02
春彩プレリュード


散々な週末だった、というほどでもない。
確かに監督に怒鳴られたりコーチに注意されたり牛島さんに怒られたりとメンタルを削られる事さ多々あったけれど、それらをリセットするために走っていたところ、クラスメートと出会ったのだ。正確には、俺はその時彼女がクラスメートである事にすぐには気付かなかったが。なんたって、まだ全員の顔と名前が一致していないのだ。
だけどその時話をしたおかげで、俺は彼女を覚える事ができた。白石すみれ。吹奏楽部の女の子である。

白石さんが吹奏楽部だというのは、金管楽器を持参していた事ですぐに分かった。
吹奏楽部って本当に河川敷で個人練習をするんだな、と昔見たドラマのワンシーンを思い出す。白石さんも俺がバレー部だと知り、その場はすぐに解散したけれど、俺は部屋に戻ってから何度もその事を思い返した。大きさに似合わず柔らかい音色を発するあの楽器と、それを操る白石さんの事が気になってしまったのだ。何故かと聞かれると理由は分からない。二年生になってからまだ新しい友だちが出来ていないから、かもしれない。いくら一人で行動する事が多いとはいえ、同じクラスに友だちが居ないのはさすがに寂しいのである。
まあ、感情表現の苦手な俺が女の子と友だちになれるかどうかは分からないが。知ってる顔は多いほうが安心だ。


「おはよう」
「はよー」


週明けの月曜日、朝練を終えて教室に入ると誰かが挨拶を交わすのが聞こえた。残念ながら俺に向けられたものではない。が、俺もクラスメートに嫌われるのは嫌なのですれ違いざまに「おはよう」を言い合ったりもする。教室の端を歩く俺に、わざわざ声を掛けてくるような人間は居ないというだけで。


「あっ。白布くん?」


しかし、今朝はいつもと違った。「いつも」と言っても二年四組になってからまだ間もないのだが。とにかく、誰かがどこかで俺の名前を呼んだのだ。そしてそれは女の子の声であった。


「本当に同じクラスだったんだね。おはよう」


にっこり笑っていたのは河川敷で出会った白石さんだった。彼女は大きな荷物、恐らく楽器を教室の後ろに置いてから歩いて来る。あれは先日持っていたのと同じ楽器だろうか。


「おはよう。そうみたいだね」
「よかったあ。私、仲いい子とは今年クラスが離れちゃって」


だから不安だったんだよね、と白石さんは眉を八の字にして微笑んだ。
そんなに不安がらなくても、白石さんの愛嬌と笑顔をもってすれば友だちなんてすぐに出来るだろうに。ほんの数分河川敷で話しただけの俺なんかには構わなくてもいいだろうに。
俺は心底不思議であった。白石さんが俺に話し掛けてくれても、何らメリットがあるとは思えないからだ。


「一年間よろしくね」


それなのにこれからの一年間、白石さんは俺と仲良くする気で居るのだろう。よろしくねって面と向かって言われるのは何時ぶりだろうか。思い出せないけれど、俺も「よろしく」と返事をした。誰かに「よろしく」を言うのも久しぶりだ、部活を除いては。



放課後になり部活をある程度終えると、自主練の時間がやって来る。その時も大抵レギュラーとその他の部員は分けられてしまうので、俺は牛島さんを始め主力の先輩と練習する時間があまり無い。そんな状況をくそ喰らえと思ったりする事もあったけど(実際今も少し思っている)、目下のところ俺に与えられた目標は体力作りである。
そのため朝晩は部屋の中で筋トレする時間を増やした。努力するところは見られたくないので、極力トレーニングルームは使わない。

そしてランニングをする時も一人であった。もちろんコースもあまり他の部員が通らない場所。だけど、もしかしたら知り合いが居るかもしれない場所を無意識に選んでいた。ただし「知り合い」と言っても不特定多数の事ではない。


「………」


予想通り、河川敷には白鳥沢の制服を着た女の子が居た。
今日は既に楽器を吹いている。俺はなるべく音を立てないように近づいて行き、その音色をなんとなく聞いていた。見た目に反して音色は優しく、だけど心臓が震えるような音波を放つ。このまましばらく吹き続けてくれればいいとさえ思っていたが、どうやら気配に気付かれたようだ。白石さんが楽器を下ろしてこちらを向いた。


「…白布くん!いつもココ走ってるの?」
「うん。まあ」


俺は適当な返答をしてしまった。いつも走っている道とは違うから。ただしこれからはいつも走る事になるであろう道なので、嘘をついた事にはならない。と、思う。


「休憩していい?ここで」
「あっ、うん。どうぞどうぞ、うるさくするけど…」
「いいよ。気にしない」


そう答えたものの、ちょっとまずかったかなと思った。俺は気にしないけど、白石さんにとっては俺がいる事が迷惑かもしれない。白石さんは全く嫌な顔をしていないけれど。
ちょうど吹くのをひと段落したらしい白石さんは、ペットボトルの蓋を開け始めた。


「白石さんは、吹奏楽部なんだっけ」


俺は白石さんが水を飲み込んだタイミングで聞いてみた。何もせずここに無言で座っていたら、気味が悪いと思われるかもしれないから。


「そうだよ。中学の時からずっとやってるの」
「へえ…」
「白布くんもバレーはずっと?」


今度は白石さんが聞き返してくれた。ただしその質問は少々答えにくい。答えはイエスと決まっているけれど、今まさに伸び悩んでいる自分にとっては。


「…ずっとだよ。ずーっと」
「そっか。だよね、うちのバレー部に入るくらいだもんね」


白石さんに悪気なんてあるはず無いのだが、やっぱり俺の心は傷ついた。白鳥沢のバレー部に入るくらいなんだから、当然それなりの働きをする部員なんでしょう?と言われているような気分になるのだ。彼女にそんな気持ちは無いと分かっていても。今は名誉挽回のために頑張っているところなんだけど、そんなの白石さんは知ったこっちゃないだろうし。
その証拠に、白石さんはあまり俺を気にする様子なくペットボトルを鞄に投げて立ち上がった。


「吹いていい?」


と、吹く気満々の顔で白石さんが言った。聞かれなくてももちろん構わない。白石さんの演奏に興味があって、わざわざこのコースを選んで走ったのだから。


「……それ、なんていう楽器」


ちょうどワンフレーズを吹き終えた白石さんに聞いてみた。すると白石さんは楽器から口を離し、意外そうに言った。


「これ?白布くん、興味あるの?」
「いや…なんか、珍しい形してるから」
「だよねえ、カタツムリみたい」
「なんて名前?」


しつこいだろうか、この質問。だけど異様に気になってしまい、答えを知りたくて重ねて聞いた。


「ホルンって聞いたことある?」


その「ホルン」を両手で持ち上げながら、白石さんが言った。


「…ある。けど、それがそうだとは知らなかった」
「あはは。そうだよね、普通はね」


中学の時も高校に入ってからも、吹奏楽部が部活の応援に来る事がある。しかし彼らの持つ楽器のことなんて興味も無くて、知ろうともしなかった。それを恥ずかしい事だと感じてしまうほど、白石さんは嬉嬉として言った。


「でもね、私はずっとホルンを吹いてるの。音が一番すきだから!」


もしも白石さんとこの場所で出会わなければ、ホルンという楽器を知る事は無かっただろう。好きな音だというそれを、もっと聞かせてくれないかと思う事も。そして、その音色を今後俺が聞き分けられるようになる事も、きっと無かったのかも知れない。