自分が大事に護ってきたものなんて、他の誰かからすれば小さくてどうでもいい事なんだって、生まれて初めて知った。

私には好きな人が居た。同じ高校に通う先輩で、名前を鈴木先輩と言う。先輩はサッカー部に所属していて、登下校の時に練習風景を見ていたらいつの間にか目について好きになっていた。告白したけど駄目だった。でも、「一回だけならいいよ」って言われた。最初は意味が分からなかったけど、それは私が十六年間誰にも許さなかった身体の神秘を、俺に見せてよっていう意味だったらしい。


「もう卒業するし、白石ともこれでお別れだな」


先輩は最後まで私を「すみれ」と呼ぶことは無かったし、私も彼を名前では呼ばなかった。だって私たち、付き合っていないんだから。

それなのに「一回だけ」という口約束は簡単に無かったものとなり、私たちはいわゆる身体だけの関係になった。私は先輩のことが好きだったから。断る理由なんて無い。好きな人に触られて、好きな人が気持ちよくなるのって、すごく嬉しい事だもん。でも、なんでか分からないけど、私はあんまり気持ちよくなかったな。


「お前、すみれか?」


卒業式で鈴木先輩を見送った帰り道、ここしばらく聞いていなかった声がした。
久しぶりだけど声の主が誰なのかはすぐに分かった、というのは嘘。私の記憶よりも少しだけ低く落ち着いているように聞こえたから、一瞬だけ別人だと思った。


「……げっ。夕」
「久しぶりだな!全然見かけねえから引っ越したのかと思った」
「いや、ずっとあの家だけど」


西谷夕は幼稚園も小学校も中学校も一緒だったいわゆる幼馴染というやつだ。
夕の家と私の家との真ん中に公園があり、幼稚園や小学校低学年の頃はよく一緒に遊んでいた。あの頃は女みたいな見た目だったのに性格だけは一丁前に男ぶっていて、それが鼻についた記憶がある。今や少しだけ私より目線が高くて、昔のように男っぽく振舞っているのが、好きな人と絶縁したばかりの私にはうざったく思えてしまった。


「お前んとこも卒業式?」
「…ウン。そっちも?」
「おう。盛大に見送ってきたとこ」


夕は卒業式で少し泣いたのだろうか、目元がなんとなく赤みがかっている気がした。
卒業生の前で堂々と泣けるなんて幸せだ。私なんか今日は目も合わせてもらえずに、一言も交わさなかったというのに。ただ列に並んで歩く鈴木先輩の姿を目で追うだけだった。先輩と過ごした最後の日に、「これでお別れ」と関係を絶ったから。


「来月から高三とか想像つかないよな、もっと大人になってるかと思ったけどさ」


とても清々しそうに言う夕を見て、羨ましいのか妬ましいのか分からない妙な感情が生まれた。確実に言えるのは「良くない感情」って事で、おかげで私は思い切り嫌味っぽく口を開いた。


「…そうだね。身体だけ大人になってもね」


夕はきっと、私が何を言っているのか分からないだろう。昔から遠回しな表現を読み取ることが出来ない人だった。だからさっきまで笑顔だった夕は、今回も予想通り顔をしかめた。


「お前、何言ってんの?」
「べつに」
「なんか怒ってる」
「なにもないってば」
「あんだろ!言えよ」


彼は私が怒っているのだと思っているらしい。虫の居所が悪いのは本当だ。
でも、怒りより喪失感のほうが大きくて。鈴木先輩にはもう会えなくなった事や、アドレス帳から先輩の名前が消された事、そして付き合ってもいない人を相手に処女を捨てた事。それら全部が合わさって、私の心に大きな穴を開けた。


「…すみれ、なんか…何?お前、なんかおかしい」


はっきりしない事ばかり言う私が変だったのか、夕は怪しむように私を観察した。


「どこが?」
「さあ…なんとなく」
「何それ」


幼馴染からすれば今の私はそりゃあ変かもしれない。これでも昔は活発的な悪ガキだったのだ。それが今や片想いの相手にいいように遊ばれて、それでもいいって割り切っていたつもりになって、一人で勝手に後悔してる。安易に身体の関係を持ってしまった事を。


「もしかして、私が大人になっちゃったからかな?」


この皮肉も自分に向けて言ったものだし、やはり夕は意味を理解しないだろう。この言葉だけで私と夕の関わらなかった二年間に何が起きたのか、分かるわけが無い。


「………は?」
「って、夕には分かんないか」
「馬鹿にしてんじゃねえぞ」


ところが夕はとても怖い顔で私を睨んでいた。私、なにか悪い事でも言ったろうか。または、私の言う「大人になった」が何であるかを理解したのだろうか。


「…もしかして彼氏でも出来たとか?」
「できてないよ。一度も」
「じゃあどういう意味だよ大人って」
「思ってるまんまの意味だよ」
「彼氏が居ないのに?」
「知らないの?人間って身体があれば誰とでもエッチできるんだよ」


