08
魔法かもしれない


よくない空気だな、と思った。しかしこの空間で「よくない」のは俺だけで、その他の部員は全くもって正常である。今日のインターハイ予選でチームが勝利したのだから、むしろ清々しい気分であるべきなのに。
学校に戻り今日の試合の反省をして、各々個人練習をしてから部活は終わった。俺にはその「試合の反省」すら監督からは何も言ってもらえなかった。良くも悪くも印象に残るプレイをしていないのだ。出番が少なかったから。


「白布、今日よかったじゃん」


しかし、残酷にもそんな俺を評価する人物が居る。しかも嫌味ではなく心からの言葉であるのが伝わってきて、それが逆に俺の神経を逆撫でした。おかしいのは自分だ、分かってる。だけど止められないのだ。この人にだけは何故か、仏頂面の仮面を付けてしまうのだった。


「…何がですか?」
「初めての公式戦なのに、無駄な力とか入ってなかっただろ?」


瀬見さんは今日の試合についてこう話してくれた。
この人は俺よりも上手くて経験値がある。身長だって五センチほども違うし、何より誰からも信頼され好かれる性格を持ち合わせている。素晴らしい模範であるというのに俺は、その嬉しい言葉たちを素直に受け取ることが出来ない。


「今日はお前が入ってくれて助かったよ」


にっこりとした屈託のない笑顔。その表情を何の計算も無く顔面に貼り付けているのだとしたら恐ろしい。
…だけど俺が今不快に感じているということは、これは瀬見さんの本心なのだ。本心でこんな菩薩のような言葉を放ち、仏のような顔で俺に接する。理解できない。


「……何言ってるんですか」
「へ」
「今日勝てたのは俺のおかげじゃないですよね。瀬見さんの体力を温存するために出されただけですよね」


理解ができないものに近付かれるのはとても苦痛だ。自分の不甲斐なさが強調されてしまうから。
自分が楽になるためにはこうするしかない。この手段しか浮かばないのだ。近付いてくるこの人を無理やり遠ざけることしか。
瀬見英太という人はそれでも歩み寄ってくるが、その表情はさすがに歪み始めていた。


「…何でそんな後ろ向きなんだよ、監督がお前に期待してるからだろが」
「本気でそう思ってるんですか?俺にいつ椅子を奪われるかもしれないのに、」
「ちょっと」


そこへ割って入ったのは同学年の川西太一だった。川西とは寮の部屋が隣で、去年同じクラスだったこともあり仲がいい。その川西がわざわざこんな面倒事に首を突っ込んでくるなんて考えられない。つまり、川西太一でさえ「止めなくては」と思ってしまうほど、今の俺は見ていられない状態のようだ。


「やめとけよ」
「……」


川西はあまり俺を刺激しないようにしているのか、小声で呟くのみだった。
友人からの指摘でようやくほんの少しの冷静さを取り戻した俺だけど、まだ瀬見さんとの睨めっこは終わっていない。しかしさっきまでは俺のほうが強い睨みを利かせていたのに、今では瀬見さんのほうが気分を害していた。


「…何が気に食わないのか知らねえけど。俺の言ってること理解できないか?どうして俺がここまで言うのかも見当つかないのかよ」


分かってますよそんなこと。あなたの性格なら痛いくらいに伝わってます。俺の狭い心では素直に受け入れることが出来ないだけで。
これらを声に出すことも出来ない俺は、無言で瀬見さんと目を合わせるだけ。何も言わない俺にとうとう呆れてしまった瀬見さんは、最後にこう言い捨てた。


「理由が分からないんだったら俺は、一生お前にレギュラーを譲らないからな」


この人が怒りを露わにするところを、俺は初めて見た。周りの人間もそうだったらしく、場はシンと静まり返る。その中でもまずは川西が青い顔で耳打ちしてきた。


「…怒らせちゃまずいよ」


言われなくても分かっていた。俺はまずいことをした。こんな後輩、俺が瀬見さんの立場なら暴力を振るっているだろう。



なるべく一人になりたいのに、寮の部屋でじっとしているのも落ち着かない。しかし今日はもう試合と自主練でくたくただし、精神状態も最悪。俺はかすかな希望を持って靴に履き替えると寮を出た。どこかに出掛けるわけじゃない。確約があるわけでもない。ただ「もしかしたら」という期待はあった。唯一俺の心を鎮められるであろう音色を奏でる人が、まだ学校に残っているかもしれない。
そして、歩いていくうちにそれは聞こえてきた。今日の試合を応援に来てくれていた吹奏楽部の、楽器の音である。


