01
翼がないのは知っていた


うららかな春の陽気が気持ちいい、とはお世辞にも言えなかった。
高校二年生になった春のこと、クラスは変わり部活には新入部員が入ってきた。同じクラスに誰が居る、というのはあまり気にしていない。教室の中ではほとんど勉強をするのみで、一年生の時も沢山の友人を作ることはできなかった。
かと言って行事に非協力的なこともなく、クラス内では目立たずに過ごしていたのだ。自分は表に立つような人間ではないし、リーダーシップがあるとも思わない。だから委員会に立候補したりとか、何かを率先して取り組んだりとか、そういうことは無かった。

そんな俺が、どうしても自分というものを誇示したい場所がひとつだけある。苦労して白鳥沢に入学した理由がこれだ。


「白布!お前ちゃんとブロック見てないだろ!」


怒号が飛んだ体育館。一瞬シンと静まり返り、全員の視線が監督または俺に集まる。
ちゃんと見ていたつもりだったのに。しっかりやったつもりで居たのに。監督の目にはそう見えなかったらしい。という事は、さっきの俺はボンヤリしていたという事だ。この体育館の中では監督が全て正しいのだから。


「…すみません」
「体調悪いのか?」
「いいえ…」
「じゃあ余計に駄目だろ」


体調を気遣ってくれたのは監督ではなくてコーチのほうだった。その口ぶりからすると、彼にも俺が本調子ではないように見えるらしい。体調は特に崩してないし、自分としてはやれる事をやれるだけ真剣にやっているつもり、なのだけど。


「一年と二年はレギュラー以外は終わりでいい。しっかり身体を休めてろ」


監督の怒声がちょうどいいタイミングだったのだろうか、牛島さんが全員に指示をした。
今から残って練習に参加できるのは三年生と、レギュラーの一、二年生だけ。俺は残念ながらその中には居ない。だけど怒られたままで練習を終わるなんて出来ない。足りないものは習得したいのだ。


「…牛島さん。あの、少し付き合ってもらえませんか」


俺は無理を承知で声をかけた。他の誰でもない牛島若利にである。
牛島さんは俺を無視する事はなかったけれど、チラリと見ただけですぐに首を横に振った。


「休めと言っただろう」
「大丈夫ですから」
「駄目だ」


そして、ぴしゃりと言い放たれた。
この時俺は牛島さんをもちろん尊敬していたが、「戦力外の後輩には興味が無いって事か?」と卑屈な気持ちが勝っていた。そしてその不満は顔に出ていたのだろう、牛島さんの眉が少し吊りあがった気がする。やべ、と思った時には既に遅い。


「嫌なら無理できるだけの体力をつけろ」


と、更に強く言われてしまい、俺は体育館から追い払われたのだった。
練習したいというやつを追い出してどういうつもりだ?不服であるが、それが自分の現在地なのだ。理解は出来るが納得出来ない。俺はまだ動けるし、集中力だって切らしていないはずだし。でも監督、コーチ、牛島さんから見れば俺は到底駄目なのだ。体力が無いから。それは自分でも時々感じる事であった。


「………」


牛島さんにあそこまで言われてしまっては、もう練習を終えるしかない。図々しく体育館に居座る度胸は無いし、そんな事をしたら監督が恐ろしい形相で怒鳴ってくるに違いない。それに今から行われる練習はたぶん、俺はついて行く事が出来ない。だから外されたのだ。


「…くそ」


誰にも聞こえないように吐き捨てて、部室へと向かった。荷物だけを持ち上げて強くロッカーを閉める。モノには当たるな、と自分に言い聞かせながらも、寮に戻る足取りは非常に荒々しい。
そして自室に荷物を投げ入れた後、俺は廊下に留まったままドアを閉めた。くるりと踵を返して向かうのは玄関だ。途中で別の部員とすれ違い、練習着を着たまま手ぶらで歩く俺を見たそいつは不思議そうに言った。


「白布、シャワーは?」
「走ってくる」
「えっ」


今から?という顔だが、今からである。俺に体力が無いなら体力を作ればいいんだろ、というヤケも入っていた。こんなにムシャクシャしたまま今日を終えたくなかったのも理由のひとつ。頭をスッキリさせるためにも外の空気を吸いたかった。
周りの目は気にせずに、ペース配分も何もかもを無視して、ただし信号だけは守って走れるところまで走り抜いたのだった。

