18
慈しみをもってハートを処す



約四十日ぶりに腕を通す制服。高校の夏服を着られるのは残り一ヶ月ほどかと思えば少し寂しくもある。が、そう物思いにふけってもいられない。今日は始業式で、まもなく家を出発しなければならないのだから。


「行ってきます」


台所からは「行ってらっしゃい」という親の声が聞こえてきたので、私は玄関のドアを閉めて深呼吸した。今日から二学期。私と花巻くんが付き合って初めて、学校で会う日だ。

夏休みのあいだは花巻くんの部活や私のアルバイトもあり、遠出をするようなデートをしたり夜まで会ったりはしていない。私は大学のオープンキャンパスに行ったりもしていたし。
付き合えたのは嬉しくて嬉しくて仕方が無いし、いろんな人に「彼氏が出来た」と言いふらしたい気持ちだってある。でも、そういう気分にはまだなれない。二学期の初日を無事に終えなければ。クラスの人はまだ誰も、私たちが付き合い出したことを知らないからである。


「おはよう」
「あ。おはようすみれちゃん!」


いち早く会話を交わしたのはいつも一緒にいる友だちで、彼女にも夏休み中には二度会った。
だけどやっぱり花巻くんのことは話していない。疑うわけではないけど、自分以外の口から広まって欲しくないからだ。特に花巻くんの評判は落ちてしまうだろう。少し前まで付き合っていた黒田さんと別れ、あまり間を開けずに私と付き合いだしたなんて。


「夏休みどうだった?」
「うん…バイトと勉強で結構慌ただしかったかな」
「そうなんだぁ。偉いよね、この時期になってもバイト続けるなんて」


友だちは感心してくれたけど、私のアルバイトはそんなに苦ではない。なんたって親戚のお店だから融通が効くのだ。でも「偉いよね」なんて言われると嬉しくて、照れ笑いだけで応えておいた。それに夏休みの間、私に起きた出来事はアルバイトと勉強だけではない。


「花巻、おはよー」


教室の入口から、男子生徒の声が聞こえた。
登校してきた花巻くんへの挨拶の声。それを聞いてドキッとして、でも心がふわっと温かくなった。花巻くんが入ってきた!そして彼は周りのクラスメートと挨拶を交わしながら、真っ直ぐ私たちのほうへ歩いてきた。


「おはよう白石さん、石田さん」
「おはよー花巻くん。一学期ぶり」


石田さんと呼ばれた私の友だちは、しつこいようだけどまだ私たちの関係を知らない。だから普通に挨拶をしていた。でも私は、一学期の私とは違うので。


「…お、おはよ」


付き合っている状態で同じ教室内にいるなんて初めてなので、うまく挨拶できなかった。今朝はメールで『また学校でね』というやり取りをしたのに。花巻くんは私がどんな反応をするかある程度は予想していたらしく、けらけらと笑っていた。


「もー白石さん、緊張しすぎ!」
「ご、ごめん…なんかまだ実感なくて」
「もうすぐ四週間も経つのに?」


そう。付き合って間もなく四週間になろうというのに、挨拶ひとつするのも緊張してしまうのだった。それはここが学校で、周りの目があるからっていうのもあるけれど。


「四週間って、何?」


そこへ、私たちの話を聞いていた友だちがすかさず言った。
しまった。今の会話である程度の事は悟られてしまいそうだ。私から説明してもいいものかどうか迷って花巻くんを見ると、花巻くんも私を見ていた。


「石田さんに言ってないの?」


どうやら私が一番の友だちにも伝えていない事に驚いているらしい。彼は目を丸くしていた。


「勝手に言いふらすの良くないかなって思って…まだ誰にも」
「あー」
「な、なに?何があるの!?」


友だちはもう気が気じゃない様子だ。なんとなく内容は分かっているのかもしれないけど、まさかそんな事が有り得るとは夢にも思っていないだろうし(私も未だにそうだから)。花巻くんはコホンと喉を鳴らした。


「大っきい声出さないでね」
「うん」
「俺と白石さん、付き合ってんの」
「んっ!!?」


あっさりと白状した花巻くんの台詞に、友だちは大きく反応した。が、身体が飛び跳ねただけで、声は必死に抑えてくれたようだ。変な声が少しだけ出ていたけど。


「おー我慢した」
「え、嘘、え?いつの間にそんなことに?」
「色々ありまして…」


その「色々」が気になるだろうけど、話せば長くなるので後でゆっくり時間をとる事にする。
とにかく私たちがそういう関係になったのだと説明すると、未だ半信半疑の様子ながらも納得してくれた。なぜ彼女が半信半疑なのかと言うと、私と花巻くんは学校内での交流がそこまで多くなかった事も原因だ。そしてもうひとつは、一学期の途中まで花巻くんには別の彼女が居た公然の事実がある事。そっちのほうが大きいかもしれない。


