だいきらいな温もり
(後編)



「倫太郎くん、ホントに兵庫に行っちゃったんだね」


思い出さないようにしていた事を抉られたのは、思わぬ身内の言葉だった。高校一年になったばかりの春、夕食の支度をしていお母さんが倫太郎の名前を口にしたのだ。うちのお母さんと倫太郎のおばさんは時々喋る事があるみたいで、どうやら今日も会っていたようだった。


「うん。そうだよ」
「いいの?それで」
「……いいのって?」


台所で野菜を切る音のほうを向くと、お母さんは目線は野菜に向けたまま話を続けた。


「あんた、倫太郎くんが好きなのかと思ってたから」


ザクッ、と気持ちのいい音をたてて切られたキャベツとともに、私の心も真っ二つにされた気分。
幼稚園くらいの時に「倫太郎と結婚する!」とか冗談で言っていたくらいなのに、私がまだ倫太郎を想っている事を知られていたようだ。親って恐ろしいけど偉大でもあると思わされたのは、お母さんがそれを、私の顔を見ないように言ってくれた事だ。


『元気にしてる?』


その夜、私は初めて引っ越した後の倫太郎にメールを送った。いつかは送りたいと思っていたから、ちょうどいいやと思って。返事が無かったらどうしよう、既読のまま放置されたらどうしようと思ったけど、意外にもあっさりと返信されてきた。


『まあまあ』


しかしその内容は、倫太郎らしいと言えばらしいんだけれど。あまりにも素っ気なくて、十年も一緒に育った幼馴染へのメールにしては味気ないのでは?と眉をひそめた。
けれどせっかく返事が来た事だし、あまり突っかかるような事は言いたくない。世間話で繋げてみようと思って、新しい高校での生活について話す事にした。


『私、また由梨と同じクラス』
『へえ』


ところが同じ中学で共通の知人である女の子の名前を出しても、こんな調子。倫太郎と仲の良かったバレー部仲間はどの高校に行ったとか、誰それは都内の有名な高校に行ったとか、そんな話をしても『そうなんだ』『すごいね』程度の事しか返って来ない。いつもメールでのやり取りは長文でないにしろ、こんなに冷たくは無かったはず。
いろんな話題を振っているのにずっとこの調子だから苛々して、つい私はこんな事を送ってしまった。


『興味ないの?』


既読の表示はすぐに付いた。けれど今まで続いたメールはそこで途絶えてしまい、いつまで経っても返事が来ない。私は寂しい気持ちを隠して普通の会話しか送っていないのに、どうしてわざわざ淡々とした返事ばかりするの。引っ越したからもう私の事はどうでもいいの?たった二人きりの幼馴染なのに。私がその関係を壊そうとした事に気付いて、切り離そうとしているの?もうこっちの人間とは連絡を取りたくないの?


『こっちには、夢、ないの?』


絶対に聞いてはいけない事だと分かっていたにも関わらず、気持ちのままに送り付けた。
それから暫く画面を見つめていたけれど、それ以降は既読が付く事はなくて。どうせこんな勢い任せのメッセージにはろくな返事が来ないと分かっているのに、もしかしたら私が怒っている事に気付いて優しい言葉をかけてくれるのではないかと、握り締めたスマホを離す事が出来なかった。

翌日になると既読にはなっていたのに返事が来ていなくて、私は力任せにあるものをベッドに叩き付けた。格好悪いって分かってる。惨めだって分かってるけど。倫太郎から貰ったマフラーに思いをぶつけなければ、涙を堪えることが出来なかったのだ。




「……さむ」


屋内とはいえ暖房の効かない体育館。突然ぶるっと身体が震えて肩をすくめた。私はポケットに入れていた手袋を出して、それを両手にはめた。倫太郎はと言うと、マフラーをぐるぐる巻きにしてコートのポケットに手を突っ込んでいる。


「マフラーしてこなかったんだ」


手袋をした手を擦り合わせる私に倫太郎が言った。
そう、マフラーさえあればこの寒さも少しは凌げていただろう。けれど私にはどうしても、使いたくない理由があった。今日だけじゃなく今年は一度も使っていないし、去年の冬もずっと押し入れの奥に仕舞われたまま。


