その美しさに恐怖さえした。透き通るような白い肌に、空の青が映ってしまうのではと。

初めて白石さんという女の子に会ったのは、六月中旬に行われた体育の授業。バレー部と同じく水泳部もそこそこ強豪の白鳥沢には立派なプールがあり、夏の間は体育で水泳を行うのだった。そして文武両道の理念に基づき、最低でも五十メートルを泳げない者は夏休みに補習を受けさせられるという厳しい決まりがある。
水泳が得意ではない俺だけれども、タイムさえ気にしなくていいのなら五十メートルを泳ぐ事は出来る。ほっと胸を撫で下ろした俺の目の前で、同学年の川西太一が悠々と泳ぎ切ったのは癪であった。

そして二年目の初夏、現在のクラスになってから最初の水泳の授業。広いプールを半分に割り、二クラス合同の男女別で行われる。今年もやっぱり五十メートルを泳げなかった者は補習があるらしく、泳ぐ感覚を取り戻さなくてはなと頭を悩ませた。


「今日から水泳か…… 」
「いいじゃん水泳。俺は好きだよ」
「お前は得意だからだろ」


更衣室に向かう足取りが重い。隣のクラスと合同だから川西太一と一緒に受けられるのが唯一の救いであった。軽口を叩けばほんの少し気分が楽になるからだ。


「それにさあ、女子の水着姿見られるじゃん」


太一は着替えながら平然と言った。
ぎょっとしたけれども正直男子の頭には、ほぼ間違いなくそれがある。水泳の授業には面倒な着替えやシャワー・記録測定を抜きにしても、普段見られない女子の水着姿を見ることが出来る。そんな事死んでも正直に言えないけど、それを言ってのけるのが川西太一だ。


「あれ、賢二郎ガタイ良くなった?」
「お陰様で。監督に鍛えろって言われてるからな」
「ああ……おっ」


声の高さを少し上げて、しかし大きさは下げて太一が言った。
この声と彼の表情を見ればすぐに分かった。いよいよ女子がプールサイドにお出ましになったらしい。


「……女子と男子ってこんなに離れてたっけ? 全然見えない」
「さぁな」


あまりにも不満げに言うので、どのくらい離れているのだろうと俺は女子のほうを向いた。断じて水着姿を見たいからではない。
目を向けた先には紺色のスクール水着を纏った女子の集団が居て、プールサイドに固まっていた。そちらは太陽の登る方角なので思わず目を細めてしまったが、その時ちょうど 焦点が合ったのはひとりの女子生徒。同じ水着を着ている集団にも関わらず一際目を引くその姿に、ほんの一瞬暑さを忘れた。


「……なあ太一、あそこの…… 」
「ん?」


あそこに立っているあの子は誰だっけ? と声を掛けようとしたが、それを伝える前に授業が始まってしまった。
今年の体育教師は熱血の入った先生だ。一学期中にしっかり五十メートルを泳がなければ、バレー部だからって問答無用で補習にさせられるかも知れない。


「はー……久しぶりに泳いだ。もう筋肉痛かも」


約五十分後、シャワーで濡れた身体を思い切り拭きながら太一が言った。
筋肉痛だなんて言うけれど、身長が高く手の長い太一なら俺よりも少ない労力で長距離を泳げるんじゃないだろうか。高身長と言うのは色んなところで得をする。
それよりもこの授業中ずっと気になったのは、開始前に目に留まった女の子の事だ。


「そっちのクラス、すげえ白い子いなかった?」
「白い子?」
「肌が。色白の子」


別にその子が誰だろうと大した興味は無いけれど。そういう冷めた表情を造り上げてから聞いてみると、太一はすぐに頷いた。


「いるいる。白石さんって子。俺も半袖解禁した日ビビったもん」
「あんなに白いのに日光浴びて平気なのかな」
「さあ。でも焦げちゃいそうだよな」


焦げるって、どんな言い方だよ。でも確かに彼女の肌はとても白かった。男にしては白いと言われる俺なんかよりもずっと。

俺が白石すみれという女の子に興味を持ったのは、彼女を目にしたその瞬間からであった。白いからと言って病的に見えるわけでもなく、むしろ光合成でもしているかのように生き生きとしていた。太陽光を取り込んだ、光の塊みたいだ。
だから二度目の水泳の授業、それ以降も、毎度俺は白石すみれの姿を目で追うようになっていた。それを太一に気付かれたのは割とすぐの事である。



