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ワルツよりもやさしい時間


午後の授業は男女別の体育だったり選択科目だったりして、白石さんと話すタイミングは見つけられなかった。話すと言うより俺は、謝らなくてはならないのだが。
教室の中で誰かに聞かれるのは嫌なので、放課後を狙うことにした。白石さんはいつも吹奏楽部の全体練習の後、あるいは自主練習の際、バレー部の体育館の近くでホルンを吹いているから。


「チーム交代!十分休憩ー」


コーチの声と笛の音が響き、試合形式の練習をしていた俺は休憩時間となった。
すっかり白鳥沢の戦力として頭数に入っているのは有難い。しかし春先に指摘された体力面についてはまだまだ課題があるようで、俺の息の乱れ方は牛島さんの比では無かった。もちろん、悪い意味で。

ただ、無理をしてがむしゃらになることが正解ではないというのも最近学んだことである。休憩は休憩、練習は練習で切り替えなくては集中できない。だから与えられた十分間で俺は体育館の外に出た。
集中集中と言っておきながら恥ずかしいけど、そろそろ白石さんが近くに来ていないか確認したかったのである。

外は先ほどまで雨が降っていたのか湿気が凄くて、それなのに気温は高くむわっとしていた。梅雨の時期は寮に入っていて良かったとつくづく思う。大雨の中、時には風の強い中、道を歩いて電車に乗って登下校するなんて大変だろう。

白石さんが普段ホルンを吹く場所まで来てみると、そこには誰も居なかった。まだ全体練習をしているのだろうか。それとも、もう俺の顔なんか見たくもないほど嫌われてしまったか。
どこかから白石さんが来やしないか、と辺りを見渡しながら歩いたところ、俺は足元がおろそかになった。何かを踏みそうになったのだ。


「……あ?っぶね、」


寸でのところでソレを踏まずに跨ぐことが出来た。カタツムリがのろのろと這っていたのである。踏んでいたらきっと悲惨だった。シューズの裏も、視界に写る死骸も。
無事に踏まずに済んだのでそのまま放っておこうかと思ったが、俺は何を思ったのかその場にしゃがみ込んだ。前にも感じたことがあるのだ。カタツムリという生き物が、白石さんの奏でる楽器に似ていると。


「ほんとに似てんな……」


ぐるぐる巻かれた殻の形はホルンに非常に良く似ていた。白石さんの姿は無かったけれど、なんとなく「まぁいいか」と思えてしまうくらいには癒されてしまった。自分でもちょっとイカレていると思う。

そんな俺も練習を放り出すことはせず、休憩時間が過ぎる前に体育館へ戻った。白石さんのことは後でまた探そう。なるべく避けたいけれど、最悪の場合は教室でも会えるのだから。


「終了ー!」


やがて今日の練習は終了し、体育館は撤収しなければならなくなった。掃除は一年生が率先して行ってくれる。毎年そのように決まっているのである。自分が散らかしたものだけは自分で処理することもあるけれど。


「雨上がったし、俺ちょっと走って来ようかな。賢二郎どうする?」


出口まで歩きながら川西太一が言った。彼にしては珍しく、今日の練習では物足りなかったようだ。
白石さんに謝るためのタイミングを探していたけれど、この時間になってもホルンの音が聞こえて来ない。今日は来ないのかもしれない。


「行こうかな……」
「お、いーね。行こう行こう」


昼間は蒸し暑いけど、夜はまだひんやりとする。涼しい夜道を走ればスッキリできるかも。
そう思ってランニング用のシューズを取りに行こうとした時だ。今日は聞こえないだろうと思っていた音色が響いてきたのは。白石さんのホルンである。


「……やっぱり……」


誘いに乗った直後にも関わらず断るなんて常識外れだ。しかし、思わず俺は太一の顔色を伺った。
楽器の音は彼にも聞こえていたので、表情を見ただけで太一は俺の言わんとすることを理解した。「どうぞ」と俺を音のするほうへ促すように手を差し出したのである。有難いのやら恥ずかしいやらだが、今はそれに甘えることとした。太一は後から追いかけよう。

太一をランニングに行かせてすぐに、俺は白石さんの居る場所に向かった。何度も言うがこの音が白石さんのホルンだという保証は無い。俺が希望的観測をしているだけで。
ただ、今日もその観測は当たりであった。白石さんがホルンを吹いていたからである。


