25
ありふれたふたりを繋ぐもの


当初試合に集中できていた俺は、いつもと同じく牛島さんを攻撃の軸にして、普段と変わらぬ勝利の光景を予想していた。俺以外の全員がそうだったと思う。ネットの向こう側にいる人間たち以外はみんな、白鳥沢が来春の全国出場を勝ち取るだろうと。

しかし、だんだんとその予測は崩れていく。そんな事は絶対に有り得ない、あってはならないと思っていたのに、五セットの試合が終わったころにはどんでん返しが起きていて。ただそれも、手を叩き抱き合いながら喜ぶ彼らにとっては「どんでん返し」という表現は当てはまらないかもしれないが。

試合の後、学校に戻り百本サーブを終えた部員から今日は解散となった。今日で引退する先輩たちとの時間も過ごしたが、今度改めて引退祝いの会が開かれるので、そうそうに切り上げた。しんみりした空気は苦手なくせに、自分がその場にいると思い切りしんみりしてしまうから。


「未だに信じられないな……」


クールダウンのために歩いていると、横にいる太一がぼんやりした口調で言った。確かに信じられない。ついさっきの試合で勝っていれば、まだ先輩たちは引退じゃなかったのに。


「……俺はむしろ信じたくない」
「いや信じろよ」
「太一だって信じられないって言っただろ」
「俺は信じてるけど心で受け止められないだけだし」
「なんだそれ……」


さっきさんざん泣いてたくせに(俺もだけど)、澄ました顔をしやがって。どちらにしてもすぐに自分たちが最高学年となりリーダーシップが必要になる。今日はもう少しだけ、負けた事実を信じるかどうか迷う事にする。
と、変な言い合いをしながら歩いていた時だ。俺たちの足がぴたりと止まった。


「……!」


同時にもうひとりの足もその場で止まった。白石さんが俺と太一の姿を見つけて、「あ」と口を開いたところであった。


「あ、ご、ごめん……」
「いや……」


白石さんは自分が邪魔者であると思ったらしい。どう考えても邪魔なのは川西太一だったが、俺と太一が試合後の大事な話をしていると思われたのかもしれない。白石さんがその場で居づらそうにしていると、素晴らしく空気を読んだ太一が声を裏返して言った。


「……ええと。俺、トイレ」


それから白石さんに「じゃ」と言い捨て、慌てたふりをして小走りで去っていった。相手が白石さんでなければ下手くそな芝居を見抜かれていただろうが、そんな猿芝居にも今は感謝である。


「ごめんね、邪魔したかな」
「大丈夫」


大丈夫どころか大歓迎、と言いたいところだが俺たちの空気は妙に重い。今日を勝って終えていればもっとドラマチックな展開になっただろう。俺は勝利の自信とともに歩み寄り、白石さんが好きだと堂々と告げられたかもしれない。
それが今はできない。敗戦する姿を見られてしまったし。きっと俺を慰めるような言葉が聞こえてくるのだろう。


「……今日、かっこよかったね」
「うん……、……え?」


だから、咄嗟に出した返事がとても自信過剰な肯定になってしまった。残念だったね、とか、惜しかったね、という台詞が来ると思っていたから。俺が目を点にして黙っていると、白石さんは自身の言葉が不適切だと思ったらしく慌て始めた。


「あっいや、もちろん悔しいし残念なんだけど!白布くんがいつも以上に、」
「いつも以上に?」
「いつも以上に……」


そこから先がなかなか出てこない。言おうとして息を吸っては、つっかえてやっぱり口を閉ざす。それを数回繰り返してようやく白石さんが言った。


「……かっこよかった」


これまでのどんな時よりも顔を赤くして言うので、俺まで赤面しそうになる。だめだ。まだ。俺が言うまでは。それに今日の俺が格好よかったなんて、自分ではお世辞にもそう思えない。


「そうかな。途中、散々だったけど」
「そんなことないよ」
「上の席からは分からなかったかもしれないけど俺は、」
「散々でもなんでも!白布くんは素敵だった」


あるまじき失敗を犯した場面の事を言おうとすると、白石さんが遮った。
思い返せば、俺が自分を情けない人間にしようとするたびに、白石さんはその逆をしてくれた。白布くんはすごい。白布くんならできる。それが無ければ俺は今日、コートに立てていなかったかもしれないのだ。


「……私の応援、届いてた?」


彼女の言う応援とは、どの場面での事だろう。今日も昨日もそれより前からずっと伝わっていた。特別嬉しかったのはやっぱり今日の、試合前の一曲だけれど。


「うん」
「最初のあれ、聞こえた?」
「聞こえたよ。びっくりした」
「引かれたかなって心配してたんだけど」
「全然。なんでそんな事……」
「だって」


白石さんは再び口をつぐむと、自分の足元をじっと睨んで黙り込んだ。時折肩が上がったり下がったりしているのは、何かを言おうとして息を吸ったり吐いたりしているからだろう。そして、話し始めてからもそれは続いた。途切れ途切れに少しずつ、だんだんと前を向きながら。


