03
鮮やかな手のひらで返して


部活帰りに鈴が丘の女子を助けてから、数週間が経過した。
二学期が始まって慌ただしくなっていたのもあり、また、いちいち言いふらすことでもないかなと思って、あのことは誰にも言っていない。自分の勇気を自慢しているように聞こえたら嫌だし、誰かに話せば絶対「なんでお礼を断ったんだよ!」と非難されるに決まっている。恥ずかしながら、俺も第三者の立場だったら面白がって「連絡先聞けばよかったのに」と茶化すタイプの人間だから。

そのうちあの出来事の記憶は薄れていき、俺の頭は進路に悩んだり部活に励むので一杯になっていた。特に進路希望は提出期限を過ぎていて、俺は忘れているふりをしたままプリントを鞄に突っ込んでいる。第一希望から第三希望までまるっと空白だ。

だけど、近い将来どうせ何かの道を選ばなければならなくなる。先輩や先生などの周りの人に相談するのが一番いいとは思うんだけど、どうも変なプライドが邪魔をする。
その結果、今は本屋でぶらぶらと資格や職業についての本を眺めているところ。
本棚に並ぶ背表紙を左から右へ眺めていると、持っていた本を元の場所に戻そうとする人物が目に入った。ふと視界に入っただけなのでそれが特定の誰かであるとは判別できないが、女の子であることは理解した。そして、その子が本を戻すために伸ばす手が、あるべき棚の位置まで届いていないことも。


「!」


こうなるだろうと思っていたので、俺はとっさに手を出すことができた。女の子の手先から滑り落ちた本が地面に叩きつけられる前に、受け止められたのである。この本、しっかりめの分厚いやつだ。痛え。


「すっ、すみませ……」


女の子は驚きと申し訳なさとが混ざったような顔で俺を見上げた。キャッチした時に本の角が当たってちょっと痛かっただけなので、俺は「いえいえ」と軽く首を振る。はずだった。


「あ」


小さく呟くと、その子も俺を見てはっとしていた。俺たちは互いに先日のことを頭に浮かべただろう。俺は彼女を覚えているし、彼女も俺を覚えているようだった。何より今も、先日持っていたのと同じ大きな荷物を持っていたのだ。


「……ココでいいですか?」
「はい」


ひとまず、たった今キャッチした本を元の場所に戻すことにする。
先ほど彼女が一生懸命伸ばしていた腕の先には資格の本が並んでいて、ちょうどこの本が入っていたであろう隙間があった。女子の中では平均的な身長だけど、ここまで手を伸ばすのは容易じゃなさそうだ。


「あの……このあいだの方ですか?」


俺が本を戻し終えた時、ついに女の子が口にした。あの時、サラリーマンとの間に割って入ったのが俺であると確信したらしい。


「……ハイ。たぶん」
「やっぱり。何度もご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、迷惑とかじゃ……」


普段の俺は、女子との会話なんてマネージャーかクラスの数人くらいしか経験しない。工業高校を選んだおかげで異性と接する機会が少ないのだ。
それにこの子は伊達工業の女子とはかけ離れていた。制服が名門女子校のものであることも勿論だが、なんとなく、立ち居振る舞いが級友たちのそれとは違う。だからこそ気になった。あの日、俺と別れた後に何も起きなかったかどうか。


「えっと。あの後、大丈夫でした?」
「お陰様ですぐに母と合流できました」
「そっすか、よかった」


あの日の待ち合わせ相手は親だったらしい。それにしても俺に向かって話す時に親のことを「母」って呼ぶのか。そんな呼び方したことがない。


「あの時は本当に助かりました。ありがとうございました」


そのうえ俺に深々と頭を下げてみせたのも驚きだった。既に充分すぎるほどお礼の言葉を受け取ったにも関わらず。それに対して上手な謙遜の言葉が見つからない。俺ってもしかして人見知りなのだろうか。わりと社交的なつもりだったのに。