「白石さん」


俺の姿が視界に入ったのか、声をかけるよりも先に白石さんは楽器を下ろした。残念ながらあまり歓迎されている雰囲気では無い。それどころか俺に少し怯えているように言った。


「……ごめん。うるさかったかな」
「全然……」


音がうるさかったから来たのではない。会いたくて話したくて謝りたくて来たというのに、姿を見せただけでそんな勘違いをさせてしまうとは。


「座っていい?」


そのように聞くと、白石さんは驚きながらも無言で頷いた。
俺はその場に腰を下ろした。近くには白石さんの鞄と楽器ケースがある。さっきまでここに居たカタツムリはいつの間にか消えていた。
まずどのように口を開くべきか考えていると、座り込んだ俺の頭に白石さんが言った。


「……ごめんね。試合の日」
「え?」
「応援に行けなくて……約束したのに」


先に謝らせてしまうとは思わなかった。しかも白石さんは全く悪くないのに。


「いいよそれは……そんなのいいから」
「でも」
「俺が悪かったから……」


俺は決勝の日、白石さんが来てくれていると信じていた。結果的にそこに居なかったのは正直とても落胆した。だけど、俺にとって本当にショックだったのは別のこと。


「白石さんが応援席に居ないのは確かに、ちょっと悲しかったよ」
「……ごめん」
「仕方ないことだって分かってる」
「ごめん……」
「でも俺が嫌だったのは、それじゃなくて……」


それじゃなくて、野球部の男子と間接キスをしていたことだ。
でも俺にはそれを咎める権利なんて無い。その上、全員かどうかは分からないが、吹奏楽部では間接キスなんて大したことじゃ無いといった雰囲気だ。


「どれ?」


なかなか続きを話さない俺を見て、白石さんが不思議そうに言った。
どうしよう、言おうか言うまいか。今は俺の情けなくてどうでもいい嫉妬なんかより、それが招いた失態を謝らなくては。


「……ええと、まあ……色々ちょっと……あったから。俺の中で勝手に」
「色々……?」
「俺、ひどい態度取った。白石さんは悪くないのに」


その言葉とともに俺は立ち上がった。白石さんだけを立たせたままで言うべきではないと判断したのである。だから改めて向かい合い、楽器を持ったままの白石さんと目を合わせた。


「ほんと、ごめん」


白石さんはしばらく口を半開きにして俺を眺めていた。幻覚でも見ているかのように固まっていて、時が止まったのかと不安になるほど。やがて白石さんの目から何かが流れ出たのをきっかけに、沈黙は破れた。


「……私、嫌われたかと…、」
「な……え!? ごめっ、泣くなよ」
「嫌われたと思ったんだもん……っ」


なんと白石さんを泣かせてしまったようだ。人目は無いにしても、両目から涙を流す女の子を見るのはいつぶりだろうか。しかも俺が原因で。
もしかして俺に嫌われたと思って不安がっていたのだろうか?だとすれば、今この状況でとても不謹慎だけど、ちょっぴり嬉しく思えてしまう。


「嫌わないよ。嫌いになる要素が無い」
「本当……?」
「むしろ俺のほうが嫌われて当然と言うか」
「そんなことない」


白石さんは首を横に振り、それから指で涙を拭き始めた。この時俺は、自分の首にあるタオルが綺麗だったならと心底残念に思ったものだ。もしかしたら多少俺の汗が滲んでいたとしても、タオルを差し出せば格好がついたかもしれないが。

涙を拭き終えて、白石さんは少し落ち着いたように見える。俺もようやく気が楽になった。白石さんに嫌われていなかった、それどころか彼女も俺に嫌われたのではと不安に思っていたなんて。この気持ちをどう表現すればいいのやら。
むずむずして、どこかが痒くて、それなのに心地いい気分。こんな時は音楽を聞きたい。イヤホンから流れる今どきの曲ではなく、金管楽器の音色で。


「吹いてみて」


手元のホルンに視線をやると、白石さんは目をぱちくりとした。一瞬、吹こうとして楽器を構えかけたように見えたけど。


「時間、大丈夫なの?」
「うん。いや、あー……うん」
「え。ほんと?」
「大丈夫」


やっぱり今日は太一のランニングに合流するのは難しそうだ。もう一度「大丈夫だから」と伝えると、白石さんは気恥しそうにホルンを構えた。