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青い春のアルペジオ


試合の前日は、普段よりも早く寝るようにしている。そして当日は早く起き、なるべく身体をほぐしておくのだ。一セット二十五点のうち、ほんの一点でも自分のミスで取られるわけにはいかないから。

それに早起きは気持ちがいい。今朝は特にすっきりと目が覚めて、昨日までの試合疲れも特に感じられなかった。今日を勝ち抜けばいよいよ全国大会だというのに、驚くほどリラックスできている。寮周辺をひと歩きして戻ると川西太一と出くわし、あくびをしながら「早いね」なんて感心された。

俺からすれば、こんな日に早起きしないでどうするんだと問いたい。これまでだらだら過ごしていたやつらも、今日こそは最高のモチベーションで一日を始めるべきではないか。まあ、特別な日だからといって力を入れ過ぎない事が、太一にとっては大事なのかもしれないが。


「練習どおりの事をやれ」


仙台市体育館に到着すると、メンバー全員に鷲匠監督からの声がかかる。公式戦の時はいつもこうだ。試合中に浮き足立って変な事をしないように、こうして俺たちに冷静さを思い出させてくれるのである。

本番は練習どおりの事ができるように。練習は本番どおりの緊張感を持って取り組むように。白鳥沢に入ってから、耳にたこができるくらい言われた言葉だ。

しかし、いくらそれを頭に叩き込んだって、普段と違う会場の空気には緊張する。今日の試合は負けられない。どの試合だって負けるわけには行かないけれど、今日は特別だ。勝利すれば年明けの春高全国に出場できる。去年の春高ではコートに入る事を許されなかったが、今回ならばきっと選ばれる。選ばれたい。そして、


「白布、力が入ってんのか?」


ひとりで考え込んでいると、俺の様子に気付いて話しかけてきたのは瀬見さんだった。彼はいつだって部員の細かな変化に気付いてしまうのだ。セッターの座は奪えた俺も、部内で瀬見さんと同じ役割は果たせないだろう。


「そんなに怖い顔しなくたって負けねえよ。どんな間違いや偶然があっても」


どうやら俺が緊張して、あるいは負けるのを恐れて強ばっていると思ったらしい。やわらかい笑顔で元気づけようとしてくる瀬見さんに、なんと返すべきか。緊張なんかしてません、と言っても信じてもらえなさそうだ。ただ、負ける事なんか心配していない。白鳥沢は試合の中で、勝敗に関わる間違いや偶然なんて起こさない。もしそんな事があったとしても恐れる事はない。


「俺が正してやりますよ。偶然起きた間違いくらい」


世話を焼いてくる瀬見さんへのほんの少しの嫌味と、あなたのほうこそ心配し過ぎじゃないですかという思いを込めて言ってみる。瀬見さんは少し驚いたあと「頼もしいなあ」と、またやわらかく笑った。
俺はこの人の代わりに任されているんだ。心の中には言葉にしづらい感情が湧き上がり、いっそう強く闘志に火がついた。


「行こう」


いよいよ試合が行われる会場に入るため、牛島さんが先頭に出た。
会場に一歩一歩と近づくごとに大きくなる歓声、そして耳をすませると吹奏楽部が音を合わせるのが聞こえる。観客席の応援団に気を散らせるわけにはいかないが、俺にとっては重要な事であった。そしていよいよ会場の扉が開かれると、白鳥沢の生徒による歓迎の歓声が。


「応援気合い入ってんね」
「決勝だからなぁ」


観客席を見上げながら、天童さんと大平さんが話している。俺のように意識して聞き入ろうとしなくても気付くほど、今日の応援は段違いであった。
そして、過去の応援とは全く違う事が起きた。昨日までの試合でも同じ事は起きていない。決勝の今日、初めて吹奏楽部の応援が静まりかえった。全員が楽器を降ろして静寂をつくり、その中でたった一人が姿勢よく金管楽器を構えている。その楽器が何であるかなんて、今となっては愚問であった。


「なになに、何があんの」


突然静かになり、かつ全員が同じポーズで待機状態となった吹奏楽部に、会場内も注目を始める。さっきまではしゃいでいた天童さんも、そわそわしていた五色でさえも。俺ももちろん無言で見つめていた、大勢いる吹奏楽部の中心に立つ白石すみれの姿を。

白石さんはホルンを吹く前に深呼吸をした。俺と、俺の周りにいる部員のほうを向く。今から何が聞こえてくるのか心当たりはなかったが、最初の音を聞いた時にはすぐに理解した。俺が、また聞かせて欲しいと頼んだ曲。いつか彼女が吹いてくれた「白布くんへの応援歌」だ。
ほんの短い曲なのに、俺は時が止まったように聞き入っていた。そして見入っていた。数多く居るホルン奏者の中、白石さんだけがうつくしい音色を奏でている姿に。

白石さんが楽器を降ろし一礼すると、会場からは拍手が沸き起こる。白鳥沢の席だけでなく、相手チームからも拍手は起きたように思えた。


「……今の何? あんなのあったっけ」


この一連の様子に天童さんは挙動不審になっていた。無理もない。天童さんが出場した数々の試合の中でも、こんな事は起こり得なかっただろうから。
でも俺だけは知っていた。今のが何か、どういう意味が込められているのかを分かっていた。


「前からありましたよ」
「え。初めて聞いた気がする」


でしょうね、と優越感に浸る俺は大事な試合前に相応しくないだろうか。でもおかげで素晴らしい気分でコートに入る事ができた。
白石さんが上で見守っている。今日は白石さん含む吹奏楽部の演奏を聞きながら試合に打ち込む事ができる。スターティングオーダーで呼ばれる直前に観客席を見上げると、同じくこちらを見下ろしていた白石さんと視線が交わった。