03
春うらぶれてとける魔法


走るのは嫌いだ。疲れてしまうし、俺は日光に弱くてすぐに肌がひりひりしてしまう。女みたいに弱々しい皮膚が憎らしく、真っ赤に焼けるのが嫌で小学生の頃は海に行くのを嫌がったりもした。だけど成長するにつれて落ち着いてきて、こうして外を走っても大きな問題は無いのだが。
今はロードワークに出る理由が明確にある。俺には体力が無い、それを克服したい。それともうひとつ、あのコースを走れば白石さんが居るかもしれないからだ。

吹奏楽部の練習は毎日のように行われている。白鳥沢はほぼ全ての部活の成績がよく、部員の数も多い。吹奏楽部はコンクールに出るのは勿論のこと、定期的に演奏会を行っている。
白石さんはホルンという、不思議なかたちの楽器を吹いている。 今日もきっとそうに違いない。約束なんかしてないし、彼女が毎日そこに居る確約なんてどこにもないのに、何故かそう言い切れた。


「居た……」


白石さんは予想どおりそこに居た。
しかし聞こえてくるはずの楽器の音は響いておらず、遠くを走る車や電車、風の音のみが耳に入る。白石さんは制服で芝生に座り込んでいたのだ。ホルンはケースに入れられたまま。もう今日は自主練を終えてしまったのだろうか。


「……白布くん」


俺が声をかける前に気配に気付かれた。
実は近づいていくうちに、俺は感じてしまったのだ。どことなく白石さんの様子が普段と違う事を。


「ごめん。邪魔した?」
「ううん…」


覇気のない様子で、白石さんは首を振った。このままUターンすべきか迷ったけれど、彼女が何故このような状態なのかが気になる。まだ少ししか接した事は無いけれど、白石さんはいつも笑顔で居たからだ。俺は一人分のスペースを開けて隣に腰を下ろした。


「元気ないじゃん。どうしたの」


隣を見ないようにして聞いてみると、白石さんが弱々しく唸るのが聞こえた。


「…演奏会に、選ばれなくて」


それからゆっくりと話してくれた。吹奏楽部は定期的に演奏会を行っており、まもなく行われるそれは規模の大きいものだった事。同級生はどんどん選ばれていくのに自分の名前が呼ばれなかった事。
それら全部、自分も経験した事のある内容であった。だからって俺が何を言っても彼女を元気にするのは難しい。自分がそうであったように。


「けっこう頑張ってたつもりなんだけどな…」


白石さんは自らの膝に顔を埋めた。
きっと泣きそうなんだろう。俺、来なきゃ良かったかも。俺が居なければ思い切り涙を流せただろうに。会えるかな、なんて浮かれた事を考えながらやって来た自分が憎らしい。


「……もうちょっと愚痴っていい?」


だけど、白石さんはそう言った。うずくまったままで、顔だけを少しこちらに向けて。


「いいよ」


俺はやはり彼女の顔を見ずに答えた。少しでも楽になるのなら、せめて気の済むまで話してくれればいい。俺も白石さんの事をもっと知りたい。心を許して欲しいから。
その想いが通じたのか、または元々話したい事が山積みだったのか、白石さんは涙声ながらも話し始めた。


「最近、やってもやっても上手くいかなくて」
「うん」
「同じ学年の他の子は、メンバーにちゃんと選ばれてるのに。けどね、練習量とかは変わらないと思うの」
「うん…」
「…私のセンスが無いだけなのかなぁ」


白石さんの担当する楽器がどれだけ難しく、どんなセンスを必要とするのかは分からない。生まれ持ったリズム感とか音楽性とか、顧問の好みにはまるかどうかも重要になりそうだ。


「…センスとかは…人それぞれだから」


俺は音楽の事はからっきし駄目だし詳しくないので、当たり障りなく答えるしか出来なかった。


「…わかってるもん。わかってるつもりだけど」


だけど、でもさ、と白石さんは言葉を続ける。「センス」というたった三文字の言葉だけでは、自分が選ばれなかった理由として受け入れる事は出来ないのだろう。
正直、こと芸術においてセンスはかなり大事だと思う。でもそれをハッキリ伝える事は出来ない。俺には音楽の「センス」は備わっていないし、白石さんの演奏が上手いのか下手なのかも分からないのだから。
でもひとつだけ分かる事がある、それは白石さんの心情である。


「俺も今、同じような感じだよ」
「え…」
「バレー部。上手くいってない」


毎日くたくたになるまで練習したって、俺より上手い先輩や同級生が居る。今年入ってきた一年の中にだって居るかも知れない。もしかしたら先に一年生がベンチ入りを果たすかも。その上最近では、体力という情けない弱味を指摘されている。だから練習後にランニングをし、こうして白石さんと知り合ったわけだが。


「でも俺は、自分にセンスが無いとは思わない。技術はまだまだ足りないかも知れないけど…体力も」
「……」
「だから練習はやめないよ」


部活で上手く行かない事が辛くはあるけれど、それが原因で辞めたくなった事は一度も無い。白石さんも「辞めたい」とは思ってないかもしれないけど。少なくとも同級生との違いがセンスであるとは感じて欲しく無いのである。だってそんなの、身に付けようとしたって簡単には無理だから。


「センスがあるとか無いとか、そんな目に見えない事で悩んだってしょうがないだろ」


俺は心からそう思ったから言ったのだが、言い終えた時にハッとした。白石さんが顔を上げたからだ。その顔にくっついている二つの大きな瞳が、俺を見ていたから。
もしかして失言だったかもしれない。センスなんかで悩むなよって、言葉で言うのは簡単でも心で受け入れるのは容易じゃ無いのに。


「…ごめん。無神経な事言った」
「えっ!いや、全然」
「今のは聞き流してくれていいから…」
「大丈夫!むしろ嬉しいよ」


白石さんは先程よりも声のトーンが上がっていた。本当に気にしてないらしい。俺はこっそりと胸を撫で下ろした。生まれてこのかた女の子を泣かせた事は一度も無いのである。…俺の把握する限りでは。


「白布くんも今、頑張ってるとこなんだね」


鼻声ではあるものの、涙は乾いた様子の白石さんが言った。


「…まあ、一応」


努力しているのを人に知られるのは避けたいところだけど。白石さんが一人で練習しているのを邪魔してる身分だし、自分だけ格好付けるわけには行かない。


「よかった。なんか、一人で頑張って空回ってる気がしてたから」


それに、どうやら白石さんは嬉しそうだ。失言だと思われた俺の言葉も、良い意味で受け取ってくれたらしい。この場所で練習するのは自ら望んだ事だと思っていたけど、努力する方向が迷子だったのかも知れない。


「聞いてくれてありがとう」


白石さんは赤くなった目元を隠しもせずに笑った。
ありがとうって言われるのはくすぐったくて、でも気持ちいい。「俺の方こそありがとう」と答えようかと思ったけれど、何について「ありがとう」と言えばいいのか分からなくて言えなかった。寮に戻りながら気付いたのは、「俺にきみの事を教えてくれてありがとう」と伝えたかったんだという事。
結果的には言えなくて良かったかも知れない。それを言ってしまえば走って寮に戻る頃には、息が上がり過ぎてしまうかも知れないから。