しかし俺は女子のほうをじっと見ていられるほど、自分の泳ぎに余裕が無い。だから彼女と会話をする機会どころか、俺の存在を認識されているのかすら分からなかった。


「はい、次の組ー」


ある日の水泳では男女同時に五十メートルの測定が行われた。タイムは成績にさほど関係ないが、五十メートルを泳ぎ切ることが出来なければ補習で夏休みの時間を取られる事となる。なんとしてもクリアしておきたい。
俺はこれを逃すまいととても集中していた。隣のレーンを泳ぐのが、白石すみれである事に気付かないほどに。


「はい、白布クリア」


五十メートルを無事に泳ぎ終え、安堵しながらプールを上がり水泳帽を脱いだ。続けて耳の水抜きをしようと鼻をつまんだ時、聞こえてきたのはとある女子生徒の名前。


「白石もギリギリな」


振り向けば白石すみれがプールから上がり、勢いよく水泳帽を脱ぎ去るところであった。
無理やり帽子の中に収まっていたポニーテールが現れて、髪の黒さが肌の色をいっそう白く見せる。今日は快晴、二限目のこの時間でも気温は十分に高い。白石すみれはそんな空の下、惜しげも無く濁りない肌をさらけ出している。
その美しさに恐怖さえした。透き通るような白い肌に、空の青が映ってしまうのではと。


「…… 何?」


しかし、すぐに俺は我に返った。目の前を通り過ぎるところだった白石さんが、俺の視線に気付いて立ち止まっただけでなく声を掛けてきたのだ。
無理もない。声を掛けられるまで俺は意識を手放していたのだから。つまり、彼女に気付かれている事なんか気にも留めないほど凝視していたのだ。


「なんでもない…… 」


他にいい言葉なんか見つからなかった。あれだけ見ておいて「なんでもない」なんて馬鹿げているが、白石さんはそう、と短く言うと女子たちのほうへ歩いていった。
ぺたぺたと彼女が歩いていくごとに、きれいな足の形がプールサイドへ現れる。その先には白く透き通った長い脚。そのまま視線を上げるときっと男よりも丸い尻があるのだが、まさかそんなところをジッと見るわけに行かない。脚だけでも十分に咎められる要素満載だ。視線を下げろそれ以上上げるな、と葛藤していた時、白石さんの足元へ何かが落ちた。水泳帽だ。


「白石さん」


名前を呼ぶチャンス。帽子を拾い上げて呼び止めると、白石さんはゆっくり振り返った。


「落とした」
「ああ…… ありがとう」


さっきまで突っ立って自分の事を見ていた男から呼ばれて、一体何を言われるのかと思っただろう。はじめは警戒した目だったけれど、水泳帽を見せるとその表情は少し和らいだ。
それでも一言お礼を言って帽子を受け取ると、すぐに踵を返して歩いて行ってしまったのだ。


「お近づきになれた?」


泳ぎ終えた男子の列に戻っていくと、太一が顔を寄せて聞いてきた。主語が無くても何の事を言っているのか分かる自分にも呆れてしまい、溜息とともに答えた。


「……見てたのかよ。なってない」
「へえ。でも良かったじゃん、無事に補習は回避だな」
「太一も?」
「もち余裕。あとは期末で世界史の赤点さえ逃れればオッケー」


やはり太一は水泳に関しては問題なく、残すところ期末テストの世界史のみが不安の種らしい。
そう言えば一学期の水泳の授業は今日で終わり、週明けからは期末テスト本番。それ以降はテストが返ってくるのみで、あっという間に夏休みがやってくる。白石すみれの水着姿を見る事が出来るのは、今日が最後だったというわけか。
しっかり見ておけばよかったと一瞬思ったけれど、そんな事をしたら軽蔑の眼差しを向けられたに違いない。苦手な水泳の授業中、太陽の申し子のように輝いていた白い肌だけが心の休まるところだったと言うのに。



それからと言うもの隣のクラスを覗き込んで白石すみれの姿を見つけては、教室内の誰よりも美しい佇まいに息を呑んでいた。目の覚めるような、とはまさにこの事を言うんじゃないだろうか。

期末テストの出来に首を捻ったり(もちろん平均点を超えてはいたが)、夏休みの課題の多さに驚いた時も、彼女を見ればそんな事は頭の中から消え去ってしまう。魔法にかけられたような感覚。彼女の教室の前を通れば高確率でその魔法に捕らわれた俺だったが、無情にもパタリとそれは止んだ。夏休みの到来である。


