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知れば知るほど蒼かった


俺の精神状態が芳しくない事に、川西太一はすぐに気付いた。
入部したての頃はスポーツ推薦で入った太一が苦手だったけど、良くも悪くも自分を飾らない人間である事が分かったので、それからは気を許すようになった。俺に上から目線でそんなふうに思われるのは本意じゃないだろうが。一年と少しの期間を同じ屋根の下で過ごした同級生の中では、最も信頼できる存在だ。だから当然太一にとっても俺がどんな人間であるかが分かっているだろうし、俺が調子を崩せばすぐに気付かれるし、俺が不自然なほど元気な時にも同じ事。

例えば今回みたいに、せっかくインターハイ出場を決めて更に頑張らなくてはならない時なのに集中を欠く俺が目に入ると、気になって気になって仕方が無いようである。


「また賢二郎、なんかあったの」


太一は俺の気分を損なわないように配慮しながら言った。と言っても、俺は既にあまり良くない気分だ。好きな女の子と他の男の間接キス現場を見てしまって、それを見て見ぬ振りすら出来ない自分に対して腹が立っているのだけど。


「何も無い」
「絶対あるだろ。見てらんないよ」
「言ったらお前、絶対笑う」
「内容によるよ」
「内容が内容なんだよ」


決勝が終わった帰り、太一は俺のすぐ横を歩きながら野球部の試合を見ていたし、言わなくたって分かっているのだとは思う。白石さんがバレー部の応援に来なかったのも何故か知っていて、俺が試合前にそれを知ってしまわないように黙っていてくれた。その気遣いは有難いんだけど。結果的にあんな光景見せられて、それを自分の中で処理し切れずに白石さんに酷い態度を取ってしまった。
こればっかりは誰にどう相談しても解決策が見つからない。だから太一に俺の悩みを打ち明ける事は出来ないのだ、と告げようとした時。


「……この音」


どこからともなくホルンの音が聞こえてきた。本当は、どこから聞こえているのか分かっていた。誰が吹いているのかも俺には分かった。今は演奏者の元へ行く勇気が出ないだけで。


「最近よく聞こえてくるよな」


ただ太一はこの音を出しているのが誰なのかを知らないはずなのに、さも知っているかのように話を続けた。


「そういや決勝の時も応援すごかったよなあ」
「……ん」
「知ってた?あの時来てたのって、吹奏楽部のベストメンバーらしいよ」


俺はその話を冷静に聞くふりをした。
バレー部にもレギュラーと控えとがあるように、吹奏楽部にも楽器ごとに上手い下手の順序が付けられているのは白石さんから聞いている。全員がコンクールに出るのを許されているわけでは無い事も。
でも、同じ学校の部員が出ている試合を応援する事にすらその順序が関係しているとは思わなかった。それほどバレー部が特別なのか。嬉しいけれど嬉しくない情報だ。


「……ふーん。ベストじゃない人が野球部の応援に行かされたって事?」
「そーなるよね」
「何でそうなる」
「やっぱりホラ……こっちを優先してくれてるんじゃん。日程が被った時は…チアとか吹奏楽とかもさ、上手い人がバレー部のほうに来んの」


俺は白石さんがバレー部の決勝に来てくれなかったのを確かに嘆いていた。彼女の意思でどうこう出来る問題じゃないのも理解はしていた。けど、「他の奏者のほうが上手いから」という理由だったなんて知らないじゃないか?

もしかしたら白石さんはバレー部の応援に来たかったかも知れない、けど、それが出来なかった理由を彼女は知らされているのだろうか。当たり前に知っているだろう。それなら俺はもっと白石さんの気持ちを汲むべきだ。

だけどどうしても俺が素直になれないのは、白石さんが野球部の男子と、なんの躊躇もなく間接キスをしていた光景が焼き付いているせいである。


「あーっ!」


白石さんと気まずい状態のまま数日が経ったある日、食堂の自販機前で一人の女子が嘆いていた。去年同じクラスだった子だ。
俺もちょうど飲み物を買おうとしていたので、何が起きたのかなと耳を済ませつつ自販機に近づく。すると、ペットボトルを取り出しながらその女子は言った。


「間違えて押しちゃったー、くそー」


どうやら本来購入したかったものとは別の飲み物を買ってしまったらしい。たまにそんな事もあるよなと思いながら、俺は隣の自販機前に立った。


「飲んでみれば?おいしいかもよ」
「んー、うん……」


友人の声に促され、彼女は渋々ペットボトルの蓋を開け始める。最近自販機のラインナップが入れ替わったようだから、飲み物の並びが変わっているらしい。俺も間違えないように気を付けなくては。


「……あんまり好きくない味」
「あはは」
「もーやだぁ」


残念ながらこの女の子は、誤って買ってしまった飲み物が好みじゃ無かったみたいだ。
俺は目当ての商品を見付けたので小銭を入れ、ボタンを押そうと片手を伸ばす。俺は好き嫌いが多いほうだから、間違えるわけには行かないのだった。


「……あ。ねえねえ白布くん」


しかし、ちょうどボタンに触れようとした時に声を掛けられた。ペットボトルの蓋を閉めている最中の女の子に。


「何?」
「これ要る?間違えて買っちゃったんだけど口に合わなくって……ちょっとしか飲んでないから」


その子は片手でペットボトルを差し出してきた。
一口しか飲んでいないとは言え、もちろん飲みかけだ。一度その子の唇が付いている。それっていわゆる間接キスでは無いのだろうか。


「……えー……ええと」


俺はついつい顔が引きつってしまった。別にこの女の子が嫌いとか苦手というわけじゃない。「一度女の子の唇が触れたものに自分の唇を付ける」という行為が、俺の中ではとても特別で神聖な事なのだった。そして、俺が過去にそれを行ったのは親族を除いてただ一人。
だから受け取ろうとしない俺を見て、その女の子はペットボトルを引っ込めた。


「ゴメンゴメン、こういうの気にする人?うちの部って楽器みんなで使ってるからさ、間接キスとか感覚ズレちゃうんだよねえ」


それを聞いて俺は、今度は瞬きが一瞬止まった。
全然覚えてないし意識していなかったけど、この子もそう言えば吹奏楽部なのだ。何の楽器なのかは知らないが、自らの唇を付けなければ演奏できないものを担当しているのだろう。
この彼女曰く、そういう人達は「間接キス」というものを特別な事だとは思っていない。常日頃から楽器を通して間接キスを行っているから。


「そうなんだ……」
「それを踏まえた上でコレ!要る?」


その子はもう一度ペットボトルを差し出した。
飲み物を無駄にするのは良くない事だ。自分が飲めないものを他人に譲る、特に問題行為とは思えない。だけど俺にとっては問題だ。俺は白石さん以外の人とこういう事はしたくない。申し訳ないけど。


「ごめん。要らない」
「がーん」
「ははは、じゃあ私もらうよ」


隣に居た別の女子が手を出しながら言ったので、ひとまず飲み物は捨てられる事なく済みそうだ。飲めるなら最初から「もらうよ」と言ってやれよ。
いや、でも、おかげで俺は今まで知らなかった事を知れた。
今の女の子の言葉が本当ならば、白石さんは俺との間接キスなんて何とも思っていない。それは少しショックではあるけれど、同時にホッとした。つまり野球部のやつと交わした間接キスも、白石さんにとっては何の意味も無いんだ。俺がいちいち衝撃を受けていた事の全てが、白石さんからすれば普通の事。
だから俺がいきなりツンケンしてしまっているのは白石さんを傷付けているだろうし、一刻も早く謝らなくちゃという事だ。