そして自分の息が予想よりも早く上がり、脚が動かなくなるのも早かったのを自覚してしまい、立ち止まってから息を整えるのに苦労した。


「はあ……、は、くそ、っ」


ごろんと寝転がった草むらは、学校からほど近い河川敷である。
時々このあたりを全員で走る事もあるけれど、幅が狭いので基本的には避けている道だ。だから俺がこんなところで大の字になっていても学校関係者に見られる事は無いだろう、多分。こっち側の通りは駅の反対だし。この姿を誰に見られたって構うもんか。

頭をスッキリさせたくて走ってきたのに全くスッキリなんかしておらず、むしろ苛々が増したような気がしてならない。もう一走りするか、それともシャワーを浴びて頭を冷やすべきか。と、今からの行動について考えを巡らせていると。


「……?」


誰かの足音が聞こえてきた。河川敷の階段を降りてきている。そして草むらに入ってきたらしく、かさかさと葉の音が聞こえた。寝転ぶ俺に気付いていないのだろうか?夕方だから分かりにくいのか。


「フンフンフーン…」


それから驚いた事に、彼女は俺のすぐ近くで鼻歌を唄いはじめた。何故女の人だと分かったのかと言うと、鼻歌が女性の声だったから。最近テレビCMで流れているアイドルの曲のようだ。
がさごそと何かを触る音がしているが、それよりも歌声のほうが耳に入ってくる。サビに近付くにつれて鼻歌から普通の歌に変わり始めた。…そろそろ盗み聞きするのは気が引けてきた。


「…あの」
「わあっ!?」


気持ちよく歌うのが俺に聞こえちゃってますよ、と気付かせるために声をかけてみたところ、彼女は飛び上がって驚いた。手に持っていたものを危うく落っことしそうになりながら。


「す…すみません、驚かせて」
「いえ…こちらこそごめんなさい、人が居るなんて気付かなくてっ」


その人は何度か俺に頭を下げた。見たところ俺と同じ歳くらい。そして、なんと同じ学校。白鳥沢学園高等部の、女子の制服を身に付けているではないか。それからもう一度その子の顔を見てみると、なんとなく見覚えがあるような気がした。定かでは無いが。


「…違ったらごめん。もしかして、二年四組?」


俺は自分から聞いてみた。俺と同じクラスなのではないかと思ったからだ。クラス替えが行われたのはほんの数日前の事なので、クラス全員の顔も名前も覚えきれていないけど。しかしその子は首を傾げていたので、自ら名乗る事にした。


「俺、白布賢二郎。この春から白鳥沢の二年四組」


俺がどこの誰なのかを伝えると、途端に彼女は「合ってる!」と口を開いた。警戒心が解けたらしい。


「私も四組だよ!白石すみれ」
「やっぱり。聞き覚えある」
「同じクラスの人だったんだ。ええと…しら…しろ…?」


白石さんと名乗った女の子は俺をちらちらと見ながら言った。問題ない。苗字を一度で正しく聞き取られない事には慣れている。


「シラブ」
「白布くんか。ごめん」
「ううん」
「えっと…ここで何してたの?お昼寝?」


がくんと首が折れそうになったが、白石さんは冗談を言っているようには見えない。これから一年間同じクラスで過ごす相手に悪印象は与えたくないので、「お昼寝」という単語は聞き流す事にした。


「…ちょっと疲れたから。休んでただけ」
「休んでた?」
「そのへんランニングしてて…」


そう言いながら、河川敷の土手の上を指さした。白石さんは俺の指の先にある道を見上げ、それから俺の顔を、最後に履いているジャージを眺めた。正確には、ジャージに書かれている文字を読んでいるようだ。


「白布くんはバレー部なの?」


ジャージの文字を正しく読んだらしい白石さんが言った。


「あー…うん。一応ね」
「凄い!強豪だよね、うちのバレー部」
「そうだね…」


その強豪の部活に、ただ在籍しているだけの俺だけど。
と、ほぼ初対面の相手にネガティブな発言をするわけには行かない。白石さんは今からここで練習でもするらしく、手にはカタツムリみたいな形の楽器を持っていた。しかし今の俺には「その楽器、何?」「吹奏楽部なの?」などと話を振る心の余裕はない。


「俺、そろそろ戻るから」
「うん。…もしかして私、邪魔した?」
「大丈夫。ほんとに休んでただけだから」


疲れて寝転がっていたのは本当なので、まだ回復し切ってはいないけどここを去る事にした。白石さんは歌の続きを唄いたいかも知れないし。または楽器を吹きたいかもしれないから。

重い足を無理やり動かして階段を登っていると、予想よりも柔らかい金管楽器の音が聞こえ始めた。あの楽器、なんていうんだろ。