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涙が生まれるのを聴きました
花巻くんは、二年生の時から付き合っていた黒田さんと別れた。花巻くんから別れを切り出したのだと言う。黒田さんはきっと、すぐには納得しなかったに違いない。私を恨んだのではないだろうか。花巻くんだって、黒田さんの事を嫌いじゃないなら別れない方が良かったのでは?
そう思っているはずなのに、花巻くんから「仲直りしてくれますか」と言われた時に心が凄くあたたかくなった。
本当は私、ちっとも諦めていなかったのだ。花巻くんへの気持ちを。平穏な学校生活を送る代わりに好きな人を諦める、そう心に決めたはずだったけど、同じ空間に居るのに目も合わせられないのは苦しかった。同じ曲を好きなのに共有できないのは悲しかった。名前を呼んでくれるのに、笑顔で返事ができないのは嫌だった。
「おはよう」
週明けの朝、朝の挨拶をしたのは私からだった。短い期間だったとはいえ無視してしまったり、花巻くんには嫌な思いをさせてしまっただろうから。
花巻くんは私のほうからいきなり声を掛けられるとは思わなかったらしく、しばらく目をぱちぱちをさせていた。だけどゆっくり口を広げて、ほっとしたように一言。
「…はよ!なんか懐かしー」
にっこり笑った花巻くんの顔を真正面から見るのは久しぶりで、彼の言うところの「懐かしい」感じがした。
周りで聞いていたクラスメートは、どうして私たちの挨拶が懐かしいのか分からないだろう。二人だけの秘密というわけじゃないけど、二人にしか分からない事だ。
「ねー、花巻くんさ、黒田さんと別れちゃったらしーよ」
席につくと友だちがそのような耳打ちをしてきた。未だに黒田さんの名前を聞くのは緊張する。でも今はそれより、彼らが破局したことをもう皆が知っているのだと思うといたたまれない気持ちになった。
「そうなんだ…」
「仲良かったのに意外だよね」
「ね」
申し訳ないけど、この話題については適当な相槌で返しておいた。クラス内でそんな事を話されるのは花巻くんにとって、気分のいいものではないだろうし。それに私はこの事を聞いて、ひとつの決意を固めたのだ。
◇
昼休みの事、私は友だちと早々にお弁当を食べ終えて席を立った。トイレじゃなくて、人を尋ねるためである。
「あのー…」
他のクラスに入るのは勇気が要る。ここには仲のいい人もいないし。だけどどうしても会わなきゃならない人がいて、私は入口付近に立つ生徒に声をかけた。
「黒田さんいますか」
すると、「黒田さーん」とすぐに呼んでくれた。その時少しだけこちらに注目が集まってしまい縮こまる。そして近づいてきた尋ね人の顔が無表情だったのもあり、ますます私は小さくなった。相変わらず黒田さんは可愛いけれど、今でも怖い。
「何?」
「えっと。…こっち来て欲しい」
私のお願いは断られるかと思ったけれど、ここで長話をしたり揉めるつもりはないらしく。黒田さんは無言で頷き、私の後ろをついてきてくれた。
向かった場所は在り来りだけど屋上である。ここは立ち入り禁止だし、時々それを破って昼休みを過ごす生徒も居るけど今日は大丈夫。昨晩から今朝にかけて降った雨のせいで、屋上の足元が濡れているからだ。
「ゴメンナサイ…」
先に屋上に足を踏み入れたのは黒田さんで、濡れた足元をぺちゃ、と言わせながら歩いて行った。その背中に私が謝罪の言葉を投げると、黒田さんは向こうを向いたまま言った。
「それは、何に対してなの?」
小さい時、親に悪戯についての謝罪をした時を思い出す。今回は私の非ばかりが目立つので、一体何から言えばいいのやら分からない。
「…私が花巻くんのこと好きなのを隠せなくて…で、黒田さんに嫌な思いさせたのと…あと、あの…たくさん」
