09
美談を唱えるくちびる


苦手な言葉は「ありがとう」と「ごめんなさい」、人として生きるのに必要な台詞であることは分かっているが、どうも素直に口に出せない言葉たちであった。申し訳ないとは思っても謝れない。自分で言うのもなんだけど酷いやつだ。
だけど今回ばっかりは手のひらをくるりと返したように「謝ろう」と思えた。それもこれも白石さんのおかげなのだが。


「さっきはすみませんでした」


まるで人格でも入れ替わったかのような俺の態度に、その人は返事をするのも忘れているようだった。わざわざ俺が瀬見さんの部屋を訪問するのも初めてだし、何かの策略とでも思われているかもしれない。そしてこの人は嘘がつけない人だから、苦い顔で思ったままの事を口にした。


「……素直すぎて怖えーんだけど」
「ほんとにすみません」


俺の失礼な発言から数時間しか経っていないというのに、いきなりこんなにしおらしい態度を見せても効果は無いのかも知れない。直ぐに許されるとは思ってないし、俺なら俺を許さないからだ。
しかし瀬見さんと俺とでは頭のつくりが違う。良い意味で。だからぐしゃぐしゃと頭を掻きつつも、瀬見さんは溜息を吐いた。


「まあ別にいいけど……俺もちょっと言いすぎたと思うし」
「そういう事言うから俺みたいなやつに舐められるんですよ」
「舐めてたのかよ。つか反省してねーな」
「してます。すみません」


危うく嘘だと思われるところだったが、なんとか反省の意思を伝える事はできた。「明日はちゃんとしろよ」と最後に言われ、俺が素直に頷いて彼は部屋のドアを閉めた。よかった。性格のいい人で。



翌日も、あっという間に試合が終わった。インターハイ予選の準決勝。強い学校が集まる試合だと言うのに、終わってしまえばあっけないものだった。ただしそれは必然で、誰もが予想していた結果になったというだけの事。


『勝者、白鳥沢学園』


聞き慣れたアナウンスが館内に流れた。
白鳥沢の応援席ではほぼ全員が立ち上がって拍手をしている。その中には白石さんの姿もあった。あまり彼女のほうを見てしまっては集中出来ないので、なるべく応援席を見上げないようにしていたけれど。


『白鳥沢学園は明日の県大会決勝に進出です。会場の皆様、大きな拍手をお願いします』


そのアナウンスが流れると、会場内の拍手はいっそう大きくなった。
三年生の先輩はこれらを背中に受け慣れているだろうけど、俺は少々くすぐったい。今日も途中で瀬見さんの代わりに試合に出る事が出来、その成果は自分でも信じられないくらい良かったのだ。再び交代でベンチに戻った時には皆に褒められた。誰かに部活の事で褒められるなんて滅多になくて、だから俺はどんな顔をしていいのか分からなかった。


「決勝か……」


明日は県の代表を決める決勝の日。インターハイまでに瀬見さんから正セッターの座を奪ってやるぞという意気込みは、今も変わっていない。まあ、人間としては完全に負けているのだけど。

だけどそんな卑屈な俺も今日はとても調子がよかった。心にも余裕があったし試合にも集中できた。それは昨夜瀬見さんから受けた対応のおかげもあるけれど、吹奏楽部の盛大な演奏のおかげでもあるわけで。
特にその中でホルンを操る女の子には頭が上がらない。けど、顔を見たい。居るかな、今日も。明日の決勝に向けて吹奏楽部も練習しているか、あるいは身体を休ませるために帰宅してしまってるか。


「……雨」


白石さんの姿があるかどうかと彼女の練習場所に来てみたが、ぽつぽつと雨が降り始めた。そういえばもうすぐ梅雨入りだ。
屋根のある場所に入って歩いていくと、俺の行く手を阻むものがそこに居た。と言ってもなんのことはない、ただのかたつむりである。普段なら何も考えずに跨いで進むのだが、今日はそこで足を止めてしまった。この生き物に愛着が湧いてしまったのだ。理由は分かっている。俺はその場にしゃがみこんで、べったりとセメントの地面に張り付いているかたつむりを眺めた。


