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いとしい染みの作りかた


アルバイトが無い日でもそわそわして仕方がない。今日も花巻くんが私のバイト先に来ていたらどうしよう、と思い上がった心配をしてしまうのだ。だけどおばさんに聞いてみても「見てないよ」と言われるし、バイトに行っても花巻くんが来る事は無かった。そりゃそうだよな、彼にも受験や部活があるのだから。あんな会話をしたとはいえ、私の事ばかりを考えてくれてるわけじゃない。
それなのに私は花巻くんの事ばかり考えていて、こんなので受験生として大丈夫なのか心配だ。


「いたっ」


ある時、バイト先て明日のランチの仕込みのため玉ねぎを切っていたところ、指先にピリッとした痛みを感じた。やってしまった。私とした事が。


「どうしたの?…あらっ」


おばさんが様子を見に来た時は、すでに傷口から血が流れていた。それを見たおばさんは目をぱちくりとして、包丁を使い慣れているはずの私がこんなミスをするなんてと驚いているようだ。


「ごめんなさい…」
「大丈夫大丈夫。こんな怪我するの珍しいねすみれちゃん」


自分でもそう思う。昔から家ではお母さんの手伝いをしていたし、ここでのアルバイトだって一年以上続けているのに。
前に指を切ったのは高一の家庭科の時だ。確かあの時も今と同じように、頭の中にある人物を浮かべていた。


「……考え事してた」


家庭科で指を切った時は、あの人が近くで私の作業を見ていて緊張したのと、綺麗に切れてるねと褒められて浮かれていた。今指を切ったのは、次はいつ会えるのかなとうきうきしていたから。


「ハナマキくんのこと?」


おばさんはもう私の想い人の名前を暗記していて、事ある毎に…とは言わないけれども時々花巻くんとの関係について聞かれていた。前回会いに来てくれて以降は何の進展も無かったから、特におばさんに報告はしていなかったけど。花巻くんの事を考えて手元が疎かになったのは事実だから頷くと、おばさんは意味ありげに微笑んで言った。


「偶然だね。彼もすみれちゃんのこと考えてたみたい」


それから窓の外を見やって、私に顎で合図をした。外を見るようにと。
続けてお店の前の道に目をやると通行人がちらほら歩いている中に、立ち止まって店内を伺っている男性がひとり。明るい髪色にすらりと高い身長、服装は青葉城西高校の夏の制服。見覚えのあるその姿が誰なのか認識できるまでに、そう時間はかからなかった。


「…花巻くん」


私が呟いた時、店内の掛け時計が鳴り始めた。一時間ごとに音を鳴らす時計なので、今は長針が十二の文字を指している。短針のほうはというと私のバイトの上がり時間を指していて、おばさんはいち早くそれに気づいたようだ。


「四時ぴったりじゃん。時間狙ってたね、彼」


その言葉の意味を理解する前に、おばさんが「ほら!タイムカード切ってさっさと着替えて!」と急かしてきたので直接は聞けなかった。
恐らく花巻くんは私が前回四時で上がったのを覚えていて、今日も四時の上がり時間に合わせて会いに来たのではないか?とおばさんは予想しているのだ。
まさかそんな嬉しい事があるわけない。あるわけないけど、あるかも知れない。


「花巻くん!」


着替えを終えた私は急ぎ足でお店を出て、入口の横に居た花巻くんに声を掛けた。彼はスマートフォンを弄って時間を潰していたらしく、ポケットにそれを仕舞いながら言った。


「ごめん…また急に来た」
「ううん、大丈夫…」
「よく考えたら俺、白石さんの連絡先とか知らなくて。待ち伏せみたいな事しちゃったな」


花巻くんに待ち伏せされるなんて願ってもない事だ。アルバイト後に待ち合わせて一緒に帰るとか、そういう事に憧れていたから。しかし本人は突然会いに来た事を申し訳なく思っているようで、後頭部をぼりぼりとかいていた。