「こんなに寒いなんて思わなかったから……」


本当は天気予報を見れば、どの程度の防寒が必要かなんて予測できた。でも、あのマフラーからは倫太郎の匂いがするから。他の市販のマフラーを買ったとしても、倫太郎が東京を離れてしまう時の事を思い出してしまうのが辛いから。
誤魔化してしまったけど、どうやら彼には分かっていた。私の首元が無防備である理由が。


「本当にそれだけ?」


倫太郎は露わになった私の首に目をやりながら、分かり切った質問をした。恐ろしい。どこまで見透かされているのかと思うと。嬉しい。私の事をそんなに理解しているなんて。彼は私が、単に気温を読み違えたのではない事に気付いている。


「……あれ使ってたら……倫太郎のこと、思い出すから」


赤くなった首元を温めるように、あるいは隠すようにして、私は自分の首を手袋をはめた手で包み込んだ。
倫太郎のことが好き。離れている事を実感すればするほどに。寒さを凌ごうと思えば思うほどに。
彼のくれたマフラーは温もりを与えてくれる代わりに、言いようのない虚無感を感じさせるのだった。とうとうそれに耐えきれなくなった私は寒さを選んだ。風邪は薬で治るけど、寂しさはどうやっても埋まらないから。


「だから使えない。使ってないの」


広い体育館の隅っこで発した私の声は、やけに館内に響いた気がした。

倫太郎はしばらく何も言わずに膝の上で指を絡めていたので、言わなきゃ良かったかなと思えた。でもどうせ今日は気持ちを伝えに来たのだ。本当は帰り際に告白しようと思っていたけど、こうなったら今知られても構わない。倫太郎が好き。倫太郎のにおいを感じる事が、苦しいと思えるほどに。

それなのに突然、私の鼻にとても良い香りが漂った。同時に、さらされていた首元に柔らかいウールの感触。驚いて視線を下げると、先程まで倫太郎の首を覆っていたネイビーのマフラーが自分の首に掛けられているのが見えた。


「え……」


続けて隣を見れば、倫太郎がマフラーを私に巻き付けている。一気に顔が熱くなった。だってこれはあの日と同じシチュエーションで、それなのに倫太郎の瞳だけがあの時よりもぐんと大人びて、落ち着いているのだ。


「使っていいよ」


そう言って、倫太郎はマフラーから手を離した。
暖かい。倫太郎のにおいがする。倫太郎の温もりを感じる。倫太郎が満足そうに私を見てる。


「い、要らないっ」
「風邪引くよ」
「いいもん」
「よくない」


マフラーを外そうとする私の手を、倫太郎が上から掴んで制した。こんなに力、強かったっけ。もう倫太郎の顔はすぐそこで、切れ長の目は私の姿を隅から隅まで見逃すまいとするように澄んでいた。もう見られている。隠せない。熱くなった目頭も、ずっと言えなかったこの想いも。


「俺のこと、思い出すのが嫌なんだ」


私の手から力が抜けたのを確認すると、倫太郎はゆっくりと手を離した。その手は再び膝に置かれた。ただし彼自身のではなく私の膝の上で、私の手を包むようにして。


「俺は今も思い出すよ。すみれの事」


ぎゅうっと力が込められるのを感じる。倫太郎の手は思いのほか汗ばんでいて、そして、思いのほか大きかった。


「……うそつき」
「嘘じゃない」


倫太郎が今も私の事を思い出すなんて、とても信じられなかった。引っ越してからというものメールの返事も滅多に寄越さず、返ってきたとしても素っ気ない。どう考えても私の事を忘れたい、あるいは邪魔だと思っているに違いない。だって倫太郎は夢を求めてここに来たのだから、もう、私たちの住んでいた町には夢が無いのだから。
だから貴方の言う事は信じられない、と私は唇をつんと尖らせて体育館の床を睨んだ。その態度が昔、喧嘩をして機嫌を損ねた時の私と一緒だったのが面白かったのか、倫太郎がくすりと笑うのが聞こえた。


