも彼らにぺこりと頭を下げていた。


「……ごめん。邪魔したかも」


白石さんが気まずそうに言った。みんなで下校するところを邪魔してしまったと感じているようだ。


「いや、大丈夫だけど……全然、いいんだけど」


毎日毎日一緒に過ごすバレー部のやつらと、今日だけ別々に帰ることくらいどうだっていい。
それより聞きたいことが沢山だ。でも何から言えばいいのか分からない。なんで連絡くれなかったんだよとか、返事待ってたんですけど? とか、言いたいことは様々ある。
でも俺は白石さんの彼氏でも何でもないのに、連絡が途絶えていたことを責める権利なんてあるのだろうか。

ひとまずここは校門だ。部活や自習を終えた生徒も帰り始める時間帯。「とりあえず、あっち」と駅から反対方向の道を指し、俺たちはゆっくりと歩き始めた。


「……」


だけど、なかなか言葉は見つからない。俺は混乱しているのだ。こうして会えたことは嬉しいのに何も言えない。一歩間違えれば、この一週間どうして連絡を寄越してくれなかったのか責める言葉を放ってしまいそうで。


「ごめんなさい」


とうとう先に白石さんが立ち止まり、深く頭を下げた。怒っていると思ったのかもしれない。だけど俺は怒ってなどいない。そりゃあ少しムッとしたけど、謝ってほしいわけじゃない。


「ずっと返事ができてなくて。二口くん、たくさん連絡くれてたのに」


白石さんは申し訳なさそうに続けていく。俺のメッセージは電波障害などもなく、無事に届いていたようだ。そして俺への返事が滞っている自覚もあった、と。


「俺は別に……、何かあったのかなって思ってただけだから」
「でも、ずっと無視してるような感じになっちゃって……」


まさにそのとおりで、ずっと無視されてきる気分だった。あんなに嬉嬉として試合を見に来ていたくせに、って思ってた。でも白石さんに限って無視なんかするはずがない、何か事情があるはずだとも思っていた。そして、どうやらそれは当たりだった。


「今朝まで取り上げられてたの」


そう言いながら白石さんは、鞄の中からスマホを取り出した。予想外の展開に、俺はまた混乱した。


「……え? 何を……スマホ? 親に?」
「そう」
「え、なんだそれ……え」


親にスマホを取り上げられる。中学生か? いや、高校生だってもしかしたら没収されることもあるかもしれない。でも白石さんが、スマホを没収されるような使い方をするとは思えない。


「普通おかしいよね……分かってるんだけど。でも私が悪かったから」
「悪かったって?」


重度の課金をしたりゲームに依存したりするようには見えないが、もしかして? そういう理由なら没収にも納得はいくが、まさかこの子に限って? 俺は白石さんの言葉に恐る恐る耳を傾けた。


「……実は先週の土曜日、バレーボールを見に来た時……私、バイオリンを……レッスンを……」


まるで重い罪を告白するかのような空気。白石さんの声はそこで止まった。そこから先はとてもじゃないが口に出来ない、とでも言うかのように。それでも俺は理解した。白石さんの罪を。


「……サボった?」


白石さんは、俺の問いかけに対してこくりと頷いた。
なんと練習試合を見に来てくれた時、白石さんはレッスンをサボっていたというのだ。そうとは知らず浮かれていた俺だけど、わざわざ大事なレッスンを休むくらいなら無理に来なくてもよかったのに。しかも「サボった」という言葉を使うってことは、文字通りサボったのだ。誰にも言わずにこっそり休んだってこと。あの日、白石さんがスマホの着信に顔色を変えたのはそういうことだったのか。


「途中でそれがお母さんにバレちゃって。電話が来て、ごめん。あの時、急に帰ったりして感じ悪かったよね」
「そんなこと……ていうか、そこまでしてくれなくても」
「いいの! 見たかったんだもん」