「…あれ。それ、指どしたの」


しかし、そんな時でも花巻くんは目ざとく気付いた。私の指に絆創膏が貼ってある事に。


「あ、これ…さっき玉ねぎ切ってて、指いっちゃった」
「マジ?大丈夫?」
「うん。平気」


花巻くんの事を考えながら切った怪我だとは言えなくて、平気なふりをした。本当は少しだけ痛い。でもそんな事は気にならないほど、頭の中は花巻くんでいっぱいだ。


「白石さん、前も玉ねぎ切ってる時に指切ってた」


花巻くんが懐かしむように言った。途端にかあっと自分の顔が赤くなるのを感じる。あんな恥ずかしい事を覚えられているなんて。


「……まだ覚えてるんだ」
「覚えてるよ」
「カレーの手作りデビュー日だから?」
「それもあるけど」


けど、何?
そこから先は聞けなかった。何を思って今日来てくれたのか、偶然通りがかっただけなのか、その答えに繋がる事が言葉の続きなのだろうけど。しばらく黙り込んだまま花巻くんが歩いていたので、私はその少し後ろをついて歩いた。とっくの昔に帰り道への分岐点は過ぎているけど、そんなの気にしない。気にもならない。花巻くんが今、何を考えているのかに比べれば。


「まだ俺のこと、好きで居てくれてるの?」


立ち止まった花巻くんが言ったのは、突然過ぎてよく分からない言葉であった。正確には、意味は理解出来るけど訳は分からない言葉。


「……え…」
「いや、うーん…こんな聞き方よくないよな、分かってるんだけど」


花巻くんは納得のいく言葉を探すかのようにぐしゃぐしゃと髪をかき回した。
まだ好きなのかどうかと聞かれればもちろんイエスだ。今までもこれからもずっと私は花巻くんが好き。だけど花巻くんがどういう意図でそれを聞いてきたのか分からなくて、すぐには答えられなかった。


「でも俺は白石さんを、日に日に好きになってるから」


そして、更に訳の分からない一言を。現実とは思えないような一言を言われたのだ。


「…へ?」
「だからまだ白石さんの気持ちが変わってないなら、…いや俺だってそんなコロコロ意見変える人間じゃないはずなんだけど!」
「え、あの」


突然の事で整理が出来ない。花巻くんが今必死に訴えているのは、私への気持ち?
私の耳が正常ならば今、彼は私の事を好きだと言っている…ように聞こえる。なんと答えれば良いか分からず、私の口は縦やら横やらに何度も形を変えていた。声の出ないまま。それに見かねた花巻くんが(あるいは自分よりも取り乱している私を見て冷静になったのか)、先ほどよりも低い声で言った。


「今日は、答え出したから会いに来た」


前回会った時には、まだ自分の気持ちは分からないと言っていた。だからまた会いに来ると。私の気持ちにはきちんと応えるつもりだと。
もしかしたら振られるかもしれないし、夢のような結果になるかもしれないし、何度もそれはシミュレーションしてきたけれど。いざ現実になると冷静では居られない。正気では聞き取ることが出来ない。


「付き合ってくれないかな。俺と」


だけど花巻くんの心地よい声はしっかり私の耳に届いた。声も気持ちも何もかも、心にずっしりと響いたのだ。
嬉しい。そんな事が起こるなんて夢にも思わなかった。本来ならば両手を上げて喜んで、その両手はそのまま花巻くんのほうに伸ばして抱きついてしまいたい。けど。


「……でも……黒田さん…」


気になるのは花巻くんの元恋人、黒田奈々さんの事だった。黒田さんと別れてからそんなに期間の経っていない彼が、今度は私に告白なんて大丈夫なのだろうか。私が言うのもおかしいけれど利口だとは言えないと思う。私が黒田さんの名前を出すと花巻くんは「ああ」と再び頭をかいた。