言い返されるかなって思った。私の悲しみに任せた軽率な発言に。
だけど夕はまるで凍ったように固まって、何も言わなかった。単に驚いているのか軽蔑してるのか分からないけれど。それが余計に惨めになった。叱ってくれればいいのにと。


「…好きじゃなくてもできるんだってさ。あの人」


無意識に私は、先輩の事を口にした。
それからはしばらく、二人とも口を聞かなかった。時折道路を走る車の音が聞こえるのみで、それ以外はとても静かだ。ただ、夕はずっと私から目を逸らさずに睨んでいるようだったので、それが苦しくて顔を伏せた。それと同時に夕からは巨大な溜息と、呆れたような声が。


「バカヤロー」
「…うるさい」
「いや、バカヤローだろ」
「るさいっ」


ついカッとなってしまった。夕の言う通り私はバカヤローなのに、それを何も知らない他人に言われると腹立たしくて。私が受けた苦しみとか悩みとか、何も分かってないくせに。


「夕なんか、どーせ部活しかしてないんじゃん!誰かを好きって思ったりとか、振られて苦しいとか、好かれてなくても一緒に居れたらいいとか、そういうセンサイなの分かんないくせに!」


息の続く限り、思いつく限りの文句を言ってやった。夕は昔から単純であれこれ考えないような人だったし。だから今だって簡単に、傷付いている私に「バカヤロー」なんて言えるんだ。


「言いたい事はそれだけかよ」
「そうだよ。悪い?」
「じゃあ言わせてもらうけど、」


今度は夕が息を吸った。ぶっきらぼうな夕と口喧嘩をした回数は数知れず。また馬鹿だの下らないだの頭ごなしに言われるのだろうと思ったけれど。


「誰かを好きって思ったりとか、そいつと上手くいかなくて苦しいとか、そのくらい俺だって分かる」


仁王立ちの夕ははっきりと言った。この人には一生こんな考え方なんて無理だろうと思っていた事を。


「でも、好かれてもないやつに簡単に許すお前の気持ちは分かんねえぞ」


そして、愚かな私を正すような一言を。

鈴木先輩には私以外にも複数、同じような相手が居た。もしかしたら彼女も居たかもしれない。それを知っていながら、二人の時だけは私を見てくれるって勘違いして、私はそれまで護ってきたものをあっけなく放棄した。一瞬の事であった。先輩も、まるで大した事がないかのように振舞っていたし。

ああ処女なんてそんなに大切ではなかったんだ。初体験なんて、こんなもんなんだ。そう自分に言い聞かせてきたのに、今、夕はそれを理解できないと言う。


「……なんでそんな事言うの?」
「知るか!思ったから言った」
「…っ夕のそういうとこっ、良くないと、思う」
「うるせー」


そう言いながら、夕がポケットからティッシュを取り出し投げつけてきた。ティッシュを持ち歩くような男になったのかと驚いたけど、今日は卒業式だから、涙もろくて情の深い夕は自分が大泣きするのを想定していたのかもしれない。私はティッシュを数枚取って、目元を思い切り拭いた。


「…いいもん、どうせもう先輩は卒業したから」
「そうか。おかげで吹っ切れるじゃん」
「そんな簡単じゃない」


物理的に会えなくなったからと言って、すぐに忘れられれば苦労しない。やっぱり夕は分かってない。


「卒業しろ!そんなくだらねえ恋なんか」


だけど、私のしてきた行為は褒められたものでは無いって事を言っているらしかった。悔しい。恋愛のことで夕に言い負かされる日が来るなんて。嬉しい。この失恋を「卒業」という表現にしてくれるなんて。


「…卒業式に掛けてるの?」
「掛けてみた」
「全然うまくない」
「なんだよ!つか元気じゃねーかっ」
「元気じゃない」


夕と一緒に居ると、嫌でも元気が出てしまうのだ。引っ張られる。思えば小学校の時、友だちと喧嘩して落ち込んだ時も夕が「一緒に謝りに行こう」って言ってくれたんだっけ。考えなしで向こう見ずだけど、いつでも夕は正しかったんだっけな。


「…卒業する。あんな人、もう忘れる」


すぐに吹っ切れるのは無理だろうけど、私は心にそう決めた。もう遅いかもしれないけど、残りの一年は自分の事を大事にしようと。私の卒業宣言を聞き、夕も満足そうに頷いた。


「おう。卒業おめでとう」


それから私の背中を、強いのか優しいのか分からない力で叩いたのだった。
その時の手が記憶の中の夕よりも大きくって、私はこの時ほんの一瞬、ほんとうに一瞬だけだけど、同じ高校に行けば良かったかなと思えた。そうすれば私が何かいけない事をしたとしても、すぐに夕が叱ってくれたのかなぁと。「卒業式みたいに言わないで」って背中を叩き返しながら、そんな事を考えた。


なんでもないような正義論


烏野高校企画"飛べ!"で「卒業」をテーマに書かせて頂きました、他にも素敵な烏野メンバーが沢山いるのでぜひご覧下さい!