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マジカル・ラブフライト


あれからおばさんは勝手に私のエプロンの背中を解いて、さっさと私服に着替えるように促してきた。今日は本当にこれで上がってもいい、というか強制的に上がりにさせられるようだ。
職権濫用、公私混同!と言いたいけれどせっかく待たせている花巻くんに「ごめん、やっぱり最後まで働く」とは言えず。手早く着替えて鏡で髪型をチェックして(いつもはしない)、花巻くんの座る席へと戻った。


「…ごめんね、なんか」


お店を出てからまずは謝罪した。買い出しを手伝ってくれた事も、おばさんが嬉々とした表情で私たちを見ていた事も。主に後者。だけど花巻くんは優しい声で「ううん」と首を振った。


「大丈夫。あの人、体調治ったんだね。よかった」
「え?」
「ほら、体調崩してたって言ってなかったっけ」


私はしばらく目が点になった。おばさんは身体が丈夫で、私の知る限り体調不良になった事など無いからだ。
どういう意味?と首を傾げて花巻くんに尋ねそうになった時、私は寸でのところで思い出した。前に花巻くんの試合に行くのが辛くなって、アルバイトを休めなくなったと嘘をついた事があるのだ。おばさんが体調を崩したからと言って。


「…あ!うん、そう。そうなの。もう全然元気」
「そっか」


ならよかった、と花巻くんは安心したように笑った。
目の前で笑いかけられるのは嬉しいはずなのに、心がずきずきと痛む。花巻くんは何も疑わず私の言う事を信じていたのだ。私が臆病で不器用なせいで、せっかくの観戦の約束を断ってしまったと言うのに。このままでは終われない。もう花巻くんに嘘はつきたくない。私は思い切って息を吸った。


「…ごめん」
「ん?」


私の声が小さかったのか、謝罪の意味が分からなかったのか。花巻くんはその場に立ち止まって聞き返した。


「嘘なの。おばさんの体調不良」


今度は先程よりも大きくハッキリと伝えた。まるで幻聴か幻覚でも体験したかのように花巻くんが固まっている。無理もない。そんなくだらない嘘をついた理由なんて、彼には分からないだろうから。
花巻くんは「あー」とか「えー」とか言いながら言葉を探して、やがてまだ回り切っていない口で言った。


「えっと…そうなの?いや、元気ならいいんだけど…なんで…?」


心底不思議そうに花巻くんが訊ねる。本当の理由を言えば軽蔑されるかもしれない。でも嘘をついて花巻くんに取り入ったり、仲良くしようとするのはもうやめたい。本当の私を好きになってもらわなければ。そうでないと、黒田さんに向ける顔も無い。


「私、花巻くんの…バレー部の試合、観に行くねって約束してたけど。あの…色々あって、行きづらくなって」


「色々」の部分は省略した。言わなくても分かるだろうと思ったし、花巻くんもあまり思い返したくは無いだろうから。


「だから…おばさんが体調悪いからって事にして、試合断ってバイトしてたの」


本当は観に行きたかった。でも試合会場で黒田さんと会うのが怖くて行けなかった。「私は一人の友人として応援に行くだけ」という度胸も勇気も無かった。全部私の都合なのである。


「…そうなんだ」
「行くって言ったのに、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。白石さんが悪いとかじゃない」


全て私の勝手な事なのに、花巻くんはそれを否定してくれた。黒田さんとの交際中に自分が他の女子、主に私にとった態度を反省しているのかもしれない。それだって別に悪いことでは無いのに。事実、私は花巻くんに話しかけられて嬉しかったから。私が頭に血が上って花巻くんを責めたこと、まだ気にしているのだろう。


「次はちゃんと観に来てくれる?」


やっぱり仲良くなるには一筋縄ではいかないかも。そう思い始めた時、花巻くんからお誘いの声が降ってきた。


「次…?」
「うん。次の予選、もう来月始まんだよね」


バレー部の秋大会、詳しくは春高バレーの予選が早くも待っているらしい。確かインターハイの本戦だってまだ迎えていない、あるいは今が真っ最中くらいなのに。もう次の大会があるんだ。花巻くんはそれに出るんだ。そして、私を観戦に誘っている。