そこで白石さんは俺の言葉を遮った。彼女がこんなに勢いよく喋るなんて滅多にない。だからビックリした、白石さんの目が驚くほどきらきらと輝いていたせいもある。


「見られてよかった」


ドキッとして、俺は息をするのも忘れた。見られてよかったというのは、俺を? 試合を? バレーボールという競技を? そんなことを聞き返すなんてナンセンスだ。だけど気になる。白石さんがバイオリンをサボって、親にスマホを没収されてまで、何に感動してくれたのか。


「二口くん、素敵だったよ」


ごくりと息を呑んだ音が、白石さんに聞こえていなきゃいいけれど。いや、そっちが聞こえてなかったとしても俺の心臓は? かなりうるさい。苦しいくらいに。誤魔化したいのに声が出ない。数々の事柄と引き換えに白石さんが得たものが、得たかったものが、俺の勇姿? いやいやいや。


「……」


不自然なくらいの沈黙だった。白石さんも白石さんで、自分の発した言葉を思い返して絶句しているようにも見える。え、さっきのって失言だったの? 俺、ばっちり心に響いちゃってるんですけど。
何かしなくては、何か言わなくては。でも何を? そんな時は決まってキョロキョロしたりスマホに目を落としたりするのだが、今回もチラリとスマホを見た俺は現在の時刻が目に入った。五時四十分。まだ空は明るいが、これは問題だ。


「……もうすぐ六時だけど」
「うん」
「帰らなくてもいいの? 門限……」
「……」


帰ってほしいわけじゃない。でも、恐らく白石さんの家は厳しい。六時を過ぎて帰宅した場合、なにかペナルティがあるのでは? 俺に構っているせいで帰宅が遅くなるのは絶対によくない。
それなのに、白石さんは何も言わないし動こうともしなかった。むしろ動きたくないようにも見える。もしかしたら、それは俺の願望かもしれないけれど。


「もし白石さんが帰りたくないなら、俺は」


ついに俺は口走った。白石さんが帰りたくないのなら、俺はいつまででも一緒に居られる。帰りたくなれば暗くなってからでも送って行くし。どこかで羽を伸ばしたいならそれも付き合う。でも、そんな誘いをしていいのか?


「……俺は?」


白石さんは静かに聞き返してきた。やばい、言わなきゃよかったかもしれない。でもこの白石さんの目、まるで続きを言えと訴えているみたいだ。そうすればそのとおりに従うとでも思っているかのよう。


「俺は……」


どうしてここでハッキリと言えないんだ、俺って人間は。尻すぼみになる自分の声が嫌になった。
白石さんはしばらくの間、俺が話すのを待っているように見えた。だけど俺にその度胸がないのだと分かった時(度胸がない、なんて白石さんは感じちゃいないだろうが)、ちいさく笑って言った。


「……ごめん。ちゃんと帰る」
「え」
「帰らなきゃ」


俺なんかよりも白石さんのほうが冷静だ。現実を見ている。こうしているあいだにも時計の針は進む。だから白石さんは駅に向かって歩き始めた。でもここですんなりと別れるのは駄目だ。


「あ……あのさ!」


白石さんは足を止めたが、すぐにはこちらを振り返らない。それでもいい。俺は背中に向かって話し始めた。


「俺、バカだし育ちも悪りーから全然わかんないけど……でも、なんか困ったことがあったら言ってくれていいから」


門限があるとか、ファストフードを食べたことがないとか、連絡サボってスマホを一週間も没収とか、本当は将来別の何かになりたいとか。俺はしがない工業高校の生徒で、向こうは県内屈指のミッション系お嬢様学校とか。色々あるけどハッキリ分かる。俺は白石さんに惹かれてる。好きなんだと思う。だけど伝える覚悟もなければ勇気もない。今言える精一杯がコレだなんて、俺が第三者なら鼻で笑ってるところだ。
それでも白石さんは、もちろん俺を笑ったりしない。最後まで振り向いてくれることはないと思っていたが、「ありがとう」と言う時だけはこっちを向いた。