21
猫背になりそうな気持ち


中学生の時、なぜ俺は寝る間も惜しんで勉強に明け暮れる事が出来たのだろう。親にも友人にも心配されるほど机に向かっていた記憶がある。
だけど、辛かった代わりに俺には素晴らしい未来が待っていた。白鳥沢の受験に合格したのだ。

頑張っていれば白鳥沢のスカウトの目に留まるかもなんて、はなから考えていなかった。俺はきっと「誰の目から見ても魅力的な選手」にはなれない。「誰の目から見ても努力している」と思われなきゃ。だから補欠どころかただの応援要員に甘んじていた高校一年の時、俺は努力を怠らなかった。勉強も同じように。

そうして手に入れたレギュラーの椅子は後ろから何人もの部員に狙われている。大切な練習試合を私用で欠席するなんて許されない。そんな事をしたら俺はおしまいだ。絶対に休めない。



月曜日の事、俺はこれまでで一番重たい足取りで教室に入った。ただし中の様子を伺いながらゆっくりと。白石さんと顔を合わせたくなかったのである。
幸い俺が朝練を終えて入った時には白石さんの姿は無く、軽く安堵の息を漏らす。が、すぐに全身に緊張が走った。


「おはよー」
「あ、すみれおはよう」


白石さんも吹奏楽部の朝練が終わり、教室にやって来たのだ。
友人たちと朝の挨拶を交わす彼女に気付かれないよう、俺はそっと立ち上がり反対側の入口から教室を出た。そのまま尿意も無いのにトイレに行って、始業のぎりぎりまで手洗い場の鏡の前で自分の顔を睨みつける、全くくだらない時間を過ごした。
早く言わなきゃどんどん言い出せなくなる。分かっているのに言えない。白石さんにあれほど「行く」と言っておいて、今更無理だなんてどの口から言えるのだろう。


「白布くん」


しばらくは、視界に入りそうになればそれを避けるように逃げ回っていた俺だけど。同じクラスに居る以上は無理な話だ。挙動不審な俺を変に思ったのか、 話しかけられてしまった。


「えっと……なに?」
「いやね、なんか体調悪いのかなと思って……大丈夫?」


白石さんは心配そうに眉を八の字に下げた。俺がこんなだからって体調不良を気にしてくれるなんて、こんなに嬉しい事はないと言うのに。
普通なら「全然そんな事ないけど」と言ってみせるのに、今日はそれを躊躇った。いつどのタイミングで「今週末楽しみにしててね」なんて言葉が出てくるか、恐ろしくて会話を続けられないのだ。


「……うん。ちょっと頭が痛くて」
「えっ」


お陰でこんな嘘をついてしまった。白石さんが俺のそばで長居をしないように。
白石さんはさすがに演奏会の話題は出さず、「保健室行く?」「先生に言う?」と様々な気を遣ってくれた。本当は全く頭は痛くない、痛いのは俺の心だ。俺は自らの心をずたずたにしながら「じっとしてれば大丈夫」なんて弱々しく言ってみせた。

だけど、いつまでもそうやって誤魔化す事はできない。体調不良のふりをしたけれど、練習には元気に参加しているし。そもそも当日を迎える前には必ず言わなきゃならないのだ、行けなくなってしまった事を。


「……ちょっと話がある」


しかし情けない事に、俺がこの言葉を言えたのは金曜日になってから。つまり演奏会の前日になってようやく白石さんに言う心構えが出来たのである。


「どうしたの?」


この様子だと彼女はまだ知らない。吹奏楽部の顧問は、バレー部のコーチから俺と太一の欠席を知らされているだろうけど。まさか白石すみれが個人的に俺たちを誘っていたなんて知りもしないのだろう。
どうしたのと言われてから、重苦しい沈黙が流れた。実際その間を「重苦しい」と感じていたのは俺だけなのだが。


「……明日の事なんだけど……」


ようやく口を開いてから、その先自分が何を言ったのかは覚えていない。ただ目の前に居る白石さんの表情が、どんどん曇っていくのだけが見えた。
我に帰った時には、俺は息を吐き切り、言うべき事を言い終えていた。


「……」


絶望したような表情の彼女は言葉が出てこないらしく、唇がぷるぷると震えている。ひとつ間違えばこの場で泣き出してしまいそうなほど、瞳は潤っていた。その目にうつる俺の顔はとてもひどく、白石さんの目に写し出された自分を見るのが嫌で顔を背けた。


「…………そう」


その瞬間に、白石さんからはようやく声が聞こえた。ただどうしようもない事実を受け止めただけの声が。
自意識過剰かも知れないから考えないようにしていたが、やはり白石さんは俺が行くのを楽しみにしていたのだ。


「ごめん」


謝罪しか述べられない俺の口は、こんな短い言葉だけを告げた。
心から申し訳なく思うのに、俺が悪いわけではないのに、「ごめん」だけでは済まされないような気がして他の言葉を探す。が、結局何も浮かばなかった。
白石さんはふるふると首を振り、それからしばらく無言であったが、やがて口を開いた。


「……いい。もうすぐ大事な試合だもん」


自分に言い聞かせているような言い方であった。確かにバレー部は、春高出場をかけた県予選の本戦が迫っている。そのための練習試合をこの時期に休むわけには行かない。吹奏楽部だって応援に来る予定だ、白石さんも俺の立場は重々理解しているようだった。


「仕方ないよね……」


うつろな表情で、白石さんは何度か繰り返した。
仕方のない事だからと俺も自分を納得させるのに何日間も要したが、白石さんはどうだろう。練習のモチベーションが下がったり、明日の本番で失敗をしたりしなきゃいいけれど。
でも、そんなのは本番に立ち合わない俺がどうこう言える立場じゃない。絞り出たのは「明日頑張って」という言葉のみであった。