「もし、白布くんが今日の試合に勝ったら……私、私……言いたかった事、が」


そこで俺と彼女の視線は交わって、しばらくは互いの目だけで会話をした。言いたかった事って何?という俺の問いかけに、だめ、やっぱり言えない。と軽く首を振る仕草。


「……負けたから言えない?」
「そういうわけじゃない、けど」
「けど?」


こんなこと、俺の頭の中で勝手に夢見てるんだと思っていた。白石さんの言おうとする言葉は恐らく俺が思い描いたのと同じだ。
真っ赤になった白石さんに一歩近付くと、びくっとした彼女は一歩後ろに下がった。この距離を保っていなければ、俺に心臓の音を聞かれてしまうと思っているかのように。


「……ごめん、ちょ、心の準備……」
「いいよ準備しなくて」
「え」
「代わりに俺が言う」


俺はまた一歩前に出て、同時に後ずさりしようとする白石さんの腕を掴んだ。白石さんにだって分かっているはずだ。俺の気持ちも、俺が言わんとする事も。だから逃げずに聞いて欲しい。


「ずっとバレーやってくるせにこんな事言うのは、情けないし男らしくないと思うけど」
「……」
「俺は白石さんがいなきゃ頑張れなかったと思う」


白石さんの腕が、俺の手の中でぴくりと震える。ここまで近いところで見つめ合ったのは初めてかもしれない。白石さんってこんなに睫毛が長かったんだ。こんなに瞳が澄んでいて、可愛くて、小さくて細くて力強くて、熱く俺を見てくれていたなんて。


「うまく行かなかった時とか……先輩と揉めた時も、白石さんが助けてくれたから」
「……そんな事ないもん」
「あるよ」
「ないっ」


ぶんぶんと首を振り、白石さんは自分の手柄を否定した。すべて本当の事なのに。
あの春の日、偶然近くの河川敷まで走らなかったなら、俺たちは今こうしていないだろう。疲れて草むらに寝転んでいた俺に「お昼寝?」と言ったのは忘れない。あの時はがっくりとしたけれど、その白石さんの明るくて気の抜けたところに何度救われただろう。


「私だって白布くんがいなかったら、続けられてたか分からない……」


その白石さんは、吹奏楽部の中で頑張っていた。ひとりで河川敷へ、途中からは体育館の裏で、同じ部活の人には見えないところで自主練をしていた。音楽の事なんて何も知らない俺に色々教えてくれたし、悩みを相談してくれて、頼られている事に浮かれたりもした。俺はそんな白石さんのことが、いつしか好きになっていた。

白石さんも同じだと嬉しい。でも、この子がどう思っているのかは分からない。想いを告げるチャンスは幾度となくあったけれども、言うべきタイミングは与えられなかった。本当は今日、見事勝利していたなら、最高のタイミングになり得たのだが。


「私、白布くんのことが、白布くん……が」


一生懸命言おうとしてくれる女の子を前にして、俺が黙っているわけにはいかない。俺は白石さんの腕を離したが、代わりに彼女の両手を握りしめた。


「好きだよ」


ぎゅっと握った手は熱くて、薄くて細くて、自分のものとはまるで違う。この手も含めて白石さんのすべてが好きだ。
白石さんは自分が言おうとした言葉と同じものが聞こえたものだから、唖然としていた。


「……そんなの、そんな……先に、言われた」
「白石さんがなかなか言ってくれないから」
「心の準備するって言ったじゃん!」
「代わりに言うって言っただろ」


まったく馬鹿馬鹿しくて意味のない言い合いだった。俺が当事者でなければ薄ら笑いで眺めてしまうだろうな、こんな茶番劇。
白石さんは俺の告白自体について驚いた様子ではなかったので(先に言ってしまった事にはあんぐりされたが)、やはり予想はできていたらしい。俺が抱く白石さんへの気持ちに。


「気付いてた?」
「……なんとなく。白布くんは?」
「なんとなく……でも確信はなかったから。そうだったらいいなって思ってたよ」


夏休みが明けて演奏会を欠席してしまった頃から、そうなのかな、だといいな、と思って過ごしてきた。白石さんはもしかして俺を好きなんじゃないか、自意識過剰だろうかと。でも今日確信できた。俺は白石さんを好きだし、白石さんも俺の事が好きなんだ。


「好き……」
「ありがとう」
「白布くんが好き」
「うん。俺も」
「好き」


いつの間にか俺が握っていたはずの彼女の手は開かれて、指が絡められていた。
このまま引っ張ったら白石さんを胸の中に納める事ができる。いくらなんでもいきなり抱き締めるなんて嫌がられるかな。
なんとか理性を保とうとしていた俺だけど、次の言葉を聞いた瞬間にそれは吹っ飛んだ。


「私、ずっと白布くんを応援する」


だから白布くんも私を応援しててね。と言い終える頃には、彼女は俺に抱き締められていた。
言われなくてもずっと俺は白石さんの応援をして、どんな事があっても味方であり続けるだろう。一緒にいれば幸せで楽しいだけじゃなく、苦しい時にもきっとふたりで乗り越えられるだろうから。