思いつく限りのことを謝りたいけれど、多すぎてうまく言葉にできない。黒田さんは最後まで聞こうとしていたけど私が言葉に詰まってしまったので、半ば呆れたように言った。
「聞いたんでしょ。振られたって事」
ぴくっと自分の口元が固まるのを感じた。彼女の言う通り、知っているから。しかも花巻くんから聞いてしまったから。
そして、花巻くんは否定してくれたけど、二人の破局は私の言動がきっかけなのだと分かり切っているからである。
「言っとくけど、べつに白石さんのせいだとは思ってないから」
ところが黒田さんはこの場で私にビンタでもするのかと思いきや(実際、される覚悟を持って呼び出したから)、そんな素振りは見せなくて。それどころか私を責めようとはせず、思わず拍子抜けした声が出た。
「…えっ?」
「そりゃあ!あなたの事チョーーームカツクって思ったよ。なんで私が貴大と付き合ってるのを知っててヘラヘラ喋ってんのって思ったよ。仮病まで使ってさ」
「え、」
全身の血液がひゅっと冷えたような感覚。いつだったか花巻くんに心配してもらうのが嬉しくて、優しくしてもらいたくて使った仮病に、やはり彼女は気付いていたのだ。あの時に感じた黒田さんからの恐ろしい気配は本物だったのか。
「…気付いてたの」
「勘だけど。やっぱり仮病だったんだ」
「……」
「もう終わった事だけどさ…」
また、ぴちゃぴちゃと。黒田さんが歩く度に鳴る水の音は、まるで彼女の涙の落ちる音にすら聞こえた。
「でもさ、私、他の事も色々強く言っちゃってたから。他の子と仲良くしてほしくないって言うのは常々言ってたし、喧嘩も時々してたよ、白石さんの事以外でも」
それから、ぽつぽつと話す黒田さんの姿は初めて少し小さく見えた。
黒田さんはいつも明るくて元気で、リーダーシップもあるし何より可愛い。クラスの違う私ですらそう感じるのだから、他にも魅力はたくさんあるはず。だけど、そんな黒田さんも花巻くんと別れる恐怖を抱えてて、不安や不満をぶつけて喧嘩をする事があったんだ。
「…それに、白石さんが貴大のこと怒ったんでしょう」
黒田さんはようやく私の目を見て言った。
「怒ったと言いますか…ちょっと差し出がましかった…かも」
花巻くんを怒ったと言うよりは、自分の気持ちを一方的にぶつけただけだったから。花巻くんに優しくされたり誤解されるのが嫌だったせいで。でも私、本当に黒田さんの事は羨ましかったけど、邪魔だとは思った事が無かった。凄い人だなって思ってたから、花巻くんに黒田さんの事を誤解して欲しくなかった。
「白石さんの事は全然好きじゃないけど。嫌いではないよ」
声は低いままだったし目は怖いままだったけど、黒田さんはそう言ってくれた。
「…私も黒田さんの事、好きじゃないけど嫌いでもない」
「あっそう」
「あ、でも、尊敬はしてるから…」
「…きもちわるい」
「す!すみません」
「いいもん、もっと良い人すぐ見つけるし」
黒田さんが屋上のドアへと歩いていく。あまりに早足だったので、わざと私に顔を見られないようにしてるのかなと思えた。そして屋上を出る前に、ドアノブをぎゅっと握り締めた。
「すぐだからね。貴大より良い人と付き合って、良い女になって、あいつ見返してやる」
錆びたドアはキィッという音を立てて、ゆっくりと閉まった。
黒田さんがその気になれば素敵な彼氏がきっと出来る。私がそれを言うのはあまりにも無神経だから黙っていたけれど、恐らくこれから先、黒田さんを好きになる男の子は沢山現れるだろうと思えた。
とにかく、これを持って「花巻くんと黒田さん」というクラスでもわりと有名だったカップルの関係は終了し、私も目に見えないもやもやが晴れたような気がした。