「お前、なんかホルンに似てんな」


見れば見るほど思ってしまう。白石さんの楽器のかたちにそっくりであると。
かたつむりは俺が何を言っているのか理解できないだろうけど、俺に見られている事は分かったらしく、ゆっくりゆっくりと進み始めた。まさかかたつむりの事を可愛いとか癒されるとか感じる日が来るとは思わなかったけど、やばい。ちょっと可愛いかもしれない。俺の顔は自然とにやけていた、が。


「何してるの?」
「うわっ」


雨のせいで足音が聞こえなかったせいだろうか、近付いていたその人物に全く気付かなかった。白石さんがいつの間にかすぐ後ろに居たのだ。


「白石さん……」
「今、かたつむりと喋ってたでしょ」
「し…喋ってない」


咄嗟に否定したものの、俺がかたつむりに話しかけていたのが聞こえていたらしい。白石さんはにやにやしながら俺を見下ろしていた。
最悪だ、最悪でもないけどとにかく最悪。どっちだ。せめて「ホルンに似てんな」という言葉は聞き取られていなかったと思いたい。


「飲む?」


勢いよく立ち上がった俺に、白石さんが何かを出した。先日も俺に一口くれた、レモンの果汁が入ったペットボトル飲料である。


「……いいの?俺が飲んでも」
「いいよ。どうして?」
「いや……」


だってこれを飲むという事は、二度目の間接キスをするって事だ。白石さんは俺との間接キスを何とも思っていないのだろうか。それとももしかして、俺ならば構わないと思ってくれているのか。俺があの日から白石さんの事ばかり考えてしまう単純な男だと、気付いていないのだろうか。

いずれにせよ俺に彼女の申し出を断る理由なんて無い。白石さんの飲みかけを一口もらうなんて、嬉しくて嬉しくて仕方が無いのだから。
俺はペットボトルを受け取ってゆっくりと蓋を開けた。慌てて蓋を落っことしてしまわないよう慎重に。そして、緊張して唾液がいつもより多くなっているのを飲み込んで、飲み口に余分な唾液が付かないよう気を付けながら口を付けた。


「……美味い」
「ね」


そう言って白石さんが手を出したので、ペットボトルを彼女に渡した。その時少しだけ触れた指先について、向こうはなんとも思っていないのだろう。


「明日、決勝だね」
「うん」
「白布くんの出番が楽しみだ」
「あるのか分かんないけど……」
「あるよ。絶対」


白石さんが俺の言葉を遮るようにして言った。そこまで言い切ってくれるなんて嘘でも嬉しい。けど、すぐに彼女はいたずらっぽく笑った。


「まあ分かんないんだけど!コートの白布くんを応援するつもりで明日は行くから」
「……うん」
「だから白布くんも、かたつむりをニヤニヤ眺めてる場合じゃないぞ」
「にやっ……」


かたつむりに話しかけているのを知られたのみでなく、ニヤついていたのもバレていた。白石さんの持つ楽器に似ているからだと気付かれていたらどうしよう。


「ニヤニヤなんかしてない」
「してたじゃん」
「してない」
「そんなに否定しなくても。生き物が好きなの?」


しかし、白石さんは斜め上の予想をしていた。なんだ、気付かれてない。ホッとしたような残念なような、複雑な気持ちである。「まあそんな感じ」と伝えると納得したように頷いていたので、俺は生き物好きとしてインプットされてしまったかも知れない。


「明日は楽しみにしてる」


やがて白石さんはかたつむりから話を逸らした。明日の決勝も吹奏楽部が応援に来てくれる。白石さんが応援席からコートを見てる。俺が試合に出られる・出られないにしろ、それは変わらない。


「俺も。白石さんの演奏楽しみにしてる」
「はは、ソロじゃないけどね」
「関係ないよ」


何が関係ないのかなんて彼女には予想もつかないだろうけど。早く明日になって欲しい。決勝に勝って、インターハイの本線行きを決めたい。できる事ならば試合に出たい。白石さんにその姿を見てほしい。
久しぶりに良い気分で眠りについたものの翌日には良くない事が起こるなんて、俺にはまだ知る由もなかった。