08
明滅するシアター


練習試合の日はすぐにやって来た。
結局、場所は伊達工の体育館を使うことになったので白石さんに住所を送っておいた。明らかに箱入り娘のような彼女が、ひとりで地図を読めるのかどうか少々不安だったけど。無事に試合開始の十五分前には到着し、ひょっこりと顔を覗かせていた。


「……なあ。あのこ誰」


俺よりも先に白石さんに気付いた部員の誰かが、チラチラと視線をやりながら言った。
その様子だけでも俺は分かってしまった、白石さんが来たのだと。そして体育館の入口に目を向けると目が合って、不安げだった表情に笑顔が浮かんだ。


「彼女?」
「違うわ」


足を踏み出した俺に下世話な質問をしてきたチームメイトを軽くあしらい、白石さんのもとへ歩み寄る。知らない人間ばかりの初めての場所なんて緊張するだろうから、少しでも不安を和らげてあげようと思ったのだ。今の白石さんは、体育館に入っていいのかどうか判断できずに立ち尽くしている様子だし。


「えっと……入ってもいい?」
「どうぞ。場所、分かりづらかったでしょ」
「ううん!」


白石さんは首を振ると、靴を脱いで下駄箱に入れた。下駄箱の中には来賓用のスリッパが並んでいて(そのあまりの乱雑さに少し恥ずかしくなった)、比較的綺麗そうなものを白石さんの足元に置いた。誰かにスリッパを用意してやることなんか人生初である。

体育館内では間もなく始まる試合に向けて、両校が身体を動かし声を出している最中だった。もちろん男の声ばかりで、時折互いのマネージャーの声も響く。白石さんは空気に圧倒されている様子だ。


「すごい活気だね」
「まあ……。あそこ、観に来てる人が集まってる席。空いてるとこに座って」
「うん」


部員にちらちら見られているせいか、うまく喋ることが出来ない。ひとまず白石さんを設置された観客席に座らせることにした。今日は運良く滑津の友人も居るので、その近くなら座りやすいだろうと思って。


「あの、頑張って」


俺が離れようとした時、白石さんがちいさくガッツポーズをしてくれた。まさか応援してくれるとは思わなくて、いや、もちろん応援しに来てくれたんだとは思うけど、言葉で「頑張って」と聞けるとは予想しておらず。一瞬ひるんだ俺は「もち」と応えるのみだった。「もち」ってなんだよ、何様だよ俺。


「気を引き締めてよね、キャプテン」


一部始終を見ていたらしい滑津は、俺が戻るとしらじらしく言った。わざと「キャプテン」という単語を使って、だ。


「……うるせーないちいち」
「緩んでそうだから指摘してあげたんでしょ」
「緩んでねんだよ」


俺は決して緩んでなどいない。知り合いの女の子が観に来ているからって、浮ついていいところを見せようなんて思っていない。今日のは練習試合とはいえ、春高出場に向けての大切な時間なのだ。


「二口さん、いいとこ見せましょうね!」
「うるせえマジで……」
「ギャッ」


それなのに、同じく一部始終を見ていた黄金川は余計な気を回してきた。しかも勝手に色々解釈している気がする。俺と白石さんは、まったくもってそういう関係ではないと言うのに。「じゃあどういう関係?」と聞かれると、答えられないんだけど。



練習試合は無事に二セットを先取することが出来、伊達工業が勝利した。
まだまだ時間も早いので二試合目をやろうという話になり、各々十五分の休憩が与えられた。正直、試合中に白石さんの目をあまり気にせず出来たのは予想外だ。いい意味で。俺ってちゃんとそういう切り替えのできる男だったんだな、とささやかに自分を褒めた。


「勝ったね、おめでとう!」


自分が誘っておいて放ったらかしにするのは良くないと思い、俺は白石さんに感想を聞きに行った。俺が話しかける前に上記のような言葉をくれたので、一応ちゃんと見てくれたようだ。


「ありがと……えっと……どう? つまんなくない?」
「まさか。二口くん凄いよ、凄い迫力!」


いわゆるお嬢様にとっては、ボールがコートを行き来するだけのスポーツにしか見えないのではと思ったけれど。白石さんは試合を事細かに見ていたらしくアレコレと褒めてくれて、逆に恥ずかしくなるくらいだった。


「二口くんも他の人も、大きいのにすごく機敏なんだね。びっくりした」
「ハハ……」
「本当に活き活きしてたよ。好きなんだね、バレーボール」


好きなんだね。
それは俺に向けた感心の言葉に聞こえるし、実際そうなのだろう。だけどこれまでの白石さんの様子を思い返すと、違う意味にも聞こえた。今、聞いていいのかどうか分からないが。聞けるとしたら今なんじゃないか、気になっていたあのことを。


「……白石さんは、バイオリン好きじゃないの?」


ずっと習っているはずのバイオリンのことを、白石さんはあまり誇らしげには話してくれない。楽しそうでもない。俺の思い違いかもしれないけど。むしろ、思い違いであったほうがいいんだけど。


「私は……」


白石さんは言葉に詰まった。俺にそんなことを聞かれるとは思わなかったのだろう。それに顔を伏せたところを見ると、どうやら俺の予想は当たりだった。


「本当は、バイオリニストになりたいわけじゃ……」


ぽつりぽつりと話す白石さんの声を聞き逃すまいと、俺は耳をすませた。とても言い難いことを話してくれているのが分かる。一言たりとも逃したくない。
バイオリニストになりたくないなら、どうしてバイオリンを続けてる? 本当は何か別のことをしたい? 白石さんが次の言葉を探すまでの数秒間のあいだに、質問がたくさんできた。そして、白石さんが息を吸い続きを話そうとした時だ。


「!」


俺たちは同時に固まった。鞄の中から、電話の着信音が鳴り始めたのだ。
白石さんはスマホを取り出して画面を確認すると、一気に顔が曇ったように感じた。誰からの電話? と聞こうとしたが、隠すように仕舞われた画面が一瞬だけ見えた。表示されていたのは「おかあさん」の文字だ。
鳴り止まない着信の音量を下げ、白石さんは隣の椅子に置いていた鞄を持った。どうやら今日はもう、行かなきゃならないらしい。


「……ごめん。次の試合も観たかったんだけど」
「え、いや。いいよ、こっちこそ忙しいのに来てもらって」
「ううん!大丈夫だから」


大きく首を振り、白石さんが勢いよく立ち上がった。どうせなら次の試合も見ていて欲しかったんだけど、この慌てっぷり。きっと何か事情があるはずだ。引き止めることはできない。


「また連絡するね。次も頑張って!」


俺が出口まで送るとそう言って、小走りで走って行ってしまった。鞄の中のスマホを取り出し、それを耳元に当てながら。
取り残された俺は様々な状況を予想したが、そうゆっくりと考える暇もない。すぐに次の試合が始まってしまう。白石さんにしては珍しく乱暴に脱ぎ捨てられたスリッパを片付けると、無理やり気持ちを切り替えて中に戻った。