04
ロマンスは混入されたシロップから


あのとき河川敷で会話をしてからというもの、白石さんに対して特別な想いを抱いてしまったことはすぐに気付いた。
俺は色恋について無頓着なほうだが、そこまで馬鹿じゃない。クラスでも自然と目で追ってしまうし、俺と話したあの時間だけで本当に元気を出してくれたのかなとか、彼女に関する色んなことで頭が埋め尽くされるのだ。
ただし俺もうかうかしていられない身なので、練習の時だけは集中するように努めているが。


「なんか聞こえる」


ゴールデンウィークの練習時、そう呟いたのは川西太一である。
ちょうど休憩を交代するタイミングで、体育館の隅に腰を下ろした時だった。俺は水分補給に集中していて気付かなかったけど、耳を澄ますと確かに楽器の音。そして、まだ自信は持てないけれど、恐らく聞き覚えのある音色であった。


「…ホルンかな」


俺の口は自然と口にしていた。あの子の奏でる楽器の名前を。しかし突然俺が「ホルン」だなんて言ったので珍しかったのだろう、太一は目を丸くした。


「何、賢二郎って楽器分かる人?」
「勘」
「へー、勘でそんな楽器の名前出てくんの凄いな」


俺はトランペットしか浮かばないわ、と太一は感心していた。そう言われると少し鼻が高い。まあ白石さんとの出会いが無ければ俺だって分からなかったけど。それに、まだこの音がホルンであるかどうかの確証は無い。この目で確かめるまでは。


「トイレ」
「いってら」


ちょうど休憩なのをいいことに、トイレに行くふりをして体育館を出た。そして真っ直ぐ向かうのは音の源。金管楽器の独特な力強さが耳や心臓に響いてくる、その距離まで近付けば発信者の姿も確認できた。


「……白石さん」
「!」


彼女は唇を離し、楽器を下ろしているところだった。くるりと振り向いた白石さんの目に自分が映る。それだけで楽器が響いていた時よりも強く胸がドクンと動いた。


「白布くん。あ、そこバレー部の体育館だったんだ」
「うん」


俺はなるべく涼し気な表情を作りあげた。わざわざ音を辿って来たなんて思われるのは恥ずかしい。でも心の中ではガッツポーズをした。「やっぱりホルンで当たっていた」!
しかし、普段の彼女は河川敷で個人練習をしている。今はもう夕方で、吹奏楽部の練習は既に終わっている頃だ。それなのに学校に残って練習している理由とは。


「今日はいつもの場所じゃないんだね」


どうしてここで練習しているのか?という聞き方は避けてみた。質問の仕方ひとつで引き出せる答えは大きく変わるからだ。白石さんはホルンを抱き抱えながら心配そうに言った。


「ごめん、うるさかった?」
「いや全然…」
「実はね、河川敷は苦情が入りまして」
「え」


あの河川敷を気に入って使っていたところ、近くの住民から苦情を受けてしまったらしいのだ。その苦情は学校には寄せられて、吹奏楽部に伝わって、自分のことだとすぐに確信したらしい。人通りや民家が少ないとはいえ、あの辺りは音が響くから仕方ないのかも知れない。


「…だから学校内で、なるべく吹奏楽部の部員が少なそうな場所で練習してるんだ」
「へえ…部室は使わせてもらえないの」
「そういうのじゃないけど…なんか変な話だけど、あんまり自分が頑張ってるの知られたくないんだ」


練習するには音を出さなければならないので、部員に知られずに済む練習場所は限られるようだ。このへんは練習試合等が無い限りバレー部の関係者しか通らないので、穴場なのかも。
そういうことなら大いにここを使って欲しい。それに俺は「頑張っているのを知られたくない」という彼女の意見には同意だ。


「…その気持ちは分かる」
「本当!?」
「なんか、努力してんの他人に知られるの恥ずかしいっていうか」
「だよね!私も」


人間は誰にでも承認欲求があると聞く。だから白石さんは喜んでいるだけなのだろう。でも、もしかして俺と同じ考えなのが嬉しいのかな、と思えてしまった。ただの希望的観測だが。


「白布くんには今、バレちゃったけどね」


更には白石さんが照れ笑いをしながら言うので、俺の希望は更に高まってしまった。


「…まあ俺は口外しないから…」


白石さんがここで練習している事なんて、誰にも知らせるつもりは無い。バレー部の連中は音で気付くだろうし、ここを通ることもあるので見かけてしまうだろうけど。今の俺は、白石さんがこんなにも体育館から近い場所を選んでいることに対する喜びが勝っている。


「…あ。でも、うるさくて迷惑だったら教えてね。場所変えるから」


しかし俺があまり歓迎している表情ではないからか、白石さんが慌て気味に言った。迷惑だなんてとんでもない。


「大丈夫だよ。吹奏楽の人にはいつも応援に来てもらうんだし、誰も文句言わないよ」
「そっか」


ならよかった、と白石さんは安心したような気の抜けた顔で笑った。つられて自分も笑顔になってしまいそうなのを必死で堪える俺。どうしてか、人前で笑うのは苦手である。笑顔の自分が好きじゃない。と言うか普段なかなか笑うことがないので、笑った顔を他人に見せるのは気が引けてしまうのだった。相手が白石すみれだから、特に。


「そういえば今は休憩なの?」


白石さんがペットボトルの蓋を開けながら言った。よく見ると鞄や楽器のケースなど、荷物を全部ここに置いている。すっかり彼女のテリトリーである。


「うん。交代で休憩取ってるところ」
「そうなんだ。あ、コレ飲む?」


と、白石さんがたった今飲んでいたペットボトルを差し出した。
突然白石さんに飲み物をすすめられたことに対する驚きと、それがほんの数秒前に彼女の唇に触れていたペットボトルであることで、俺は一瞬固まった。


「……え」
「あっ、もしかしてレモンとか苦手?」
「いや…」
「よかった!これ新作なんだって。美味しかったよ」


白石さんは屈託のない笑顔を向けている。俺はレモンなどの柑橘系は好きなほうだ。新作の味だってちょっと気になる。でも、これをそのまま飲んでしまうということは、俺と間接キスになってしまうのではないか?


「…いいの?」
「うん?いいよ。もちろん」


もちろん、の四文字にどういった意味が含まれているのかを聞けるような、心の余裕はない。白石さんの手からペットボトルを受け取ると、期待を込めて俺を見る白石さんの顔が目に入る。単純に美味しいからすすめてくれているだけ?それとも?


「……いただきます」


飲みものを一口貰うだけでこんなに緊張するのは初めてだ。しばらくラベルを見つめる振りをして、そこに唇を付けるための心の準備をしなければならなかった。