「えっ。お前、夏期講習でんの?」


夏休みが始まって数日が経過した月曜日。早朝の練習から戻り、朝食をとっている時に太一が目を見開いて言った。
今日から五日間の午前中のみ、希望者は夏期講習を受けることが出来るのだ。もちろん期末テストで赤点だった者は別途補習がある。心配されていた世界史のテストで見事に赤点を免れた太一は、何故俺が好き好んで夏期講習を受けるのか理解できないようだ。


「悪いかよ」
「悪いとは言わないけど……せっかくの夏休みによくやるよな」
「太一も出たほうがいいんじゃね?」
「やだよ! 絶対無理」


返ってくる答えは分かっていたが、予想よりも大きく首を振られた。
太一が一体どんな進路を予定しているのか知らないが、俺は行きたい大学を決めているし、普段バレー部の練習をしながら受験に向けた勉強をするには限界がある。だからこの機会に夏期講習を受ける事にした。当然だが練習を疎かにするつもりも無い。


「じゃあ行ってくる」
「うーっす」


夏期講習は二時間程度なので、終わればすぐにバレー部の練習に合流する。軽く挨拶をしてから制服に着替え、講習の行われる教室へと向かった。

辿り着いたのは二年一組の教室であった。二組では期末テストの補習があるらしく、教室に入っていく生徒の表情には差があるようだ。気だるそうな彼らを横目で見ながら一組に入ると、黒板には予め決められた席順が書かれていた。


「あ…… 」


声に出るか出ないかの、微妙な喉の振動を感じた。窓際から二列目にある俺の名前、白布と書かれた隣の席には「白石」の文字。ゆっくりと黒板から顔を逸らし動かしていくと、そこには窓から射し込む光を浴びた白石すみれの姿があった。


「なにか用?」


気にしないように自分の席へ歩いていたつもりなのに、どうしても視線を向けてしまっていたらしい。白石さんは顔の向きはそのままに、目線だけを俺に向けて言った。


「……なんでもない」


強気な上目遣いにたじろいで、それ以外の言葉はやはり見つからない。だって俺は彼女に用があるわけではなく、ただひたすらに、綺麗なものを視界に入れておきたい一心なのだ。


「今日はここまで。明日も遅刻するなよ」


必死に隣の席を見ないように耐えていたら、二時間なんてあっという間に過ぎていた。せっかく受けた夏期講習なのに、頭の中に今ひとつ入って来ない。勉強にすら集中出来ないほど夢中なのか俺は、と筆記用具を片付けていると、鈴のような声に手を止めた。


「シラブケンジロウ」


誰が俺を呼んだのか、姿は見えずともすぐに分かった。
掠れていない高めのトーン、文字どおり鈴を鳴らしたような美しい声の持ち主は、彼女以外に考えられなかった。満を持して隣を向くと、白石すみれが今日配られたプリントを折りたたんでるところだった。


「あなたも夏期講習だったんだ」
「…… え? うん……」
「てっきり練習で忙しいのかと思ってた」


俺には見向きもせずに彼女は続けた。そんな事よりも気になるのは俺のフルネームをどこで知り、何故覚えていて、しかも「練習で忙しい」のを知っているのか。


「……あの、白石さん俺の事」
「知ってるに決まってるでしょ、あれだけじっと見られたら」
「…………」


どのタイミングなのかは分からないが、俺が白石さんを見ていた事は知られているらしい。もしかして五十メートルの測定をした時、あるいはその前から。だとすれば相当怪しまれているに違いない。


「じゃあね」
「あ」


立ち上がった彼女は椅子を丁寧に戻し、鞄を提げて教室を出ていった。素っ気ない。せっかく俺の事を知っているなら、もっと話をしてみたかったのに。


「……え? 白石さんも夏期講習受けてたの」


一刻も早く太一へ報告したかったのだが、初めて報告するタイミングを得たのはその日の練習後であった。
シャワーを浴びて部屋に向かいながら今朝の事を話すと、太一は感心したように唸っていた。白石さんも「わざわざ夏休みに勉強したがる人種」なのかと。


「そう。しかも隣の席」
「やったじゃん」
「そうでも無いよ…… 」


気になっていた女の子と夏期講習が同じでしかも席が隣だなんて、この上ない幸運だと思う。しかし 今日話した様子だと、俺と白石さんとの間には甘い空気など皆無だった。


「まず、俺が見てるのバレてた」
「そりゃそうだろ。見過ぎだよ」
「はっ? お前何も言わなかっただろ」
「言っても無駄だと思ったんだよ。何話したの?」


この男、川西太一は時々敵なのか味方なのかが分からなくなる。全面的に俺に協力する素振りを見せるのに、面白がってあやふやな事があるのだ。


「……大して何も話してない。ただいきなりフルネーム呼ばれた」
「へぇ」
「しかも俺の顔なんかひとつも見ずに」


シラブケンジロウ、俺の名前は知っていたのに顔を見ようとはしなかった。代わりに俺は整った彼女の横顔を拝む事が出来たのだが、お世辞にもいい雰囲気とは言えない。ずっと白石さんを見ていたのを知られてたんだから。