「…まあ同じクラスだし。バレるのも時間の問題じゃん?隠れてこそこそする必要ないよ」


花巻くんはそう言ってくれて、自分の席に向かった。
不安な事はいくつもあるけど、花巻くんのおかげで幾分か気が楽だ。友だちもまだ驚きを隠せないようだけど受け入れてくれてるし「応援するよ」と言ってくれたので、とりあえずは二学期もこの教室でやって行けそうだ。あとは徐々にクラスのみんなに気付かれたとしても、堂々としていればいいだけ。…ただでさえ「堂々と」って苦手なのに、難しいかもしれないけど。



始業式の日は午前中のみで下校となる。花巻くんは午後から部活があるようだけど、終業式の日と同じく昼食後に練習がスタートするらしいので、一緒にご飯を食べようと約束していた。
そんなわけで先に帰る用意を終えた私は教室の前で花巻くんを待っていたのだが(まだ教室内で大きな顔をして待つのは恥ずかしくて)、誰かが近付いている事に気付いた。


「…あ」


顔を上げると、立っていたのは黒田さんであった。花巻くんの元彼女。黒田さんも今から下校するらしいけど、私の姿を見つけて歩み寄ってきたらしく。


「久しぶり」
「ひ、久しぶり」
「仲良くしてる?」


主語も目的語も無くて一瞬慌てたけれど、花巻くんと仲良くしてるのかどうか、というのを聞かれたようだ。
その答えは恐らくイエスである。でも、素直に首を縦に振るなんて嫌味ったらしいだろうか?
答えに迷って黙っていると、黒田さんは呆れたような溜息をついた。


「あのさ。白石さんも貴大も、いちいち私にお伺いたてなくて良いからね?」
「え」
「勝手に付き合って勝手に手繋いで勝手にキスなり何なりしたらいいんだよ」
「えっ、き、キス」


キスなんて、遠い世界の言語みたいだ。まだ私たちはキスなんてしていない。手を繋いだだけ。だけど黒田さんの口からサラッと「キス」という単語が出て来たという事は、当然だけど黒田さんはキスを経験済みって事。相手はもちろん花巻くんだ。


「私はもう関係ない。付き合ってるのはあなたたち二人なんだから」


黒田さんは私に、自分の事は気にするなという意味で言ってくれている。それはとてもよく分かる。けど。

私が「ありがとう」と返事をすると黒田さんは帰って行った。
その背中を見ながら、たった今の黒田さんの顔を思い出しながら、私はもやもやと考えてしまった。「やっぱり花巻くんは黒田さんと付き合っていたほうが良かったのでは?」だって、あの子はあんなにも可愛い。あれほど心が広くて、別れた後に私にまで気を回してくれる人なんて居ない。


「何か言われた?」
「!」


ぼうっとしていた私は花巻くんの声で我に返った。いつの間にか帰る準備を終えていたらしい。そして、私と黒田さんが一緒に居るのを見ていたようだ。
「何もないよ」と答えると、花巻くんは「そっか」と言って黒田さんの歩いた方向に目をやった。黒田さんは私たちが付き合い始めたのを知っている、というか花巻くんが私に告白するのを事前に知らされていたので、さっきのような事を言ったのだと思う。キスなり何なりすればいい、と。
黒田さんは花巻くんとキスや「何」やらをしたのだろうか。したんだよね。あんなふうに言うって事は。


「…ねえ、花巻くん」


廊下を歩きながら声を掛けると、花巻くんは顔をこちらに傾けてくれた。私の声が届きやすいように。


「こんなこと、聞かれたくないかもしれないけど…」
「うん?」
「黒田さんと、キス、した?」


私が聞く資格のない事だし、花巻くんは答える義務なんてない。だけどどうしても気になって聞いてしまった。まだ付き合い始めて間もないけれど、普通の高校生なら、キスもせずにちんたら付き合ったりはしないはず。それは恋愛経験の少ない私にだって分かる。でもどうしても気になった。花巻くんの口から聞きたかった。私がまだ経験していない事を、黒田さんと済ませているのかどうか。


「したよ」


花巻くんは短く答えた。彼はきっと嘘は言わない。わざわざこんな嘘はつかないだろう。分かり切っていた答えだけど、ずしんと重くのしかかった。


「……そうだよね」


馬鹿だなあと思う。傷つく事が分かっていながらこんな事を聞くなんて。自分と黒田さんとを比べようとするなんて。花巻くんは私がどういう意図で聞いたのか分かっているからか、こんな事を言った。


「でももう一生する事はないだろうな。別れたんだから」
「……」
「今は別れた彼女より、今の彼女とどうやってキスするかのほうが重要だし」
「えっ?」


落ち込んで猫背ぎみだった私は、その言葉で一気にピンと背中を伸ばした。


「え、わ、私とキス、してくれるの?」
「え。してくれないの?」
「いやっ、し、したいけど!キスなんてそんな…誰ともしたことなくて」


男の子と付き合ったのなんて初めてだし。しかもそれが、二年も片想いしていた相手だし。そんな人とキスなんてまるで夢物語で、どんな感じなのか予想もつかない。みんなは一体どういう流れでキスするんだろう?と考えていると、いきなり腕を掴まれた。


