何気ない秋の朝だった。いつものように朝練を終えて教室に入ると、近くの席が何やら騒がしい。
「騒がしい」と言っても迷惑なほどではなく、何があったのだろうと思いながら自席に近づいていくと答えが分かった。数名の女子のうち、ひとりが明るい声を上げたからだ。


「すみれ、誕生日おめでとー!」


続けて残りの数名が小さく拍手をする音、「すみれ」と呼ばれた女子がびっくりしている声。どうやら今日、隣の席の女子が誕生日を迎えたらしい。


「これプレゼント! 大事に使ってね」
「わあ! 何これ?」
「マグカップ!」
「そして二個入り」


女子ってプレゼントの贈り合いが好きだよな、そして相手の好みを探るのが上手い。渡されたマグカップのデザインは白石の好きなものだったらしく「可愛い!」と喜ぶ声が聞こえた。

しかしどうして二個入りで渡されたのかは謎である。ペアでなければ買えなかったのかもしれない。たまたま二個セットしか無かったとか? と、俺は勝手にプレゼントの背景を考えていたが。箱を開けた白石からはうろたえる声が聞こえてきた。


「な……なんで何これ何これ、」
「いつかのためじゃん!」


友人である女子が白石の背を叩き、まもなくホームルームが始まる事もあり散り散りになっていく彼女たち。真横で誕生日の話を聞かされて一日中それをスルーするのもどうかと思い、俺も一声かけてみる事にした。


「白石、誕生日なんだな。おめでと」


プレゼントを仕舞おうとしていた白石はビクッと飛び跳ねた。そんなに驚かなくてもいいんじゃないだろうか、毎朝の挨拶くらいは交わす仲なのだから。


「ごっ、ごめん騒がしくて」
「ぜんぜん」
「起きるまで誕生日ってこと忘れてたよ私」


女子にしては自身の誕生日に疎い事を言いながら、白石は紙袋の形を整えていく。それから机に広げられたマグカップの箱に蓋をしようとするのを、俺はなんとなく眺めていた。
その時にちょうど見えたのは、マグカップにプリントされたアルファベットだ。白石すみれの「すみれ」の頭文字が、そこにプリントされていた。


「それすげーな、イニシャル入ってんの?」
「え! いやコレはッ」


途端に白石が動揺を始め机がガタンと揺れた。その揺れは本人も俺も驚くほど大きくて、ちょうど蓋を手に取っていた白石の腕が勢いよく箱に当たる。最悪の事態が起きようとしていた。マグカップの入った箱が白石の机から滑り落ち、ガシャンと割れる未来が見えた。

……が、俺は自分の反射神経に感謝した。咄嗟に出した両手でキャッチし、落下を食い止める事が出来たのである。


「あぶねー……」
「わ!」
「割れるとこだったなー」
「わわわっ」


ところが割れるのを免れたというのに白石は未だに慌てた様子で、俺の手から箱を取り上げようとした。俺がこのまま地面に叩きつけるとでも思ってんのか、こいつ?
しかしコレをずっと持っておく理由もないので、不思議に思いながらも俺は箱を差し出した。すぐさま受け取ろうとする白石。だけど、一瞬だけ何かが見えた。ハッキリと。


「……なんでコレ、」
「わーっ!」


叫びながら白石はひったくるように箱を取り、さっさと蓋をして紙袋に突っ込んだ。その声にも動作の速さにも驚いた俺は硬直したまま眺めるしかない。それに、さっき見えたものが何だったのか考えるのも精一杯なのだ。


「……み……見えた……?」


恐る恐るこちらを見る白石。なんだか申し訳ない気分になった。見られたくなかったんだな、と。しかし見えてしまったものは打ち消せない。それに俺は嘘がつけない。


「見えた……」


仕方なく、本当に仕方なく俺は事実を伝えた。見えたものは箱に入った二つのマグカップで、片方には受け取った本人のイニシャルが入っていた。そしてもう片方には何故だろう、「H」のイニシャルが描かれていたのだ。
Hって誰だ。白石の家族、親友、あるいは恋人、好きな人、色々可能性はあるけれども一番もやもやするのは俺のファーストネームのイニシャルも「H」である事だった。


「……いや、まあアレだよな。見なかった事にしてやるから」
「……」
「応援してるし! 誰だか知らねーけど」


白石の様子から察するに、これが片想いしている相手か何かのイニシャルだろうと予測できた。という事はこれが一番荒波を立てずに会話を終えられる言葉であった。深入りするのは良くないし、「俺もHなんだよ!」なんて言うのも差し出がましい。見られたくなかった様子なのだから、もう触れないでおこう。見なかった事にしてやろう、と。

そのまま間もなく担任が来て、白石の誕生日についての話題は終了しようとしていた。俺は一声「おめでとう」と言うだけだったんだし。だけど、続けて白石の口からはとんでもない言葉が聞こえてきた。


「……山形くんの……」


実際には俺の耳に入るか入らないかのとても小さな声。しかし自分の名前だけはどうしても敏感に聞き取れてしまった。そして、その続きももっと敏感に聞き取れた。


「……なんだけど」


何が「山形くんの」なのか、それは彼女の口からは出て来なかった。しかし白石の顔を見れば、声を聞けば言われずとも分かる。もう片方のイニシャルが誰のものなのか、という事が。


「俺の……」


俺はあまりにもぽかんとした表情をしていたのだろうか、白石は心底申し訳なさそうに眉を下げた。


「……ごめん。ほんとにごめんね」
「いや俺の方こそなんかマジで無神経というか」
「山形くんは悪くないから」


何度か「ごめん」と呟いて、白石は黙り込んでしまった。
俺は確かに悪くない。しかし白石も悪くはない。俺が隣の席であるのを知りながらこんなプレゼントを寄越した友人に問題があるのでは? いや、俺が隣だからこそ敢えて堂々と渡したのか? 女子はどこまで考慮して行動しているのか分からない。俺たちのこの会話すらも友人勢の思惑通りなのだろうか。

二つの席を挟んで、朝っぱらから変な空気が流れ始めた。担任は既に教壇に立っており、あとはホームルームの始まりを告げるチャイムを待つのみ。それまで教室内はざわざわとしているのに、なぜだか何も耳に入らない。 白石にプレゼントされたものの意味と、白石の言葉の意味とを考えていたら。先程までは、自分には関係の無いものだろうと思って忘れようとしていたけれど。


「……なあ」


何事も無かったかのように(というのを装いながら)筆記用具を用意する白石に言うと、彼女の動きはぴたりと止まった。


「さっきのアレ、見なかった事にするって言ったけど」


自分の事だとは思わなかったので、白石の秘密を垣間見てしまった気になっていたが。対象が俺だと言うなら話は別だ。そんな事を知らされて何も知らないふりをするなんて無理である。そこまで無神経でも無く、器用でも無い。


「たぶん無理だわ」


じゃあどうするのかと聞かれると全く分からないけれど、恐らく、単純で明快な俺の心は白石の友人の思惑に嵌る事となる。まだその事に気付いていない当の本人は、予鈴と同時に発せられた俺の台詞を聞き取れていなかったようで。しばらく俺の顔を眺めていたけど、開始されたホームルームに集中しようと一生懸命になっていた。

突発性思春期