「道のりは険しいね」


その「険しい」とは俺を気の毒がっているのか面白がっているのか、分からないまま太一は自分の部屋へと入っていった。



夏期講習の二日目、昨日と同じ二年一組の教室に入ると既に白石さんが着席していた。
窓際の席に座る彼女には相変わらず太陽光が降り注ぎ、身体中に光を取り込んでいる。透明な肌は太陽の色に侵されて眩しく、直視すれば目を焼かれてしまうんじゃないかと思えた。


「おはよ……」


俺も自分の席まで歩いていき、小声で挨拶をすると彼女は顔を上げた。


「おはよう」


朝一番なのに全く掠れていない美しい声。目を合わせると何かを言われるかと思ったが、無言のままノートに目を落とした。ホッとしたけれどこれではいけない。


「あの、白石さん」


夏期講習の予習か何かをしているであろう白石さんに、再び声をかけた。迷惑がられたらどうしよう。 いや、迷惑なんて今更じゃないか。


「なあに」
「昨日の事だけど……」


昨日この教室に入ってきて白石すみれの姿を発見した時、俺は我慢出来なかった。彼女の姿を眼に焼き付けるのを。
これまでだってそうだった、プールサイドに佇む姿も泳ぐ姿も女子全員で固まっている時だって、白石さんは俺の視線を虜にしていた。


「……昨日って言うか、今までの事って言うか。気分悪くしてたらごめん」


本人に気付かれている、と言うのを気付かないほど凝視していた自分が恥ずかしいし情けない。きっと気味悪かったろうし嫌な思いをさせただろう。
目立たないように席について軽く頭を下げたが、白石さんはあまり深刻な様子では無かった。


「べつに気にしてないよ」
「……そっか」
「でもせっかくだし教えてくれる? どうして?」


俺の事を責めない代わり、白石さんからはとても答えにくい質問をされてしまった。


「それは……」


それはきみが同級生の中でも一際美しく輝いていたから、思わず凝視してしまったんだ。
なんて詩人みたいな事を言えるわけはない、それこそ気持ち悪がられる。でもどうにかして俺がその白さに、透明さに感動している事を知って欲しい。


「……白いね」
「え?」


その時ちょうど雲に隠れていた太陽が現れた。校庭を覆っていた影が消え、窓際の彼女を明るく照らしていく。陰っていた時には青白く見えていた肌がみずみずしい肌色に、そして、白い輝きを取り戻し
た。


「白石さんの肌、すごく白い」


目の前でそんな変化の行程を見せられたら、思わず口に出してしまうのは無理もない。ハッとして口を覆った俺に白石さんは顔をしかめるのではなく、群青色の瞳を細めて言った。


「それを言うなら白布くんもでしょう」


白い肌、黒く細い髪だけでも充分に美的感覚を刺激されるのに。ちいさな顔に所狭しと並んだ吸い込まれるようなふたつの眼。その目で見られると、微笑みかけられると、冷房で冷えきった教室内に熱が生まれるような気がした。



これまで学校のプールサイドと、廊下から隣のクラスを覗いた時にしか見る事の出来なかった女の子。会話をしたのは彼女が落とした水泳帽を拾ってあげた時だけだ。
だから余計に不思議な気分だった。あの子はどんな子だろう、どんな声で笑うんだろう、あの真っ白な頬を鮮やかに染める時もあるのだろうかと気になって仕方が無かった俺が、夏期講習の五日間は隣の席で過ごす事を許されたのだ。

いざとなったら俺に会話の引き出しなんか無くて、昨日は白石さんの肌が白いだの何だのと変な事を口走ってしまった。隣に座れるのは今日を含めて残り三日。これ以上緊張して変な姿を露呈しないよう、今朝は寡黙を装って黙って席についた。


「挨拶してくれないんだぁ」


が、そんな心構えの俺にお構いなく彼女は話し掛けてきた。


「……おはよう……」
「おはよ。」


まさか白石さんのほうから話し掛けてくるとは思わなかった。しかも俺に挨拶を促すかのように。
それって俺はひとまず嫌われてはいない、という事で良いのだろうか。最悪の場合、昨日のアレで変態扱いされる事も予想していたのに。