「花巻くん、?」
「こっち」


そして花巻くんが、私をどこかに引っ張った。
花巻くんは前を向いていたのでどこに向かっているのか、何を考えているのか分からない。私はされるがままについて行き、到着したのは家庭科室。とても始業式の日に人が出入りするような場所ではなかった。


「花巻くん、ここ…」


ドアを閉めた花巻くんに話しかけてみると、その言葉は途中で途切れた。掴まれたままの腕が、今度は彼自身のほうへ引っ張りこまれたからだ。思いのほか強い力だったので、花巻くんに抱きつくかたちになってしまった。


「……!? え、あの」
「白石さん、本当に誰とも付き合った事がないんだ」


抱きしめられたまま、そう言われた。どうしてそんな事を今更確認されるのかは分からないけど。私が素直に頷くと、花巻くんの腕の力はより強くなった気がした。


「ごめん」
「え?」
「俺が白石さんの気持ち気付かずに、二年も放ったらかしてたからだよな」


私の額に花巻くんの息がかかって温かい。身体もうんと熱くなっている。そして、またぎゅうっと力は強くなった。


「ちゃんと俺が大事にするから」


それからやっと、花巻くんは私の肩を持って身体を離した。


「……花巻くん…どうしたの…?」


いつになく真剣な様子にどきどきする。花巻くんが私を大事にしてくれるなんてこの上なく幸せな事なのに、急になぜそんな事を言っているのかが分からない。もしかして私が、黒田さんとの事を聞いてしまったせいだろうか。私が不安に思っているのを感じ取られた?それとも、これは私の願いでもあるけれど、「キスをした事がない」という私のファーストキスを奪ってくれようと?


「しよう。キス」


心臓が飛び出そうだ。うっかり口から心臓を吐き出さないように息を止めた。
花巻くんは私の肩に手を置き、しばらくじっと見下ろしている。一ミリでも動けばすぐにキスされてしまいそう。実際、私がゴクリと息を飲んだだけで、花巻くんはそれが合図であったかのように顔を近づけてきた。


「……っ、心の準備が」
「深呼吸して。ゆっくり吐いて」


もう鼻と鼻がくっつきそうな距離で、花巻くんは私に指示をした。こんなに近くに居るのに冷静に深呼吸ができるはずない。それでも必死に息を吸い、口から思い切り吐き出した。肺が空っぽになるくらいに。しかしそうすると、不思議と心臓のドキドキはおさまったような気がした。


「目、閉じてみて」


言われたとおりに瞼を下ろす。同時に、肩にある花巻くんの手にぐっと力がこもった。
私は身動きひとつ取らずに、目を閉じてじっとしていた。何も見えないのに、または何も見えないからこそ、花巻くんが近付いてくる気配を感じる。すぐそこに居る。鼻の頭に何かがちょんと当たった、これは花巻くんの鼻?それからすぐに、唇にマシュマロみたいな柔らかいものが押し当てられた。あまり潤いを持たないソレは本当にマシュマロなのでは、と思わされるほど。実際には、花巻くんの唇が優しく触れていたのだった。


「…どう?」


また、鼻と鼻がくっつきそうなくらいの場所で花巻くんが言った。
どうってそんな、急にこんな事されて、どう?だなんて。私の頭はぐちゃぐちゃだ。いい意味で。いや、悪い意味かも?とにかくまともな受け答えが出来ず涙が出てしまうくらいにぐちゃぐちゃである。


「わ!? 大丈夫?ごめん嫌だった?」
「ちが……っ」


嫌なわけがない。その逆だ。嬉しすぎて混乱してしまった時、人間は悲しくないのに涙を流してしまうらしい。


「嬉しくて、なんかもう…夢みたい」


花巻くんが私にキスした。私と花巻くんがキスした。花巻くんとキスできた。
付き合っている事すら夢のようで実感がなかったのに、私が放ったほんの少しの嫉妬の言葉に花巻くんが反応して、この場所に連れてこられて、願いを叶えてくれた。「黒田さんとキスした?」としか言ってないのに、この人は。本当に夢みたい。夢かな。夢だったらどうしよう。


「もー、白石さんはいつになったら夢から覚めるのかな」
「ごめ、だって」
「いいよ謝らなくて」


午後から部活で使う予定のタオルを、惜しげもなく私の頬にふわりと当ててくれる。花巻くんの汗を吸う前に、私の涙で汚してしまうとは。ごめんなさい、でも嬉しい。


「好きだよ。白石さん」


頬に流れる涙を拭き終えると、花巻くんはもう一度キスをした。慰めるみたいに。でも、今の私には逆効果だ。キスなんかされたら、涙腺のスイッチが壊れてしまうじゃないか。


「…わたしも、好き…っ」
「あーほら!また泣く」
「ごめんなさいぃ」


花巻くんと付き合う事になったあの日から、私は嬉し涙ばかりを流している。それまでずっと、悲しくて苦しくて情けない涙ばかりだったのに。
花巻くんは私が泣き止むまでそばに居てくれたけど、事ある毎に頭を撫でたりキスをしたりしてくるもんだから、それが理由で涙がおさまらなかっただなんて知る由もなさそうだ。