05
唐突に理解した感情の名前


服を着替えて教室を出て、食堂に戻って黒尾や夜久と合流。それまでの記憶があまり無い。どのタイミングですみれと解散したのかも覚えていない。彼女の口から告げられた事実があまりに衝撃だったので、意識が朦朧としてしまったのだ。

すみれには彼氏が居る。付き合っている男が居るのに、どうして先にそれを言わなかったんだろう。どうして旅館で俺を誘って来たんだろう。どうして今日も、二人きりになれる場所へ俺を誘い入れたんだ。
どんどん湧き上がる疑問と罪悪感とで頭はいっぱいだ。知らなかったとはいえ、彼氏が居る相手と複数回にわたり関係を持ってしまった。そんなの許されるはずがない。


「木兎!」


我に返ったのは黒尾の声のおかげ。しかも、既にすみれに驚きの事実を知らされてから数日経っていた。これだけ時間を置いてもまだ、頭の中で整理するのに精一杯なのであった。


「なにボーッとしてんの。講義終わったぞ」
「ああ……」


いつの間にか午前の講義が終わっていて、生徒はぞろぞろと部屋を出ているところだった。
こんなにボンヤリしているのに、昨日よくバイト先でグラスを割らなかったものだ。手元を見れば講義の内容はしっかりメモに取ってあった。全て無意識にきちんとこなしていたらしい、それはそれで恐ろしい。

午後も黒尾・夜久とともに同じ講義を受けるが、そういった時は決まって一緒に食堂に行く。キャンパス外に出ると時間を気にしてあまりゆっくり出来ないからだ。
メモには取っていても集中していなければ頭に入っていないはず。気を入れ替えて午後から講師の話を聞かなくては、と黒尾の後ろを歩いていたその時。


「つーかさ、俺、ここで海の子見たかも」
「え?」
「海で会った子」


黒尾がこんな事を言い出したのだ。海で会った女の子を、この大学内で見かけたと。思わずビクリとしてしまったが、夜久も同じように「えっ」と声を上げていたので助かった。
しかし黒尾が見たのは誰だろう。すみれか、それとも別の女の子も同じ大学だったのだろうか。


「……どの子?」
「カオリちゃんじゃないんだけどさ。たぶん見覚えある。髪長くってー、このくらいの」
「俺、あんまり覚えてねーや」
「夜久はショートが好きだもんな」


夜久は首をひねっていたが、黒尾の手が示す「このくらい」という髪の位置はすみれと一致していた。


「木兎、覚えてる?」


今度は俺に話を振ってきた黒尾には、俺の表情は見えていなかっただろう。見られていたら危なかった。冷や汗がたらたらだ。俺とすみれの関係をこいつらに知られたところで致命的な何かがあるわけじゃないけど、確実にすみれの評価が落ちる。それは嫌だった。仮にも俺はすみれの事を好きなのだから。


「……覚えてない」
「そかー。じゃ見間違いかな」


俺は知らないふりをした。そもそも砂浜で会ったあれだけの時間でハッキリ覚えているほうが特殊なんだし。あの夜、俺が女子部屋に行った事をこいつらは知らない。その後俺がすみれと再会し、学校内で行為に及んだ事も。だからしらばっくれる事にしたのだが、そこで黒尾が足を止めた。


「……あ。待ってほら。アレだよアレ」


なんというタイミングだろう、黒尾の指さす方向に白石すみれが歩いていたのだ。その姿は狂おしいくらいに可愛くて綺麗で、じゃらじゃらと着飾っていないのに印象的。夜久も「覚えてねーけど綺麗な人」と呟いている。
そうだろう、すみれは周りに誰かが居たって目をひいてしまう女の子なのだ。隅から隅まで見逃さないように特徴を捉えたいと思ってしまうほど。
しかし、俺は今回別の意味で目を見開いた。すみれの隣を、男が親しげに歩いているのである。


「……彼氏イタンデスネ〜」
「居るだろそりゃあ、彼氏のひとりやふたり」
「なら俺にだって彼女のひとりやふたり居てもよくなーい?」


俺の隣では、二人がこんな会話をしている。俺はそこに加わる元気や余裕が無い。心臓が強く波打ち始めた。すみれの隣にいるあれが、彼氏というやつだろうか。あいつは俺がすみれとセックスした事を知っているのだろうか。お前の座に就きたいと思って闘志を燃やしているのを、気付いているのか。