「……全然ダイジョブです。あれは俺も不快だったし」
「不快……」
「本当に偶然近くにいただけで」
「でも、」


思いのほか頑固な様子の女の子は言葉を続けようとしたが、途中で声が途切れた。
というか、遮られた。
びりびり、ドサッ!という音が足元から聞こえ、ぎょっとして見下ろすと、彼女の持っていた紙袋が派手に破れて中身が散乱しているではないか。大きなケースに気を取られて気付かなかったが、中身の詰まった紙袋まで持っていたらしい。


「あ……」


女の子はその光景に唖然としていた。俺がその立場だったとしても同じように唖然とするだろう。荷物を無理やり突っ込んだ紙袋が破れて中身をぶちまけるなんて、この上なく恥ずかしくて頭にくることだ。
しかし彼女は頭にきている様子はなく、ひたすら恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。


「や、やだごめんなさい」
「いいすよ。大丈夫ですか?」
「すみません……」
「いいですって」


その子がしつこく「すみません」と謝罪を続ける理由は、俺が一緒に荷物を拾おうとしたからだ。その場にしゃがみこんで散らばったものを改めて見ると、ホチキスで留められた紙の束の他に分厚い冊子がいくつか落ちている。あまりに珍しい本だった。俺にとっては。この子の本は、すべて楽曲を奏でるための楽譜だったのだ。


「これ……」
「へへ……重いんですよね、楽譜って」
「楽器なんですねソレ」
「はい。私、バイオリンをやってるんです」


そうか、硬そうなケースに入っているのはバイオリンだったのだ。鈴が丘に通ってるってだけで感心なのに楽器まで嗜むって、どういう家庭で育ったのだろう。


「これで全部ですかね」
「ありがとうございました……」
「……それ、持って帰れます?」


すべての本や紙を拾い終えると、女の子はそれを両手に抱えていた。拾う時にいったん下に置いたバイオリンのケースはそのままだ。どうやってこれを拾い楽譜たちと一緒に持ち帰るのか、俺には想像もつかない。そして、彼女自身も想像できないらしかった。


「……無理かもしれません」


寝転がるケースを呆然と見つめる女の子がいたたまれなくなった。それに、きっとこれも何かの縁だ。縁とか運とか全然信じたことはないけれど、なんとなくそう思った。俺も進路についての本を探していたし、この子が読んでいたのも色んな資格を紹介する本だった。恐らく同じようなことで悩んでる。自身の今後について。


「そのへんで紙袋でも買いましょ。それまで持ちますよ」


俺が提案すると最初は戸惑っていたものの、それ以外に選択肢がないと判断して頷いた。楽曲を持ち運んで壊してしまうと恐ろしいので、俺は彼女の抱える楽譜たちを持つことにする。
受け取った楽譜は想像以上に重かった。重すぎて持てないってほどでもないけど、明らかに俺より筋力のない女の子が持つのは大変そうだ。そんな話をするのはお節介なので、心の中で留めておいたけど。

都合よく本屋の上の階に百円ショップがあったので、彼女はそこで頑丈そうな紙袋を二枚手に入れた。念のためふたつに分けることにしたらしい。楽譜を紙袋に入れ終えると、またまた俺の前で頭を下げた。


「重ね重ねすみませんでした」
「いや、そんなこと」
「あのう……もし、ご迷惑でなければなんですけど」


おずおずと顔を上げながら、女の子は俺の様子を伺い始める。前回、今回とこんなことになっているので、なんとなく何を言われるのかは予想ができた。ただ、予想したからと言って俺がスムーズに対応できるかどうかは別問題。


「ご連絡先を教えていただけませんか? やっぱりちゃんとお礼がしたいんです」


表情よりもしっかりした口調で言われると、断ることはできなかった。
正直、女の子に感謝されるなんて有難くて誇らしくて気分がいい。会うのは二度目だし、二度とも俺は彼女を助けている。お礼がしたいという申し出を毎度断るのはよくないよな。それに、アイドルみたいに清楚な女の子の連絡先なんて、俺の電話帳にはひとつも入っていなかったから。連絡先の交換くらい、バチは当たらないはずだ。