「びっくりしてるの?」
「……したよ。俺の事なんか興味ないのかと」
「でも、挨拶は基本でしょう」


そう言うと、白石さんは前を向いてしまった。俺に興味があるとも無いとも言わないまま。
本当に挨拶だけは必須の人なのか、それとも俺に挨拶を求めるという事は少なからず俺への好奇心があるのか? ちらりと横目で彼女を見るが、頬杖をついているせいで顔が見えない。しかし、あるものが見えた。


「白石さん……」
「何?」
「あの、首のところ」
「首?」


白石さんは頬杖をやめて顔を上げた。
今日の白石すみれは黒く長い髪を高い位置で結わえている。お陰で露わになった細い首、白いうなじには赤く腫れたような痕が。怪我? それとも日焼け? アレルギーか何か?
気になってそこを凝視していると、白石さんの手が首を覆ったせいで見えなくなった。


「……えっち。」
「えっ! いや、違、ごめっ」
「あははっ」


決して下心があって見ていたわけじゃない、そんな誤解をされたらたまらない。慌てて否定するも白石さんはけらけらと笑って、赤面した俺に向き直った。


「赤くなってるでしょ? 日焼け止め忘れちゃったの」
「……そうなんだ」
「すぐ赤くなっちゃうんだ」


困ったように笑いながら白石さんが言う。肌の色が白いから光に弱いのだ。太陽に照らされればあんなに美しく輝くのに、そのせいで肌を傷める事になるなんて皮肉である。水泳の時には一層の注意が必要だろう。


「水泳の前には念入りに対策するの?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「いやっ……ち、違う何でもない。ごめん」


何も考えずに質問してしまった。水着の時は肌の露出が多いから大変だよなという意味だったけど、こんなのやっぱり変態じゃないか。
もう日焼けの話は止めよう、講習開始まで残り数分だ。集中できるように深呼吸をしていると、なんと白石さんは先程の話に答えてくれた。


「水泳の時はね、そうだよ。念入り。親譲りなの、親より白いけどね」


やはり生まれつきの白さなのだそうだ。うなじが赤くなっているのは日焼けのせいと、痒くなって少々掻いてしまったかららしい。


「……これ使う?」


肌のトラブルは少なからず俺も持っているので、お節介を承知で鞄の中からあるものを取り出した。日焼けをした後に塗るクリームである。何故俺の鞄にこんな物が入っているのかと言うと、俺も肌が強くはないからだ。


「……何でこんなの持ってるの?」
「俺も日焼けに弱くて」
「ああ……」
「肌に合うか分かんないけど、よかったら」


下手をしたら断られるかも。自分が使っているものを使わせるなんて気持ち悪いと思われるかも。
でも、普段は真っ白であろうその部分が痛々しく赤くなっているのはあまり見たくなかった。白石さんは俺の手からそれを受け取ると暫く眺めて(薬の成分を見ていたのかも)、やがて「ありがとう」と蓋を開け始めた。



今朝は目が覚めると妙に身体が重くて、起き上がる事が出来なかった。体調を崩したのかと思ったけれど、外に出るとどんよりとした曇り空。天気のせいか。今日は気圧が低そうだ。


「おはよう」


傘が要るか要らないかの微妙な雨が降る中、校舎まで歩き二年一組の教室へ入った。白石さんはいつも俺より早く来て席に座っている。今日もいつもと同様だったが、俺の姿を見つけるや否や挨拶をしてきたのは初めてだ。


「……おはよ」
「今朝は曇ってるね」


白石さんは窓の外を見上げた。今日は太陽が隠れており、いつものような光を浴びた彼女の姿を見る事はできなくて残念だ。でも。


「……でも日焼けの心配は無い」
「ふふ、言えてる」


思わず漏らしたかのような笑みすら絵になる、こんな曇り空の朝だと言うのに。
俺はそれをじっと見たかったのだが、横目で見ようと視線を向けた時ちょうど「そうだ!」と彼女がこちらを見たので、慌てて前を向いた。


「昨日ありがとう、おかげであんまり日焼けが目立たないの。ほら」


見ようとしたのがバレていないだろうか。心臓のバクバクを抑えながら白石さんを見ると、今日は下ろしている髪をかき上げていた。透明なうなじが俺によく見えるように。


「見える?」
「みっ……見えるよ。見えてる」


確かに昨日赤くなっていた場所は色が引いていて、あまり目立たなくなっていた。薬局で安売りしていたクリームだったのに効果があったらしい。その効果に見惚れていると、また無意識のうちに見過ぎてしまっていることに気付いた。


