05
ふたりの一存において


他人は俺を笑うだろうか、たった一度の間接キスで女の子の顔が頭から離れなくなっている俺を。
唇が直接触れ合ったわけじゃないのは分かっている。それに俺だって、自分が間接キスのひとつやふたつで心を乱すような純情さを持っているなんて知らなかった。相手が白石さんだったから、かもしれないが。


「…またボケッとしてる」


呆れたような声は今、俺が最も聞きたくない相手のものだった。と言っても俺はこの人を嫌いなんじゃなくて苦手っていうか、どちらかと言うと「嫌い」かも知れないけど、とにかく良い感情を持っていない。相手もきっと俺を鬱陶しいと思っているからだ。同じポジションを争う上級生の瀬見さんは、何かと俺に小言を言ってくるから。


「ボケッとなんかしてません」
「してるだろ。お前さっき誰かに呼ばれてたぞ」


瀬見さんは怒っていると言うよりも呆れており、体育館内のどこかを指さした。俺を呼んでいた「誰か」の居る方向だと思われる。今回は俺の落ち度だ、呼ばれていたなんて全く気付かなかった。


「…それはすみませんでした」
「シャキッとしろよー、そんなんじゃ他のやつにレギュラー持ってかれるぞ」


しかし、そこで話を終わらせてくれればいいものを彼はいつも一言多い。下克上を狙う俺を心配するような、気遣うような一言。それらを聞く度に、心の中がどす黒く染まっていくのだった。


「…おーい。聞いてんのか?」
「どうしてそれをあなたが言うんですか」
「え?」
「ずいぶん余裕なんですね」


自分が瀬見さんに対してだけ酷く感情的になる人間だというのは、数ヶ月前から自覚していた。どんなにやってもこの人に勝てない。悔しいのに尊敬させられる所もあるし、どういう顔でどういう気持ちを持って接すればいいのか未だ迷子なのである。その結果今は「いい加減にしろ」と殴られても仕方ないような、こんな態度が通常になってしまった。


「余裕って言うか…俺はお前を気にしてだな」
「俺のことなんか眼中に無いですか?だからそうやって励ましたりする余裕があるんですよね?」


申し訳なさはある。しかし態度を改められるような大人気は無い。「ごめんなさいこんな後輩で」、そう思いながらの嫌味ったらしい台詞は自分でも驚くほど低い声だった。とうとう瀬見さんはこれ以上俺に構うのをやめることにしたらしく、大きな溜息をついた。


「…とにかくお前、呼ばれても気付かないくらいボーッとしてたんだからな。それは分かっとけよ」


その言葉を最後に彼は離れて行った。今の俺は瀬見さんの背中を物凄い形相で睨んでいるのだろう。
どうして俺のような後輩をあそこまで気に掛けられるのか、その神経が分からない。だから余計に苛々してしまうのだ。


「…分かってるっつうの…」


一瞬にして嫌な気分になった。それが自分のせいだと分かっていながら。むしゃくしゃしてたまらない。こんな状態では呼ばれても気付かないどころじゃない、全く集中出来ない。こんな時どうすればいい?誰を頼ればいいのだろう。
と、部員の顔を見渡してみても答えは全く見つからない。同じ部活で鍛錬している彼らには、俺の気持ちは恐らく分からない。分かってもらえても理解はされないだろう。


「……」


一人になろう、少しだけ。外の空気を吸おう。俺は頭を冷やす必要がある。
今は楽器の音がしていないから、白石さんと鉢合わせる心配も無さそうだ。こんな情けない顔は見られたくない。なるべく遠くまで歩こうと、ぐしゃぐしゃに顔を拭いていた時。


「あっ!」


喜ぶべきか悲しむべきか白石さんの声が聞こえたのだ。しかも明らかに俺の姿を発見した声が。目を向ける前にタオルでぐっと顔を押さえ付け、変な表情にならないよう気合いを入れてから振り向いた。


「…白石さん」
「休憩?」
「うん、まあ」


白石さんは比較的元気な様子であった。あれから吹奏楽部で上手くやれているのだろうか。俺はと言うと練習に集中出来ないし瀬見さんともゴタついて気分が最悪。それなのに先日白石さんと交わした間接キスがチラついて、頭の中はめちゃくちゃだ。


