03
気のない僕らは気のせいにもできない


テレビとか漫画で見るような「ひと夏の思い出」って、そんなもんあるわけ無いだろうと思っていた時期が俺にもあった。
初対面の女の子に惹かれて恋人以上の事をして、それっきり会う事も無くその日の身体の感覚だけが残っている。白石すみれの存在は俺の記憶に深く刻み込まれる事になった。俺はあの時酒が入っていたのに、だ。
初めて会った俺に恥ずかしげもなく裸をさらす度胸とか、得意げに笑う口元とか、そのくせ俺を相手にすっかり気持ちよさそうに喘ぐ姿とか。それらを思い出しながら、一人で何枚のティッシュを無駄にした事か分からない。


「木兎、学祭のやつ出した?」
「へ」


まだ夏休みが終わっていないある日の事、大学でもバレーを続けている俺たちは体育館を使っていた。ひと汗かいて休憩しようと腰を下ろした時、黒尾鉄朗が言ったのだ。今年の学園祭の出し物についての紙を、実行委員会に提出したのかと。


「…やっべ。忘れてた」
「おい」
「お前のせいで俺ら何も出来なくなるじゃねーか!」
「ごめんごめんごめん鞄のどこかには持ってるから!」


とはいえ最後にあの紙を目にしたのは一ヶ月も前の事なので、本当に鞄の中に入っているのかは疑わしい。が、夜久の言うとおり俺のせいでバレー部だけ何も出来ないのは絶対に避けなくてはならない。
冷や冷やしながら鞄をひっくり返した結果、無事にテントと場所の借用申請書を発見した。


「締め切り明日じゃん…セーフ」
「セーフじゃねえ。出して来いよっ」
「わーってるよ」


大学の学園祭も高校の時と同じように、ゼミやサークル・部活などで色々な出し物がある。人数も規模も高校の時とは比べ物にならないし、こうしていちいち何かにつけて許可や申請が必要になるのだが。楽しみだけど面倒くさい。終わってしまえば一気に寂しくなるのだろうけど。


「…はー。こっちのほうあんまり来た事ないな」


実行委員会の教室は滅多に行かない建物の中にあった。しかも四階の一番端という利便性の悪いところ。まあ、ここに足を運ぶ機会もあと学園祭が終わるまでのあと数回ほどだろう。まだ夏休みという事もあり人の姿は少ないが、大学構内では準備に勤しむ生徒がちらほらと居た。


「失礼しまーす」


ようやくたどり着いた実行委員会の扉をノックし、返事が聞こえたような気がしたので中に入った。実際には俺が勢いよくドアノブを回したせいで、相手の返事が聞こえなかっただけかも知れないが。
中に入ると数名の生徒が居て、書類やパソコンと睨めっこしているようだった。忙しそうだ。さっさと終わらせよう。


「バレー部なんですけど、コレ出しに来ました」
「ああ、はい。確認しますね」
「お願いしま……」


紙を手渡そうとした時、俺は思わず手を止めた。その紙を相手が受け取ろうとしているのに、俺が固まっているせいで用紙がピンと張る。それも無理はない。目の前で学園祭の実行委員として立っている女の子が、先日旅館で身体を重ねた相手だったのだ。


「………ッ!?」


俺は声も出せずに口をぱくぱくとしていた。
ここには俺と彼女以外の人間も居るので、あの事を話すのはどう考えても利口じゃない。けど、あまりにも突然の再会だったので動揺した。反対に彼女のほうは顔色ひとつ変えなくて、俺の顔をまっすぐに見て言った。


「何か?」
「え、っ?いや、何も」
「書類は受け取るので、ここの規約だけ読んでサインお願いします」
「あ、うん、はい」


彼女はあまりにも淡々としていた。もしかしてただのソックリさんで、全くの他人なのだろうか?
利用規約に目を通しながら、俺は彼女の姿を観察した。髪の色、口元、すべて記憶の中の白石すみれと一致する。肌の色はあの日よりも少し焼けており、あれから更に海水浴にでも行ったのかなと思える。唯一疑わしいのは服装で、海であった時の様子から考えると意外とシンプルな装いをしていた。ここが学校だから?それとも俺の思い違いで、この人は別の人間だから?