「…実は奈々に昨日、聞いたんだよね…白石さんに告白してもいいかどうか」
「えっ」
「別れてから何ヶ月も経ってないし。いきなり他の子と付き合うなんて良くないだろうから」


黒田さんに事前の了承を得ることが正しいのか正しくなかったのかはさて置いて、花巻くんはそのあたりの筋は通す人間のようだ。


「けど、好きにすればって鼻で笑われた。はは」
「……そうなんだ…」
「…白石さんも、俺と付き合ってんの周りに知られたら何か言われるかもしれない。奪ったんじゃないかとか、花巻に二股されてたのかとか」
「……」


花巻くんは私の目を見ながらゆっくりと話した。説得するように。これから起こりうる私への良くない出来事を並べて、「それでも良ければ付き合ってくれますか」と言われるものかと思ったけれど。


「でもそういうの、全部俺が守るから」


と、不安なんか全部消し飛ばすような一言を言ってくれたのだった。
確かに他の人から見れば私は略奪愛に勝利した女である。みんながみんなそんな事は思わないだろうけど、そう思う人も居たっておかしくない。でもこれから先何かがあっても、花巻くんが私を守ろうとしてくれている。嬉しくて嬉しくて、反射的に出てきた言葉はこれだった。


「……ごめんなさい」
「うぇっ!?」


ついついクセで頭を下げてしまった私に花巻くんは凄い声で驚いた。そうか。これだと告白を断ったように聞こえてしまう!まさか一言で振られるとは思っていなかったらしい花巻くんは、顎が外れそうになっていた。


「あっ?いやっ、そういう意味じゃなくて!すごく嬉しくて!ただ気持ちの整理が出来てなくて!」
「あ、ああ…なんだ」
「ごめん」
「じゃあ俺、振られて…ない?」
「ふ…振ってない!振ってないっ」


むしろ振るわけがない。ただ自信が無い。現実味も無い。実感もわかない。もう一度ちゃんと聞くまでは。


「私で本当にいいんだったら…喜んで…です」


黒田さんのように目立つような華もなければ特別可愛くもなく、何かずば抜けた特技があるわけでも無いけれど。そんな私を本当に選んでくれるのなら。
花巻くんは私の言葉にゆっくりと首を振った。


「いいに決まってるよ。白石さん、ほんとに良い人だって分かってるから」


半歩近づいてくる好きな人の足、徐々にハッキリと香る好きな人のにおい。ドキドキして顔を上げられない。もうすぐそこに花巻くんが立っているのに。


「俺がどれだけ馬鹿でもアホでも、白石さんの気持ちに気付かなくても、ずっと好きで居てくれたんだから」
「…うん」
「幸せ者だよ、俺」


私のおでこのすぐ前で、花巻くんが言った。その息がふうっとおでこに当たるんじゃないかと思うほど。でも私には花巻くんの吐いた息を感じる余裕も無い。この夢にまで見た現実を目の当たりにして、感極まってしまったのだ。


「……わたしのほうが…幸せ…っだよ」
「わ!泣かないで」
「だって私、だって」


一年生の時からこうなる事を望んでて、それは無理だと諦めていた。けれど心のどこかで「そうなれたらいいな」と考えていた。自分は何も努力をしないまま。だけどついに想いを伝えて、すぐには叶わなかったけど、今それが現実に。


「ずっと、ほんとにずーっと好きだった。待ってたんだもん」


花巻くんに気付いてもらえるのを、花巻くんに好きになってもらえるのを。
泣きながら言った言葉は届いていないかもしれないと思ったけど、花巻くんが「お待たせしました」と笑ったのでどうやら聞こえていたようだ。それからはよく覚えていないけど花巻くんの胸元は濡れて染みになっていた、それが私の鼻水なのか涙なのかはハッキリさせないでおこう。明確なのはただひとつ、今日ようやく私の恋が実ったということ。