「……こっち見た」


小さな声で夜久が言った。すみれが俺たちの視線に気付いたのか、一瞬だけこちらを向いたのだ。その時確かに俺と目が合った。「バチッ」と効果音が鳴りそうなほどにしっかりと。しかし、すぐにすみれは隣の男のほうを向いてしまった。


「……逸らされた」
「覚えてないんじゃね?」
「そうかなあ。それもそっか」


呑気な奴らめ。いや、俺もこいつらと同じ立場なら同じような反応をするだろうけど。
俺にだけは分かる。すみれが俺を認識できないはずが無い。目が合ったのに挨拶ひとつ交わさないはずは無い。隣に男が居たから、俺の事を知らんぷりしたのだ。
それが腹立たしくて悲しくて、とにかく惨めであった。このままでは終わらせたくない。このまま大人しく振られっぱなしなんて、気持ちが治まらない。


「……便所いく」
「うい。食堂の席取っとくぞ」
「ん!」


俺はいったん解散した。あの日から内緒で勝手な事ばかりして申し訳ないとは思うけど。居てもたってもいられなくて、すみれの歩いて行ったほうへ足を進めた。丁度そちらに男子トイレがある事は救いであった。


「じゃね」
「うん。また連絡する」


追い付く直前、こんな会話が聞こえてきた。「また連絡する」、俺はすみれの連絡先を知らないのにあいつは知っているのだ。彼氏だから?それとも俺と同じような存在か。男がその場を離れ階段を降りていった時、俺はゆっくりとすみれのそばに立った。


「……光太郎くん」


いつから気付いていたのかは分からないが、彼女は思ったよりも冷静だ。ただ、少なからず驚いている様子はあった。それも何だかカチンと来る。俺を見て取り乱すくらいの事をしてみろよ、と思ってしまうのだ。


「来て」
「え、」


俺は無理やりすみれの腕を取り、思い切り引っ張って歩きだした。すみれが俺の大股に上手く付いてきているかなんて知らない。とにかくすみれと二人きりの状態を作り上げたい。辿り着いた空き部屋にすみれを押し込んで時分も入り、背中で鍵をかけた。


「……こんなとこ閉じ込めて何する気?」


すみれは部屋の中を見渡して、最後に俺を見上げながら言った。少しの動揺も見せていない。


「何するかは……決まってないけど」
「けど?」
「話したい事が……」


しかし、何から話せば良いのか分からない。聞きたい事なら山ほどあったのに。まずは今、一番気になる事を問い掛けた。


「今のが彼氏?」


すみれはこんなにも近くで、俺みたいな男に見下ろされているのに微動だにしない。さっきはすぐに目を逸らしたのに、今は瞬きひとつせずに俺を見ていた。俺が問いただしている側なのに、まるでこっちが追い詰められている気分。
そしてすみれは何も答えなかった。無反応も反応のうちとはよく言ったもので、それだけで俺には分かってしまった。


「……今のが……」


今のが、すみれの彼氏。
見たところ好青年で爽やかで、俺みたいな暑苦しいやつとは全く違っている。俺みたいに身体から知り合ったのではなく、健全に、ひとつひとつの過程を重ねながら関係を育んだのであろうと思わせた。何もかもが俺とは違っている。
俺のほうが先にすみれと出会っていれば良かったのに。そう思うと、自然に手が出ていた。「手が出た」と言っても暴力を振るったわけじゃない。ただすみれの腕を、さっきよりも強く掴んでしまっただけ。


「……光太郎くん。腕、いたい」
「ごめん」
「なら離して」
「ごめん……無理」


離そうとしても離せない。離したくない。離したら俺なんか放ってここを出てしまうんだろうから。その前に聞きたい事は全て聞き出しておきたい。


「さっき、俺たち目が合ったよな」


黒尾と夜久は気づいていなかったけど、俺たちは確かに目が合った。すぐにすみれは向こうを向いてしまったが。あれはわざとだよな、という意味で聞いてみたがすみれはまだ無言だ。


「なんで無視したの?」
「……言わなきゃ分からない?」


すみれは答えてはくれなかった。と言うか、これが答えなのだろう。俺だって馬鹿じゃない。言われなくたって分かる。分かりたくないだけである。


「俺、前も言ったけど……」
「私も前も言ったよね」
「言われた……けど」


俺はすみれの事が気になっている。よかったら付き合いたいなと思っていただけなのに、彼氏が居ると知らされた途端に俺の気持ちは抑えられなくなった。


「すみれの事、諦めらんねえ」


そう言うと、すみれは何かを言い返そうとしたかに見えた。口を開くのが見えたから。だけどそれに気付いた時には遅く、すみれを壁に押し付けて無理やり口を付けていた。