02
線上のジオラマ


咄嗟の行動をした時には、心臓がばくばくと波打つものだ。大事な試合の終盤で、相手のスパイクを咄嗟に拾えた時の興奮に似ている。
とはいえ今は興奮してばかりも居られず、勝手に掴んでしまった女の子の腕を離すタイミングを失っていた。結局、逃げ込んだコンビニの中で一息ついたところで手を離した。


「さすがに中までは入って来ねえな」


ガラス張りになっている店内からは、表の道がよく見える。だけど先ほどの男の姿はない。いちいち追いかけるのは厄介だと思ったのかもしれない。近くには交番だってあるし、電車の駅も近いから。
俺もこんなことをしたのは初めてなのでそれなりにドキドキしていたが、ふと隣を見れば女の子はまだ落ち着かない様子であった。


「……大丈夫ですか?」


パッと見たところ大丈夫ではなさそうだが、俺の頭ではこの言葉を言うので精一杯だ。肩を上下しながら息を整えて、その子は何度か頷いた。


「すみません……私、びっくりして……」


そう言って、手元にある荷物を持ち直した。
息が上がっているのは驚きのせいもあったのだろうが、もうひとつ理由があるようだ。さっきは気付けなかったけど、何か大きなケースを下げている。俺でさえこんなものを持って走るのは少々大変だろうから、彼女にとっては相当な負担だったかも。


「いや……俺もスンマセン、大荷物だったんすね。気付かなくて」
「平気です。いつも持ち歩いてますから」


その子は急いで首を振ってくれたので、俺もほっとして肩を落とした。普段こんな弱々しい、というか普通、むしろ上品な女の子を相手にする機会がないもんで。
しかし、そんな子が街中であのように声を掛けられるのは普通の事態ではない。


「さっきの……やっぱり人違いですよね?」


どうか出会い系、援助交際をしているのがこの子ではありませんように。そう祈りながら聞いてみると、女の子はこくりと頷いた。


「だと思います。私、あの人のことは知らないので」
「……」


安心したのと同時に拍子抜けした。恐らく彼女は、この世に出会い系だのなんだのをする人間が実在することを知らないのだろうと思えた。単なる人違いで声をかけられたと思っているのだ。危機管理能力が低いのか、よほど箱入りで育てられたのかは知らないが。


「知ってるかどうか分かんないすけど、このへんちょっと危ないですよ。居酒屋とか多いし……その、ホテル街とか」


出会い系を知らないような子に、ホテル街という単語を使っていいものか悩んだけれど。見たところ中等部ではなさそうだし大丈夫だろう。もしこの子が中学生だったら俺って犯罪者とかになるのかな? 俺も未成年だし問題ないよな? どこかからこの子のSPが出てきて狙撃されたらどうしよう。


「そうだったんですか……待ち合わせで初めて来たから知らなくて」


幸い女の子は「ホテル街」に特に変な反応を示すことはなく、SPが現れることもなかった。
とにかくこの周辺はさっき言ったとおり、あんまり治安のよくない場所だ。俺は偶然ふらふらしたくて降りた駅だけど、どうも空気が落ち着かないし。この子にとっては全く関わりのなさそうな地域。
しかし、どうやら待ち合わせをしているとのことだったので、比較的安全で分かりやすい駅の出入口まで同行することにした。俺もどうせ電車に乗って帰らなきゃいけないから。


「本当に助かりました。ありがとうございます」
「いや、そんな……」
「よろしければお礼をさせてもらえませんか?」
「お、お礼?」


ここらでお別れしようと思っていた矢先、驚きの申し出があった。たかが変なおっさんから救ってあげただけなのに、お礼なんてもらうことは出来ない。しかも被害が出る前に俺が勝手に引っ張って逃げただけだし。


「大丈夫です、そんな大層なことしてませんって」
「でも」
「偶然通りがかっただけなんで! 礼なんかいいです」


あれくらいで何かをもらってしまっては、今後何をするにも見返りを求めてしまうかもしれない。さっきだって俺は、助ける前に損得を考えてしまったくらいなんだから。
とにかく何も要りませんを貫くと、女の子は少し不満そうだったものの引き下がってくれた。


「……分かりました。ありがとうございます」
「いーえ……」


じゃあこれで、とお互いに会釈をして、俺は駅の階段を登った。
変なやつに絡まれている女の子を助けるって、いつかやってみたいと思っていたけど。いきなりその場面に直面すると全然うまく立ち回れないものだ。しかもさっきの女の子は、あの男曰く鈴が丘の制服を着ていた。本当に鈴が丘の生徒で間違いないのかなんとなく気になってしまい、俺はスマホの検索欄に以下の言葉を入力した。


『鈴が丘学院』


検索ボタンをタップすると、ずらりと現れる検索結果。鈴が丘学院は中高一貫どころか附属の小学校まであるらしい。いわゆるお受験ってやつだろうか? 俺には全く縁のない世界だ。たとえいつか俺に子どもが出来たとしても、小学校を受験させることはないだろうな。

そんなことを考えながら制服紹介を見てみると、ついさっき助けた女の子が着ていたのと同じジャンパースカートの制服が表示された。あの子は間違いなく鈴が丘の生徒らしい。制服からして中等部ではなく高等部。というのも、中等部の制服はリボンの色が赤いのだ。

ひととおり調べ終えた俺は「クソ名門じゃんかよ」と苦笑いして、スマホの画面をオフにした。