19
ピアニシモ症候群


二学期に入ると、俺と白石さんは前にも増して仲良くなったように思えた。自分でもそう思うんだから、周りはもっとそのように勘繰っているだろう。俺は自分から白石さんに話しかける事も増えたし、白石さんも俺に寄ってくるのだ。
「あの子と付き合ってんの?」とクラスメートに聞かれる事もあったけど、疑われる相手が白石さんならば否定する気も起きず。むしろ「違う」と答えるのが苦痛なほどであった。


「ねえねえ白布くん」


そんな俺の心境を知らない彼女は、楽器の音色に勝るとも劣らない声で俺を呼んだ。
最近ようやく名前を呼ばれても表情を変えずに応えられるようになった。が、高鳴る心臓とは反対に、声の低さをキープするのに必死である。


「何?」
「今月の二十二日、空いてる?」


白石さんは俺の机に両手を置いてやや前のめりになっていた。スカートもう少し長いほうが良いんじゃないの、後ろから見るとかなり際どい事になっていると思うんだけど。と後ろ姿を想像しながら、俺は白石さんの言葉を聞くように努めた。九月二十二日が空いているかどうか、という話である。
その日は土曜日で授業はもちろん無いけれど、だからって暇なわけではない。ほぼ毎週、土日ともに練習があるからだ。


「……まだ分からないかも」
「えーっ! 絶対空いてて欲しいのに」
「何があるの?」


俺に向かって「絶対空いてて欲しい」などと言う事が、どれほど俺をうきうきさせているのか分からないのだろうか。どうか分からないで居て欲しい。


「これだよ! 演奏会」


問い掛けに対して白石さんは、一枚の紙を取り出した。カラフルなそれは何かのチラシらしく、でかでかと『第47回定期演奏会』と書かれていた。


「演奏会……」
「コンクールは終わっちゃったんだけど、たまにこういう事やってるの」
「そうなんだ」
「よかったら聞きに来てほしいなあ」


もちろん行かせて欲しい、と喉まで出そうになったのを必死で堪えた。仮にもバレー部の正規レギュラーである俺が、勝手に土曜日に予定を入れて練習から外れるわけにはいかないのだ。


「ごめん。即答できないんだけど、確認してみる」


本当はすぐに「行くよ」と言って、白石さんの顔にぱあっと花が咲くのを見たかったのだが。今は「だよねえ」と眉を八の字に下げて笑う顔しか見られなかった。バレーの練習をこんなにも鬱陶しく感じてしまう日が来るなんて、自分でもびっくりだ。

その日の部活で俺は、すぐさま九月二十二日の予定を確認した。土日だからといって丸一日練習で潰れるとは限らず、半日はオフの場合もあるからだ。
そんな時はこのところ体力づくりに励んでいたが、今回ばかりはそれを差し置いてでも演奏会に行きたい。神様、どうか二十二日は休みであって下さい。何の宗教も信仰していない俺が、こんな時だけ都合よく神に祈るなんて罰が下るかもしれないけれど。

しかし俺は、自分の日頃の行いに感謝した。部室に掛けられたカレンダーの九月二十二日のところには、赤いマル印とともに『OFF』と書かれていたのである。


「なあ」
「んー」
「吹奏楽って興味ある?」


さっそく俺が話し掛けたのは川西太一だった。彼はスマートフォンで最近始めたゲームをいじっていたが、俺が話し掛けると律儀に手を止めた。そして俺の質問について首を捻り、本音を言うかどうか迷った挙句、結局彼の口からは本音が出て来た。


「……無い」


そうだろう、太一が吹奏楽に興味があるなんて微塵も思っていなかったとも。だけど反射的に俺は肩を落としてしまった。


「まあ……だと思ったけど」
「自分だって無いくせに」
「俺はあんだよ」
「吹奏楽じゃなくて女の子に興味があるんだろ?」
「……」


的確な突っ込みにはぐうの音も出ない。悔しいけれど大正解で、俺は別に「吹奏楽」というものにさほど興味は無いのだ。だけど演奏会に一人で行く度胸のない俺は、少なくとも興味のあるふりをしなければならない。嘘がバレバレだとしても。