「白石さん、お昼どーします?」


その時、部屋の中に居た別の女の子が言った。俺の前に居る子を「白石さん」と呼んだのだ。
間違いない。俺は確信した。だけど、だからってどうすればいいのだろう。何も浮かばないまま、やるべき事をさっさと終えてしまった。


「…読みました。書きました」
「ありがとうございます」
「えっと、じゃあ俺…えー」


せっかくまた会えたのだから何か話したい。夏の間ずっとあの日の事を考えてました、とか言ったらドン引きだろうけど。とにかく偶然の再会への驚きや感動を分かち合いたいのだ。だけどそれをこの場でどのように伝えれば?
あたふたしながらも黙り込む俺を、すみれももう一人の女子もじっと見ていた。不審者じゃん、俺。


「鈴木さん、私お昼買ってくるから」


そこへすみれが声をあげた。
鈴木さんと呼ばれた女の子は「はーい」と軽く返事をし、パソコン作業へと戻る。二人の様子からして鈴木さんは後輩のようだ。それからすみれは隅に置いてあった自身の鞄を手に取ると、教室の出口へと向かった。慌てて俺も追いかけた。ここに居たってもう用事なんか無いからだ。


「…失礼しましたー」


すみれに続いて教室を出た俺は、ゆっくりとドアを閉めた。そしてそれ以上にゆっくりと、背後に立つ彼女のほうを振り向いた。


「…なあ。すみれ、だよな?」


違ったらどうしよう、なんて気持ちはもう無い。間違いなく本人なのだから。
二人きりになった今もなお他人行儀に振る舞われたらどうしよう。と思ったけれど、すみれは歩き出しながら言った。


「同じ大学だとは思わなかった」


よかった、やっぱりすみれだ。そして俺の事を覚えていた。大学生同士だという事も。


「だよな!俺もびっくりした」
「光太郎くんバレー部なんだね。納得」
「何が?」
「すっごくいい身体してたから」


今は真昼間で、外から差し込む光は健全な明るさをもたらしているのに、一瞬にしてあの夜のことを思い出した。それを何事も無かったかのように言ってのけるすみれが逆に妖艶というか。「いい身体」なんて言われて浮かれる気分には到底なれなくて、しどろもどろになってしまった。


「…それは…そっちこそ…いい身体して…いや、ごめんこれセクハラ」
「普段から童貞っぽいんだね」
「どっ童貞じゃねーし」
「分かってるって。上手かったよ」


駄目だ。これ以上彼女のペースに巻き込まれるわけには行かない。静かに深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、なんとか会話の主導権を握ろうと試みた。


「なんでさっき初対面のフリしたわけ?すぐに気付いてただろ、俺の事」


学園祭のための用紙を渡した時、俺は「まさか」という気持ちもあって一瞬戸惑ってしまったけれど。その様子を見れば俺が木兎光太郎である事に気付いたはずだ。そうじゃなきゃ、わざわざ俺と同じタイミングであの教室を出る事も無かっただろう。すみれのほうも俺との再会について思うところがあったのでは?例えば、同じ大学なんだから仲良くしよう、とか。
だけど、すみれの頭にそれは無かった。


「……大学内でそういうややこしい事、したくなかったから」
「ややこしい事?」
「ココでは普通にしてたいの。勉強とか遊びとか、恋とか全部」


「恋とか」の部分だけ声が大きくなった、ように聞こえた。
通っている大学の中では「普通」でありたい。そう言われてもよく分からない。充分普通の女の子ではないか。初対面の相手と簡単に行為に至る事以外は。


「俺は…」


まるで俺と海で会った事、その夜に起きた出来事も全部無かった事にされるのではと恐ろしくなった。それでは困る。こうしてまた会えたのなら、あれを「ひと夏の思い出」で済ませる気なんて起こらない。


「俺は、また会えたらいいなって思ってたから…会えて嬉しいんだけど」


用意していた台詞でも何でもなく、思った事をそのまま口にした。すみれはどんな気持ちで聞いてくれただろう、俺がすみれとのセックスを思い描いて何度も自慰行為に及んだ事に気付くだろうか。それでもいい。大きくて真っ黒な目からきれいに生えそろった睫毛を揺らして、俺の事を見てくれるなら。


「…何それ。口説き文句?」
「い!? いや」
「私もう行くからね!実行委員ってやる事いっぱいあんの」


そう言うと、すみれは俺の事なんて置いて先々歩いて行ってしまった。
追いかけて連絡先でも聞いてしまえば良かったのに、それが出来なかった理由は三つある。俺も皆の待つ体育館へ戻らなければならなかったという事。同じ大学ならばまた会えるだろうという事。そして、すみれの魅力的な尻が左右に揺れるのを、ずっと見ていたかったからである。