「何か良くないことあった?」


口を真一文字に結んでいた俺に、白石さんが言った。


「どうして?」
「いつにも増して眉が寄ってるよ」
「…いつもは寄せてるつもりは無いんだけど」
「寄ってる寄ってる。初対面の人は怖くてなかなか近付けないよ、たぶん」


そのように言う白石さんには俺を怖がる様子はなく、むしろ笑っていた。
仏頂面の俺を前にしても笑顔を向けてくれるのが有難くもあり、理解し難くもあり。こんなに面白くなさそうな面をした男に向かって、いつもと変わらぬ態度を保てるのは不思議でならなかった。自分には絶対に出来ないことだから。


「…出来ないんだよな、俺。知らないやつに笑顔振りまいたり、思ってもないのに愛想よく振る舞うとか…」


それをやってのける白石さんは凄くて尊敬する。同じく瀬見さんのことも凄いと思う。が、あの人に対しては今のところ、素直な感情だけで対峙出来そうもない。


「私で良かったら話聞こうか」


白石さんは持っていたホルンのケースを置き、花壇に腰掛けた。「この間は色々聞いてくれたから」と、前にも飲んでいた新作飲料の蓋を開けながら。


「…たぶん軽蔑するよ、俺のこと」
「しないよ!絶対」


この世に「絶対」なんて存在するもんか。…という考えを持つ俺であったが、初めて信じたくなる「絶対」であった。自然と口が動くのを感じる。言うつもりのなかった内容なのに、すらすらと言葉が出てきた。


「…俺、白鳥沢ではまだ全然レギュラーとか、そういうのに選ばれたこと無いんだけど…」
「うん」
「今は先輩が俺と同じポジションで、ずっとレギュラーだから。今んとこその人に全然勝てなくて」
「その人は白布くんから見てもやっぱり凄いの?」
「…うん。まあ。凄い、けど」


けど、俺があまりにも子どもだから接し方が分からない。それを包み込むように、全部分かっているかのような振る舞いをされるのも腹が立つ。俺はとんだ天邪鬼である。


「どうしてもライバル視してるから、俺すっげえ生意気な態度になってて」
「それは直そう!」
「へ、」


白石さんはウンウンと聞いてくれていたが、そこで初めて強めに指摘された。突然だったので変な声が出てしまった。でも、まあ、彼女の言う通りである。直すべきだ。


「でも、そうだね…白布くんはその人からレギュラーの座を奪ってやりたいんだね」
「奪うって言うか…うん。まあ、奪いたいよ。いずれは」
「いずれっていつ?」


次も白石さんは前のめりで聞いてきた。今日はやけにぐいぐい来るな。おかげで「いつかレギュラーになるぞ」という漠然としていた目標を、明確に設定しなければならなくなった。


「…インハイまでには」
「絶対?」
「ぜっ…え?」
「こういうのは決めなきゃやり遂げられないと思うの私!」


座っていたはずの白石さんはいつの間にか立っていて、俺のすぐ前まで歩み寄っていた。距離が近い。しかし後ずさりする気にはならない。白石さんの言う事は最もだと思えたからである。


「うん。インハイまでには絶対」


この世に「絶対」なんて存在しない。そんな自分の考えを、クラスメートの導きで覆すことになろうとは。でも白石さんに向けての宣誓は無理やり発したものではなく、この子には誓ってみようと思えたから。同じように部活に青春を注ぎ、苦悩する白石さんにならば。


「…私もね、今ホルンをソロで吹いてる子とは友だちなんだ。超うまいの。だから正直、すごく嫌な気持ちになることもあるけど」
「…そう」
「でも決めてるから。秋のコンクールでは絶対私がソロパートを吹いてやるって」


白石さんは鼻息が聞こえてきそうなくらい意気込んでいた。河川敷で弱音を吐いていた姿とは似ても似つかなくて、この短期間にこの子に何が起きたんだろうと思わされるほど。
きっと彼女はそれを叶える日が来るのだろう。その時俺はただ拍手をして祝福するのか、自分も同じように「絶対」を成し遂げて讃え合うのか。今はどちらになるか分からないけどきっと、いや絶対に後者だ。