「もういいの?」


首元を覗き込むのをやめた俺に、白石さんは誘惑するように確認した。
何故そんな事を聞く? よくないに決まっている。本当はもっと見ていたいのだ、細い首を。嗅いでみたいのだ、綺麗な女の子からはどんな匂いがするのかを。けれどそんな事を正直に言えるはずは無く。


「見ていいのに。気の済むまで」


と、白石さんが笑うのに対して無言で頷く事しか出来なかった。下手に何かを喋ったら、白石すみれの世界に惹き込まれてしまうと思ったのだ。透き通るような白い肌は世の中の誰もを虜にし、そこに自分の姿を映したいと考える男はごまんと居るに違いない。



金曜日、夏期講習五日目の朝。こんなにもおかしな気持ちになったのは初めての事だった。元々勉強は嫌いじゃないので夏期講習が終わるのを「嬉しい」とは感じないが、寂しさを感じる事になるなんて。


「おっす」
「はよ」


今朝も洗面所では川西太一と顔を合わせた。歯磨きのせいで口周りに泡を溢れさせている。それを水でゆすぎ、うがいを終えたところで太一が言った。


「今日まで? 夏期講習」
「おう」
「白石さんの隣も今日で終わりか」


その言葉に何か意味があるのか分からないが、俺は何も言わず蛇口をひねり顔を洗った。
そう、今日で白石すみれの隣に座るのは最後だ。今日何かをしなければ今後、俺たちのあいだに何かが起きる事は無いだろう。
白石さんはプールで出会った時よりは俺に心を開いているかに見える、が、下手をすれば開かれた心の中にぐいと引っ張られる。我を忘れてしまいそうになるのだった。


「進展した?」
「いや……」
「ありゃ」
「……白石さんは俺の事、変なやつだと思ってると思う」


少なくとも嫌われている事はないけれど。俺の事は「やたらと見てくる色白の同級生」くらいにしか思っていないのではないか、もしくは「女性慣れしていないガリ勉」とか。


「賢二郎は白石さんをどう思ってる?」


太一はある程度の答えが分かっているからこその質問をしてきた。こいつの悪い癖。
でも俺はまだ白石さんへの気持ちを言葉で簡潔に表す事が出来ない。姿を見れば高揚し、声を聞けば心が踊り、笑いかけられれば宙に舞うような気分になる。同時に恐ろしさを感じた。自分が自分でなくなるような恐ろしさ。


「……分かんね。けど、どこかに引っ張りこまれそうな魅力はある」
「何ですかその例え」
「自分じゃ彼女をどう思ってんのか分からないって事」


ばしゃ、と何度か思い切り顔を濡らしてうがいをした。こうしたって白石さんへの想いを整理できるわけでは無いのだが。


「そこまで思ってるなら、二文字で表現すればいいのに」


そうすれば楽になるよと言わんばかりの言い方であった。太一は誘導の天才だが、やすやすとその言葉には乗りたくない。


「その表現を使うのは告白する時だけだよ」


俺は自分でそこに辿り着く。できれば今日、自分自身で。手で払うと太一はやれやれと言ったふうに肩を落とし、洗面所を出て行った。


「おはよう」


今日も白石さんは早くに来ていて、窓際の定位置に座っていた。
昨日曇っていた空は奇跡的に晴れ渡り、小鳥の鳴き声でも聞こえてきそうな快晴だ。おはよう、と返事をすると白石さんは筆記用具を取り出しながら言った。


「今日までだね、夏期講習」


今日までだから、何があると言うのだろう。最後だから集中して受けようね、と言いたいのか。それともわたしの隣を陣取る事が出来るのは今日が最後だよ、と俺にプレッシャーを与えているというのか。


「……今日は日焼け止め塗ってきた?」


馬鹿みたいな質問だと自分でも感じてしまったが、白石さんはくすりと笑って頷いた。
ミステリアスで、とても同級生とは思えない一挙一動。あと二時間程で終わってしまうなんて、何か爪跡を残さなくてはと焦っていたが、残念ながら教室のドアが開いて先生が入室してしまった。

この時間が永遠に続けばいいのに、などと在り来たりな言葉を本でも漫画でもよく目にする。俺がそう感じたのは小学生の頃、初めて仲の良い同級生家族と一緒に海に行った時である。ずっとこの海で遊んでいられたらいいのにと、泳ぐのが下手な俺でも感じたのだった。
そして同じ気持ちになったのは今日で二度目だ。永遠に白石すみれの隣を定位置にする事が出来ればいいのに。