「忘れた?それ、すみれがくれたやつ」


それ、が何を指すのか一瞬分からず倫太郎を見上げる。すると彼の目は真っ直ぐに「それ」を見ていたので、すぐに分かった。たった今私に巻かれたこのマフラーだ。


「くれたって言っても、うちのポストに突っ込まれてたんだけどね」


懐かしむように宙を見る倫太郎の視線の先を、私も追った。そこに答えがあるわけでは無いのに、同じ過去の景色が見えるのではと。すると不思議な事にどんどん記憶が甦ってきたのだ。一生懸命忘れようとしていた、中学三年のクリスマスの事を。

二年前の今日、倫太郎は兵庫で稲荷崎高校の練習に参加していた。私との約束を置き去りにして。既に用意していた倫太郎へのプレゼントは直接渡すことが出来ず、後日渡しても受け取ってもらえないのではと思って、倫太郎の家のポストに無理やり押し込んできたのだ。そのプレゼントが先程まで倫太郎の首を守っていたマフラーで、今は私の首に巻かれているもの。


「使ってたの……?」
「使うよ。そりゃあ」


二年間、私の存在なんて無かったかのように振舞っていたくせに。私からのプレゼントを捨てずに受け取って、兵庫まで持って来ていた。首に感じる感触だけでも分かる。倫太郎がこれを普段から使ってくれている事が。


「変わんないね。二年経っても」


マフラーを見下ろしていた私に、倫太郎はさっきと同じ言葉を掛けた。けれど言葉に込められた意味が先程とは違うものであるのを、私は気付いてしまった。普段ならこんな些細な事に気付くような女じゃないのに。今日に限って、咄嗟に鈍感である振りをしなければならないなんて。


「……運動が……へたなとこ?」


私もさっきと同じ言葉で質問を返した。もちろん言葉の裏に込められた意味は違う。私と違って普段から敏感な倫太郎は当然それに気付き、下手くそな演技を笑った。馬鹿にしてるでしょと彼の手を払えばさらに目を細めて、


「そういうところ」


と、払われた手を再び伸ばして私の初めてを奪い取った。優しかったはずの手は力強く私の頭を押さえ付け、やや乾燥した唇が私から潤いを奪うかのように、けれど私が枯れ落ちないように。
息が苦しくて、思わず倫太郎の身体を押し返したけれど意味は無かった。二年間、何度も何度も私を拒絶したくせに、今になってこんなにも離そうとしない。いい加減に窒息してしまう。頭がぼうっとしてしまったのは酸素が足りなくなったからか、あまりにも心地良かったせいなのか?やがて互いの唇が離れてしまった時に名残惜しさを感じたので、きっと原因は後者のほう。


「……倫太郎」


自分でも驚くほど高揚した声で、好きな人の名前を呼んだ。倫太郎はもしかしたら嬉しかったのか、そうだったら良いんだけど、別人のような優しい手付きで私を撫でた。


「夢ってなかなか叶わないって知ってる?」


ぐしゃぐしゃになった私の髪を撫でつけながら倫太郎が言った。


「え……?」
「入りたいチームに入れても、それだけが夢の完成形じゃない事とか」


手が髪の毛から頬へ、頬からマフラーへ。マフラーから私の手へ降りてきて、指の一本一本を丁寧になぞって行く。その動きが見たことの無い官能的なものだったので、思わず目を奪われた。


「夢って、ひとつとは限らない事とか」


二人合わせて十本の指が絡み合って、小さな時から何度も思い描いた光景が形作られる。想像よりもずっと大きいので、まるで大人が子供の手を取ってあやしているかのようだ。
倫太郎の夢が何なのか、私はあの時初めて知らされた。そして悟った。私がそばに居たのでは、叶える事が出来ないのだと。だから私は倫太郎を忘れなくてはならないのに、今日を境に終わらせようと思っていたのに、喉から手が出るほどに焦がれた倫太郎の手が私を離さないでいる。


「今日、来てくれるの待ってた」


この言葉を聞いた時、私は顔を上げた。今日の約束を言い出したのは私だし、偶然休みだから会ってくれるだけだと思っていたのだ。待ってたなんて、想像もしていなかった。


「すみれが俺に会いに来るって言った時、言うかどうか迷った」


絡ませた指に力がこもる。私の手、このまま握りつぶされてしまいそう。その加減が出来ないくらいに倫太郎の気持ちは高まっているのだろうか。それほど私に言いたかった事っていったい何なの?


