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ジレンマをあげる


嬉し泣きとか悔し泣きとか悲しくて泣くとか、あんまりそういう経験は無い。試合に負けた時も失恋した時もそうだし、目の前で自分以外の人間が号泣しているのを見ると妙に冷静になってしまうのだ。だから三月一日、この制服に腕を通す最後の日だというのに俺は涙を流せない。


「先輩方、ほんと、今までありがとうございましたっ」


工はまるで三年生が引退した日を思わせるような泣きっぷりだ。あの時も泣き止むまでに相当な時間を要した。今日も大変そうだ、一体いつから泣いていたんだか。

泣きじゃくる工の相手は英太くんが買って出てくれたので、俺はちょっぴりその場を離れた。離れようとしたところを川西太一に見つかったけど、さすがに太一は何も言わない。だって今日で俺は高校を卒業するんだから、つまりこの学校の生徒では無くなるのだから。


「せんせー」


ここに足を踏み入れるのもきっと最後になるのだろう、たくさんの本棚に囲まれた資料室。ドアを開けると一番奥の長い机のところに、その人は立っていた。
この机にもいろんな思い出がある。勉強したり雑談したり、言葉には出来ないような酷い事をしてしまったり。それらを共有してきた白石先生は俺が入って来たのを見て、送り出す言葉を言った。


「卒業おめでとう」


働き始めて最初の卒業式だからなのか、先生の目元も赤みがかっていた。卒業生には大して知り合いも居ないだろうに。俺を除いては。
「ありがと」と返した俺はドアを閉めて、ゆっくりゆっくり先生に近付いた。足を進めるにつれて、窓の外で別れを惜しむ卒業生や在校生の姿が目に入る。先生も俺の視線の先を追いながら、生徒たちの姿を眺めていた。


「初めて会ってから一年くらい経つね」
「そだね。あん時は白石先生、迷子になってたんだっけ」
「そうそう。わー、なんか恥ずかしい」


白鳥沢で勤務したての白石先生はあの日、分かれ道になっている渡り廊下をうろうろキョロキョロしていた。職員室に戻りたいのに戻れないという、教師が聞いて呆れるような理由で。しかも俺を生徒じゃなくて大人だと思い込んでいたんだっけ。懐かしい。


「あの日は声掛けてくれて嬉しかった」


白石先生は懐かしむように言うと、にっこり微笑んだ。
べつに、喜ばせるために声をかけたわけじゃないけど。仲良くなろうと思っていたわけじゃないけど。改めてそんな事を言われると、手の届かない場所がムズムズと痒くなってしまう。


「…今更それ言う?」
「今だから言ったんだよ!」
「へー…ふうん…へーえ」


結果的にあれがキッカケで俺たちの一年間は色々な事が起きた。日本史の成績が上がったり、苦しい思いをしたり、させたり。


「天童くんは四月まで何するの?」


白石先生は窓に背中を預けながら言った。
俺はひとまず無事に大学に進学する事が出来る。合格祈願が効いたのか元々備わっていた俺の実力なのかは分かんないけど、なんて言ったら怒られそうだけど。

俺の大学進学を知っている先生は、入学までの残り一ヶ月をどうするのかと聞いているのだった。正直、なんにも決まっていない。大学は県内だし、実家からは少し離れているけれど、もう一人暮らしの部屋も決定しているし。


「んーとね、三十日が引越し。それまではなーんにも無いよ。部活行くかも」
「部活?高校の?」
「そー。暇だもん」


進学の用意とか一人暮らしの用意は、世話焼きな親が勝手に色々済ませていた。一人の時に何が必要か、というのはなんとなく分かっているし。寮生活といえど高校での三年間は一人部屋だったので。
だから、特別な予定は何も無い。暇を持て余すのは嫌だから部活に顔を出してみる、たったそれだけである。


「暇だからじゃなくて、好きだから部活に行くんでしょ」


それなのに、白石先生はいつの間にか観察眼を身に付けていたらしく、俺の心を読んでいた。そりゃそうだ。好きじゃなきゃ、誰が自ら進んで厳しい運動をしようと言うのだ。義務付けられてもいないのに。
だけど先生に強がりをあっさり見抜かれたのは悔しくて、俺は仕返しをした。


「まあね。好きだから部活に行くし、好きだから白石先生にも会いに来るんだし」


こうしてわざわざ仲間との別れの時間を削り、一対一で会いたい理由はたったひとつである。白石先生はもう俺の「好き」に対して動揺する事はなかったけれど、少なからず驚いてはいるようだった。


「本当に気持ち、変わってないの」


先生は少しかすれた声で言った。受験勉強に打ち込んでいた二ヶ月間、確かに先生と会う機会は減っていたけれど。そんな下らない質問をされるとは、こっちこそ驚きだ。


「変わんないよ。言ったじゃん」
「でも、二ヶ月も経ってるし…」
「百年経っても好きだって言ったよね?」


それに比べたらこの二ヶ月なんて一瞬だ。センター試験やら入試やらに明け暮れていたから余計に早かった。そして、他の事をしていたからって先生への気持ちが弱まるわけは無く。むしろどんどん増していた。


「先生、俺もう生徒じゃなくなるから」


俺が言うと、先生はゆっくり顔を上げた。


「制服着んの、これで最後だから」


白いブレザーも特徴的な紫色のパンツも、歩きにくいローファーも今日で終わり。名残惜しさと清々しさが半々である。この一年間、自分が高校生である事にもどかしさも憤りも感じたけれど今日でお終い。今だけ高校生の自分を受け入れてみようと思えた。


「最後に生徒としての俺に言いたい事ある?」


白石先生が俺を生徒として叱ったり、注意をしたり出来るチャンスは今だけだ。きっと「春休み中にハメを外さないように」とか小言を言われるのだろう、と思ったけれども。


「…ないよ。おめでとうだけ言えたらそれで」
「あれ。そうなの」
「私が用があるのは、生徒じゃない天童くんだし」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。ぽかんとする俺を見て先生は自分で自分が恥ずかしくなったのか、思いっ切り顔を伏せる。俺からは先生のつむじしか見えないけど、耳が赤くなってんのが見えてるんですけど。


「なにそれ?」


八割がた分かってしまったが、まだ信じられなくて聞いてみた。しかし白石先生は自分を律するように咳払いをしてみせる。まだ俺の前で教師の面目を保とうとしているようだ。


「…明日以降に言おうと思います」
「それズルいよね。今言って」
「無理だよ!まだ生徒でしょ」
「もう卒業式は終わったんだけど」
「それでも駄目ッ」


先生だから生徒だからって、これで揉めるのは何度目だろうか。今までは鬱陶しかったしがらみなのに、「今日で最後」という事実が俺に我慢を与えてくれたので、まだ今日までは生徒であるというのを受け入れる事にした。


「……センセーって本当に真面目だね」


あと半日足らずの事なのに、今のこの場でハッキリしてくれないなんて。


「こんな女、つまんないって思う?」


「真面目」という単語に他人より敏感に反応する先生だったが、今は強気な様子で言った。つまんない女だなんて、俺が思うはずもない事を知っているのだ。この一年で変わったのは俺だけじゃないらしい。
だけど、そっちがその気なら俺だって今「そんな事ないよ、大好きだよ」と答えるつもりは無い。


「明日になったら答えてあげる」


俺が生徒じゃなくなったら。と伝えると、先生は「やられた」と悔しそうにしていた。べつに明日以降ならいくらでも言ってあげるんだからそんな顔しなくたっていいのに、少なくとも百年先までは好きで居ることを約束しているんだから。