「なんか、あっけなく終わったよね。五日間」


白石さんは明るい声で言いながら、トントンと机の上で教科書やノートを揃えていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、夏期講習はこれにて五日間の全行程を終了した。先生も他の生徒たちも足早に教室を出て、本格的な夏休みを楽しむためのスタートを切ったようだ。俺は夏の間もほとんどは部活があるけれど。


「白布くんは、今から部活?」
「うん。自主練だけど」
「自主練って何するの」
「走ったりとか……、もう日が強いから走るのは夕方かな」


時刻は午前十一時半、間もなく太陽が一番高い位置へ昇る。運動部とは言えさすがにこの時間に外を走るのは避けたいところだ。暑さで頭がくらくらするだろうし、なんといっても日に焼ける。俺は男のくせに色白で、紫外線に弱いのだ。


「使う?」


ちょうど体育館へ合流してからの動きを考えていると、白石さんが横から何かを差し出した。


「……それは」
「一昨日のお礼」


手に持ったそれは白石さんがいつも使用している日焼け止めのようだった。
俺が持っているものよりもパッケージが女性らしくて高そうで、一体何を渡されているのか分かるまでに少し時間がかかった。更に俺が何かを言う前に、白石さんはその蓋を開け始めた。


「首元?」
「え」
「塗ってあげる」
「はっ? いや、ちょっと」


俺の首元に白石さんが日焼け止めを塗る、どこから突っ込めば良いのか分からない話だ。 しかしそんな事は構いもせずに、白濁とした日焼け止めを自身の薄い手のひらへにゅるりと出した。
そんなものを手のひらに広げて、更にその手を使って俺の肌に塗りたくろうと言うなんて正気なのか。


「白布くん、あなたどうしてわたしを見てたの?」
「……」
「貧相な身体だなぁと思ってたの?」
「そ……それは違、う」
「あはは」


せっかく出した日焼け止めが落ちてしまうんじゃないかと思うほど、白石さんが肩を揺らして笑った。
しかし器用に左右の手のひらになじませると立ち上がり、俺に一歩近づいてくる。驚いた俺も慌てて立ち上がろうと椅子を揺らせたが、白石さんは首を振った。


「座ってて。前向いて」


同級生の女の子にされるがまま椅子に座らされ、既に何も書かれていない黒板のほうを向かされている。白石さんが「下向いて」と小さく呟き、俺はそれに対して頷いたのかどうか覚えていないがとにかく言われたとおりに下を向いた。

いつ触られる? もうすぐ?まだ来ない。目を閉じて注射を待つ時のようにごくりと唾を飲み込む。と、首元にひやりと冷たい感覚が走った。


「……冷たい」
「すぐ熱くなるよ」


そう言いながら、白石さんが手をなめらかに滑らせて行く。
うなじ、首どころか制服の中にまで手が入り、冷たい肌触りが自慢の日焼け止めは互いの体温で一気に熱くなってしまった。すぐに熱くなるよ、とはこういう事だろうか。それとも別の意味?


「……白布くんの肌ってほんとうに綺麗だね」


白石さんの声は感動した様子でも、感心した様子でも無い。ただ目の前にある事実を口にしているかのような声であった。


「白石さんこそ……透き通りそうだって、ずっと思ってた」
「詩人だね」
「本当の事だよ」
「だから見てたの?」


凛とした声が耳元で聞こえた、かと思えば長い髪がはらりと落ちてきて俺の頬を掠めていく。白石さんの顔がすぐそばに。その息遣いまで聞こえてきそうなほどに。
俺は彼女の顔を直接見上げる事が出来ない。あれほど見たいと思っていて、あれほど遠くから眺めていたのに。だから今は、小さく首を縦に振る事しかできなかった。


「ほんとうにそれだけ?」


白石すみれはそんな俺を逃してはくれず、耳元に追い打ちをかけてくる。
美しいものを見たいと思う事に理由なんて必要か?視界の中にはなるべく綺麗なものだけを置いておきたい、普通の事ではないのか? 俺が白石すみれに抱く気持ちはそれで充分伝わるのではないか、簡単に口に出来るような二文字の言葉など遣わずとも。