「すみれも俺の夢だよ」


そんな事あるわけが無いって思ってたし、私を置いて兵庫県まで来た人が、そんな事言うはずが無いって思ってた。離れ離れになった頃、私は一度聞いたから。「こっちには夢がないの?」倫太郎は答えなかった。それを肯定だと捉えた私は涙が枯れるほど泣いたと言うのに、まさか否定の意味だったなんて。


「……じゃあ……どうして……私に、早くに言ってくれなかったの」


推薦を受けて遠くの高校に行く事を。分かった時点で言ってくれれば、私は恐らくすぐにでも気持ちを伝えただろう。意地を張る事無く。


「言ったら私が、泣くと思ったから?」


あの日も私は同じ事を聞いた。泣くと面倒くさいと思っていたから、言わなかったのかと。けれど今、目の前にいる倫太郎は私の頬に唇を寄せて、かすれた声で言った。


「俺が泣いちゃうからだよ」


この時の倫太郎がどんな表情をしていたのかは、きっと一生分からないままだ。私の肩に顎を置いて、抱き締めているのだから。
背中に回された手が、今日のために買った私のコートを強く掴んでいるのが分かる。それと同時に鼻をすする音がして、顔は見えないけれどすぐに分かった。倫太郎が泣いてる。私を抱き締めながら、私を想いながら。 そんなのってずるい。私だってずっと、この腕の中で泣きたかったのに。


「……あのね、今日……告白して、だめならもう……会わないって、思ってた」


途切れ途切れに伝えると、倫太郎はゆっくりと身体を離した。彼の顔は驚きに満ちていたので、私がまさかそこまで覚悟していたなんて思っていなかったのだろう。


「本当?」
「だって……会わなかったら、忘れられるから」
「二年会わなくても忘れられなかったくせに」
「それはっ、」


それは倫太郎が勝手に引っ越してしまうから。夢だなんだと言って離れてしまったから!
文句を言ってやろうとしたのに、ずっと我慢していたものが溢れてきて言えない。あの日流せなかったぶんまで涙が溢れているみたい。


「……すき」
「うん」
「大好き」


温かい涙の筋が何本も頬を伝って、マフラーを湿らせていく。 倫太郎は私の泣き顔があんまりおかしかったのか、ふっと笑って言った。


「やば。夢みたい」


それからすぐに倫太郎の胸へ顔を押し付けられたので、笑ったのは私の顔が変だったからじゃなくて、幸せだったからなのだと理解した。夢みたいって言うけれど、これが夢だったんでしょ。顔を埋められたままそう言ってやると、もう一度倫太郎が笑うのが聞こえた。


「ごめんね。あっちじゃ夢、ふたつとも叶えるのは無理だったんだ」


それを聞いて、私は過去のすべてを繋げることが出来た。苛立ちのまま送り付けた「こっちには夢がないの?」というメールが彼をどんな気持ちにさせたのかを、何故それ以降返事が来なかったのかを。


「……あのね」
「何?」
「行きたいとこ、思い出した……」


もぞもぞと動きながら伝えると、倫太郎は私の肩に手を置いて身体を離してくれた。今日どこに行くか、全く考えていなかったけど。たった今思い出したのだ。ずっと行きたかった場所があった事。


「クリスマスツリー、見に行きたい」


イルミネーションを見に行こうと約束していた、あの時のクリスマス。二年遅れだけれども叶えたい。二人で巨大なツリーを見上げながら綺麗だと笑って、どちらからともなく手を取り合って、そして好きだと伝えたい。


「それは、すみれの夢だったわけ?」


倫太郎は立ち上がると、まるでお姫様を扱うように手を差し伸べた。
夢だよ。おかしい?そんな皮肉は心に仕舞おう。今日はせっかくのクリスマスイブで、せっかくの初めての土地で、せっかくの大好きな人と夢を叶える事が出来たのだから。「そうだよ」と私が手を重ねると倫太郎は勢いよく引っ張って、これでもかって言うくらい強く強く抱き締められた。これも二年越しの倫太郎の夢、だったりして。