太一は俺が何のためにこんな質問をするのかは理解しているだろうけど、恐らく演奏会の存在は知らないだろう。なので、ポケットに突っ込んだチラシを顔の前に広げてやった。


「なにこれ」
「吹奏楽部の演奏会」
「えっ。行くんだ」
「一緒に行ってほしい」
「え」


文字通り目が点になった太一はスマホを落っことしそうになっていた。そして再び彼は考えていた、本音を言うかどうか。が、やっぱり本音が聞こえてきた。


「……俺、キョーミ無いんだけど……」
「そんな事言うなよ。吹奏楽部だってバレーなんかキョーミ無いけど応援に来てるだろ!」
「それは部活動の一環では」
「俺らが吹奏楽部見に行ったって何も不自然じゃないよな」


そうだ、不自然な事は何も無い。しかし自分の言っている事がめちゃくちゃだなぁとは薄々気づいていた。もし太一に断られたら引きずってでも連れて行こう、とも思っていたが、案外太一はすぐに折れてくれた。


「まぁいいんだけどさ……練習と被ってねーの?」
「この日は代表決定戦前の最後のオフだぞ」
「ええぇ! 最後のオフで吹奏楽部?」


彼はその事実を知らなかったらしく、やっぱり断れば良かったと後悔しているかに見えた。俺が物凄い形相で「文句あるか」と睨んでさえ居なければ、断られていたかも。


「……無いよ。行きましょうよ。演奏会とやらに」


結局、オフだからって特に予定は無いからと言って太一は演奏会に付き合ってくれる事となった。
予定が無いのは本当だとしても身体を休めたかっただろうから、お詫びに何か奢ってやろうと思う。俺が一人で会場に行く勇気さえあれば解決した話なのだから。


「……ってわけだから、アレ行くよ。演奏会」


翌日の事、俺は早々に白石さんに報告した。しかしクラスの連中に聞き耳を立てられたくないので(ただでさえ最近は俺たちの関係を気にする奴も居るし)、それとなく白石さんを呼び出したのだった。今や俺たちの定番の場所となっている体育館の裏手である。
そこで演奏会に行ける事になったのを伝えると、白石さんはしばらく押し黙ったあとで弾けるように言った。


「ほ……本当に!?」
「うん。もう一人連れてく」
「誰?」
「川西太一」
「あ、隣のクラスの」
「うん」


太一は俺の一番仲のいい人間だしチームメイトだから、時々白石さんとの会話の中にも川西太一を登場させるのだった。そうじゃなくてもあれだけ背が高く目立つ外見の持ち主だから、元々太一の存在は知っていただろう。


「本当に予定大丈夫だった?」
「大丈夫」
「川西くんも?」
「その日は俺たち暇だから……」
「ありがとう! 本番すーーーっごい頑張るね」


白石さんは俺の予想以上に喜んでいるらしかった。目を爛々と輝かせ、やる気に満ち溢れて激しく燃えている。今回の演奏会はそんなにも気合いの入ったものなのか、と言うか演奏会って定期的にやっているのだろうか。それなら次回もその次も都合が合えば行きたいんだけど。これまでもやってたのかな、機を逃したくないな。
……と思いながら白石さんを見送っていると、背後でこっそり聞いていたらしい太一の声がした。


「すーーーっごい頑張る、だって」
「真似すんな」
「賢二郎のマネしたわけじゃないんですけど」
「もっと駄目だろ」


軽口を叩く太一はへらへらと笑っていたが、彼の言いたい事は手に取るように理解できた。「一人で行けばいいのに」と思っているに違いないのだ。それは太一が演奏会に行きたくないわけじゃなく(行かなくても良いならそれに越した事はないだろうが)、自分がついて行く事が邪魔になるんじゃないかと考えているらしく。


「お前らせっかくイイ感じなのに、俺が行ったら邪魔じゃない?」


とうとう夜にはそんな事を言われたけれど、イイ感じだなんてとんでもない。顔を合わせても緊張せずに涼しい顔で格好付けられるほどの余裕が無いと、「イイ感じ」だなんて言えないんじゃないか?