「今日はお疲れ様」


先に口を開いたのは彼女のほうだった。俺の姿を発見した白石さんがホルンから唇を離し、笑いかけてくれたのだ。それだけで沈んでいた心がふわりと浮いたような気がした。
試合が終わったあと、バスの前で会った時にはろくな返事が出来なかった俺だけど、やっぱり白石さんには俺の気持ちをマシにしてくれる力があった。
しかし嬉しい反面心配である。バレー部の練習は既に終わっており、もう薄暗くなり始めているというのに白石さんはいつまでここに居るつもりだろうか。


「…まだ練習してるの?昼間応援に来たところなのに」
「そうだよ。一番になりたいから」


ところが俺の遠回しの気遣いには気付きもせず、白石さんは当たり前のように答えた。


「ソロパートは一番うまい子が吹くことになってるからさ」


迷いなく話す白石さんを見て、忘れかけていたことを思い出した。
白石さんはコンクールでホルンのソロパートを吹くことを目標にしている。俺はインターハイまでにレギュラーの座を奪い取る。ふたりで約束したのだ。俺が馬鹿みたいに失礼な態度で瀬見さんと衝突している間にも、白石さんはここで練習していたのだ。


「……どうしたの?」


俺の顔があまりにもどんよりしていたのか、白石さんが首を傾げた。
話せば楽になるかも知れない。でもきっと幻滅されるだろう。だけど白石さんには聞いてほしい。話すか話すまいか、それを考えるだけで頭が重い。
そんな時、目に入ったのは薄暗いなかでも存在感を放つ楽器であった。


「…吹いてみて」


俺は無意識に頼んでいた。なんでもいいから吹いてほしい。
白石さんは突然のことに目を丸くしたけれど、ゆっくりとホルンを構えた。
俺はどの指がどの場所にセットされるのか、注意深く見守った。見たところでどの音が出るのかなんて分からないくせに、彼女が演奏する時の一挙一動を見逃したくなくて。
それからすうっと息を吸い、白石さんの胸が大きく膨らむ。次に聞こえてきたのは、暗い空とか情けない俺の雰囲気とは正反対の明るい音色。アップテンポの短い曲であった。


「なんて曲?」


ホルンを下ろす白石さんに、息付く間もなく聞いてしまった。どうしても気になってしまったから。


「えーと…え、無題」
「無題?」
「ごめん、即興で吹いちゃった」
「即興……」


どうやら曲名なんてついていなくて、適当に吹いただけのフレーズだったらしい。それなのに不思議だったのは、なんとなく聞いたことがあるなぁと思えたこと。


「…なんでだろ。元気が出る曲だった」


そして最悪だった俺の気分が、別人の人格でも入り込んだみたいに穏やかになってしまったことだ。


「元気、なかったの?勝ったのに」


白石さんはホルンを置いて、段差のところに座り込んだ。すっかり俺の話を聞く体勢だ。
聞いて欲しいけど言えない、ともやもやしていた俺だけど、自然と口から言葉が出た。先ほど起きた出来事を、白石さんに話してみようと思えたのである。


「…っていう感じのことを言っちゃって」
「先輩に?」
「うん」
「それはよくない」
「……うん」


予想できたことだが、白石さんはバッサリと俺に駄目出しをした。それが心地よくもあり、恥ずかしくもあり。白石さんの言うとおり、俺はよくないことをしたから。
しかし白石さんの表情は険しくなく、むしろ気の抜けたように吹き出していた。


「…なんてね、私も上手い友だちには正直嫉妬するよ。私だって練習してるのにどうして?とか」
「……」
「私の場合はライバルが同級生だけど。白布くんの先輩は来年もういないよ」


表情は穏やかだけど、話す言葉は的確だ。俺は無言で頷くしかなかった。


「来年は白布くんが中心にならなきゃいけないんでしょう」


これも大人しく頷くしかない…なんてことは無く。来年、先輩が居なくなったあとに俺がバレー部の中心になる?そんなの考えたこともない。


「…なれんのかな、中心とか」
「それは今からの行動で決まるよ」


「なれるよ」とも「無理だよ」とも言わない白石さんだったけど、それが逆に俺の決意を固めたのは言うまでもない。白石さんが今こうして目標を見失わずに居るように、俺もそうしなくてはならないと思えた。