22
愛を吐く怪物


さっきまで俺への文句を喚いていたのが嘘のように、白石先生は静かであった。と言うより口を開く余裕も無いように見える。俺だって自慢じゃないけど女の人を無理やり押し倒したのは初めてだ。しばらくは先生の手首を長机に押し付け、先生の抵抗が弱まるのを待っていた。


「…天童くん、どいて」


しかし当然ながら、白石先生が抵抗をやめるはずは無い。生徒が教師に逆らってこんな行為に及ぶなんて指導しなきゃならないだろうし。今はそれよりも、男子にこんな事をされている状態を屈辱としているか憤怒しているか、あるいは驚愕だろうけど。
でもいくら先生が嫌がろうと、俺はここを退くつもりは無い。


「どいてよ」
「やだ」
「大きな声出すよ、」
「出してみれば」


俺がそう言っても先生は息を吸わなかった。大声を出すつもりなんて無いらしい。生徒である俺を守るためなのか、自分のこのような姿を他人に見られるのが嫌なのかは分からないけど。それでも俺を説得するのはまだ諦めていないようだった。


「よく考えて、ね?あなたは高三で私は社会人だよ」
「言われなくたって何度も考えたし、ていうか四つしか変わんないじゃん」
「学年で言ったら五つも違うでしょ」


あまりにも真面目だ。四つも五つも一緒じゃないか。俺が白石先生を好きになったのは、年の差なんて関係無かったというのに。
先生は未だに俺を五つ年下の単なる高校生として見ている。普通の高校生は教師に向かって好きだのなんだの言ったりしないのに。

だけど俺が唯一「普通の高校生」と言えるのは、子ども扱いされるのを嫌がる事だ。五つも学年が違うだなんて、そんな事実を突きつけられるのは御免なのである。


「…じゃあ、二十歳と二十五歳だったら?」
「へ…」
「三十と三十五は?」
「て、天童くん」
「俺は今から百年経ったって、五歳上の先生を好きでいるよ」


俺たち二人がそんな歳まで生きられるのかどうかなんて関係なく、たとえ今から八十年が経った先でも俺は白石先生以外の人に心奪われる事は無い。こんなに馬鹿みたいで夢みたいな言葉を吐くのは初めてだけど、本当にそう思うから。

俺は先生に覆いかぶさったままで言い、先生はそれらを仰向けに倒されたまま聞いていた。どんな気分で聞いていたのかは分からないけど。何言ってんだコイツ、って引かれたかも知れない。だけど先生は笑いもせず怒りもせず、ただ悲しそうな表情で言った。


「…そんなに簡単な事じゃないよ…」
「分かってるよ」
「分かってないでしょ」
「分かってるから苦しんでんじゃんか!」


俺はまた手に力を込めた。
こんなこと、相手が白石先生じゃなくたって最低の行為だと分かっているのに止められない。俺が白石先生と言う人を好きになってしまったその日から、簡単な事なんて何も無かった。会いに行っては必死で気持ちを隠して、彼氏の存在を知っても取り乱すのを我慢して、その浮気を目撃しても手を出さなかった俺は褒められるべきじゃないか?
全部俺が悪いみたいに、生徒が教師とそういう関係になるなんて有り得ないみたいに、眼中に無いみたいに言われるともう手を退ける事は出来なかった。


「天童くっ、」


俺は自分の体重をだんだんと乗せた。白石先生は少し苦しそうに俺の名を呼び、だけど俺は返事をしなかった。
顔と顔がどんどん近づいて行く。先生が一生懸命顎を上げたり引いたり横を向いたりして、逃げようとするのが分かるけど。年の差がいくつあったって関係ない。現に今、俺の力のほうが強い。ここに居るのは十八歳と二十二歳ではなく、男と女なのだから。


「するよ」


とうとう、もがいている先生の鼻の先まで辿り着いた。既に俺たちの鼻の頭は触れている。先生はもう顔を振って逃げようとはしない。少しでも動けば唇が触れそうな距離だからかもしれない。だけど、言葉でははっきりと拒否をした。


「だめ」
「するから」
「やっ…」


やだ、あるいはやめて、どちからを口にしようとした先生の唇はついに塞がれた。
俺の唇が押し付けられた瞬間に白石先生の動きは止まり、肩に力が入ったまま硬直していた。瞬きもしないまま。白石先生が瞬きをしていないのが何故分かるのかと言われれば、確実な証拠はない。きっと目を開けたり閉じたりする余裕なんて無いという予測である。

しかしある程度の時間が過ぎると、徐々に先生の身体が動き始めた。手の指を動かし、肘を使って抵抗し、脚をばたばたと上げている。顔は動いていなかった。俺が思い切り固定しているからだ。
やがて先生は空いた手で俺の胸を押し返そうとし、それが効かないと分かると拳で胸を叩かれた。さすがにこれは痛くて顔を離すと白石先生は、溺れていた人間のように思い切り息を吸った。


「息しなきゃだよ。先生」


俺の声は普段よりも低く聞こえた。優しく言ったつもりなのだけど。
先生も俺の声を聞いてびくりと震えたように見え、再び近付く俺を必死に押し返そうとした。勿論大人しく引き下がるつもりは無いし、今ここで先生の身ぐるみ全部剥がしたって構わない。むしろそのつもりだ。力無く抵抗する白石先生を無視して先生の着ているブラウスに手をかけた、その時だった。


「…お願い…やめて、私、こわいの…っ」


先生は俺を押し退けようとするのをやめて、自身の顔を両手で覆った。嫌なことを無理やり視界から消して拒否するみたいに。

興奮していて気付かなかったが眼下で組み伏せた白石先生の身体は驚くほど震えていて、俺はようやく自分の姿を客観視した。そして、この女性がまだ女性になり切れていない事を改めて理解したのだった。


「……本当に初めてなんだ」


知っていた事、分かっていた事だけれど。ぽろりと漏れた言葉が白石先生の耳に届いた時、彼女の瞳に生気が戻ったように見えた。そして今は逆に力の抜けた俺の肩を、思い切り殴ってきた。


「どいて!」
「いてっ」


火事場の馬鹿力というやつだろうか、ガツンという痛みが肩と心とに響き渡る。続けて何度も何度も俺を押し返し、時には腕を振り回して遠ざけて、やっと先生は乱れた髪のまま立ち上がった。
しばらく何も言わずに見つめ合うだけの間。先生ごめんなさい、と喉まで出てきているのに声には出ない。謝ったところで意味が無いのを分かっているからか、或いは白石先生の俺を睨みつける目が怖くて怯んでしまったか、いずれにしてもさっきまで襲う側だった俺は完全に某人形だった。


「馬鹿」


白石先生はその二文字にすべての感情を込めて言った。それからは俺の事なんて見向きもしないで去っていき、資料室のドアは開けっ放しのまま先生の足音が遠ざかって行った。

さすが教師と言ったところか、先生の言うとおり俺は完全なる馬鹿である。好きな人を怒らせたり泣かせたり失望させたり幻滅させたり、挙句無理やり襲おうとするなんて、俺って先生が付き合った過去の男と変わらないじゃないか。なにが百年経っても好きでいる、だ。一年だって一緒に居る資格なんか無い。