「……白布くん。口下手だって言われるでしょう」


けれど、彼女は容易に俺のすべてを見抜いてきたのだった。俺がわざわざその言葉を選ばないのは口下手なせいであると、いとも簡単に当てられてしまったのだ。


「白石さんは……意地が悪いって、よく言われない?」
「失礼だなあ、言われないよ」
「嘘だろ」


俺の言葉で白石さんは笑った。まるで楽器でも奏でているかのような声で。
スカートをひらりと揺らしながら二歩進み、俺のすぐ前の席へと腰を下ろす。座ったとたんにこちらを向いて脚を組む。どうぞ、この脚も見たかったんでしょうと言わんばかりに。
思わずその誘惑に屈してしまうかと思ったが俺は堪えた、机の上をじっと睨む事で。でも机を睨んだらそれはそれで、白石さんの細い指がトントンと俺の机を叩いて翻弄してくるのだ。
太陽の申し子のように光を纏って美しい、だなんて撤回したい。透き通ったその肌に、瞳に、心に、周りに生きるすべての人間を映し取り込む事ができる悪魔のような人間だ。


「……積極的過ぎるって、言われない?」
「白布くんこそ、積極的に視線を送ってきたくせに。変な人」


それなのに俺はもうこの悪魔の虜になっていて、変な人、と笑われるだけで熱くなってしまうのだ。先ほど触られた首元だけでなく心の中も、身体の至るところが。


「髪、光が当たると特に綺麗だね」


俺がなかなか顔を上げないので今度は髪に興味が移ったのだろうか、何か細いもので髪が梳かれていった。きっと白石さんの指である。


「……そうかな。傷んでるだけだよ」
「そうは見えないけど」
「白石さんだって」


そこまで言って、はっとした。これでは彼女の思うつぼであると。


「……わたしだって、何?」


時は既に遅く、白石さんの大きな瞳に捕えられているのを感じた。正直に話すまで逃がされる事はない。


「……人間じゃないみたいに綺麗だよ」


この短い台詞を言うだけでも俺は沢山の神経を費やした。女の子を「きれい」だと褒めるのは、男にとってとてもハードルの高い事だから。でも白石さんは嬉しそうではなく、きょとんとした様子で言った。


「褒めてるの? 貶してるの?」
「褒めてるよっ」
「だって人間じゃないみたいって言うから」


当然だ。人間になんて見えやしない。存在を知った頃は天使のような、空想上の生き物のように感じていた。
今だって俺の心を掴んで離さない魔女のように、全神経を支配されている。憂鬱な水泳の授業で唯一俺に楽しみを与えてくれたし、現実離れした美しさはまるで夢でも見ているかのような気分にさせてくれた。


「……知ってただろうけど、俺はずっと白石さんを見てた」
「知ってる。プール開きの時から」
「あの日も直射日光が凄くて……」


ちょうど太陽の登る方角へ目を向けた時、プールサイドに立つ女子の中から白石すみれを発見した。空にはさんさんと輝くものが浮かんでいるのに、まるで地上にもうひとつの太陽があるかのように白く輝いていた。


「……どう感じた?」
「神秘的だって思った」


神秘的。その言葉を口にした瞬間に白石さんの口角が上がる。


「今は?」


もっとわたしを喜ばせる事を言ってごらん、そう言われているかのような感覚。言わなくたって分かるだろう、簡単な言葉で言い表す事なんか出来ないと。


「……夢みたい。夢を見てる感じ」


ふわふわと心が宙を舞う、まさに夢見るような気分にさせてくれる。白石さんは満足そうに頷くと机に頬杖を付いた。


「……やっぱり詩人だぁ。嫌いじゃないよ」


俺の顔を覗き込むようにして言うおかげで、長い髪がさらりと肩から落ちてくる。それを耳にかける仕草は男相手に話す時の鉄則なのだろうか。自分の喉がゴクリと鳴るのが聞こえた。


「嫌いじゃないって事は、何?」


今日この教室に足を踏み入れた時にはこんな話をするなんて思いもしなかった。白石さんが俺の事を「嫌いじゃない」と言うなんて。それも一つの机を挟み、真っ直ぐに見つめ合った状態で。そこまで俺を誘惑し夢を見せようとするのなら答えてくれまいか、もうひとつの言葉で。


「わたしに言わせるなんて、詩人の美学に反するんじゃないの?」


けれど、白石すみれは俺のような未熟な男の言いなりになるほど、素直で澄み切った心の持ち主というわけでは無かったようだ。
美しさと恐怖は共存する、俺は彼女に出会って初めてそれを体験した。透き通るような白い肌に空の青が、俺の心が映ってしまうのではと。実際彼女の肌に映し出された俺の顔にはきっと、答えが書かれてたのだろうけれど。

ヒカリの国の魔女