「今度こそ白石さんに来て欲しい」


どういう気持ちを持って言っているのかは分からない。だけど好きな人にこんな事を言われて、断れる人間なんて居ないはずだ。いつもと少し違う真剣な眼差しに射貫かれて、私は気づいたら頷いていた。


「それは…もちろん、花巻くんがいいなら」
「そりゃあ大歓迎だよ」
「じ、じゃあ行く」
「よっし」


花巻くんは小さくガッツポーズをした。私が試合に行く事がそんなに嬉しいのだろうか。それとも応援席が青城の生徒で埋まるのが嬉しいのか。どちらにしても歓迎してくれるのはとても嬉しい。

だけど、私の中にはひとつの懸念点が生まれた。花巻くんが夏休み前も、そして夏休みに入ってからも私を気にしてくれる理由。単純に考えれば「距離が縮まった」と言えるのかもしれないけど、もしかしたら違うかも。


「…あのね。花巻くん、もし私に悪い事したって思ってくれてるんだったら…ほんと、そういうのいいからね。気にしないで」


過去、花巻くんが私の気持ちを知らずに優しくしてくれた事が原因で、黒田さんを含む私たち三人は一時的に大きく拗れた。
花巻くんは、自分が考え無しに私に優しくした事を後悔して、その償いとして私の事を気にしているのだとしたら。もしそうだとしたら、そんな事はしなくてもいいから。


「…へ?」


花巻くんはぽかんとした様子で言った。


「私に、気とか遣わなくていいから…」


こうして仲良く話せるのは夢のようだけど。私が泣きながら好き勝手に怒ったのが原因で、それを気にして私に気を遣ってもらうのは申し訳ない。そこまで花巻くんにさせたくない。私は私の力で仲良くなりたいから。一歩ずつちょっとずつ。

しばらく花巻くんは考え込んでいるようだった。困らせる言葉であるのは承知である。でもハッキリさせたかった。


「悪い事したとは思ってるけど…そういうつもりで来たんじゃないよ」


やがて花巻くんは、普段どおりの柔らかい声で言った。


「そうなの?」
「そう」
「じゃあ、なんで…」


なんで私を特別扱いするみたいに、こうしてアルバイト先にまで顔を出してくれるのか。私に応援して欲しいみたいに試合に誘うのか。どうして、なんで?今までの教訓から勝手に期待するのは駄目だと分かっているのに。


「友だちだから」


花巻くんは短く言った。
ほら、期待しちゃ駄目だった。花巻くんは普通の友だち相手でも、優しく接する事のできる男の子なのだから。私は気付かれないように落胆の息を吐いた。


「…って言いたいんだけど…まだよく分かんないんだ。自分でも何やってんだって思う…つうか今日は色々考える前に会いに来ちゃって」
「え…」
「とにかく俺、白石さんと仲良くなりたいから」


ところが信じられない言葉が次々と聞こえてくる。大好きな花巻くんの目はふたつとも私を捉えており、その口は私に向けて語りかけ、耳は私の声を逃さず聞き、心は私という存在と「仲良くなりたい」と考えている?


「白石さんの気持ちにちゃんと応えたい」


だんだんと低くなっていく花巻くんの声が身体中に響いた。
私の気持ちはずっと前からひとつだよ。それに応えてくれるという事は私、また要らぬ期待を抱いてしまうでしょう。
それってどういう意味?と、声に出たかは分からないけれど気持ちを込めて花巻くんを見上げた。だけど花巻くんはその場では答えてくれなくて。


「また会いに来る」


それだけ言うと、ちょうど差し掛かった分かれ道を右に進んで行った。
この夏休み、まだまだ先は長いけれど、二学期が始まる前に再び会いに来てくれるのだろうか。私が何曜日のシフトに入っているのかも知らないのに。もしかして今日無事に会えるまでも、何度かお店を覗いていたりして。
そう考えると、私の心も足取りもうんと軽くなった。身体の全部がとろけるように熱くなり、地に足がついていないような感覚。花巻くんの事を考えながらスキップするなんて初めてだ。花巻くん、次はいつ来てくれるんだろう。