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効き過ぎたスパイスは毒


その日は俺にとって特別な日となった。朝から晩まで色んな事が起きすぎて、もう頭はくたくた。順を追って説明してくとまずは朝、川西からの報告を受けた。「白石先生、今日来てくれますよ」と。


「…え。今日?」
「今日です。昨日までは授業があったので来られなかったって」


川西が白石先生を試合に来るよう誘ってくれるというのは聞いたけど、その結果までは聞いていなかった。俺から「ねえねえどうなった?」と聞くのは癪だったから。
だけどまさか、いきなり今日だとは。何を隠そう今日は春高予選の決勝戦なのだ。来てくれているかどうかを気にする必要は無くなったけど、今度は客席のどこに座っているかが気になってしまうじゃないか。

だけどスイッチの切り替えには自分でも感心したもので、試合が始まると白石先生の存在は二の次になった。そのぶん集中して集中してやり切って、結果は負けてしまったのだけれど。この「決勝戦で負けた」というのが、今日の出来事パート2である。
試合で負けた事や部活を引退する事に関しては、時間の許す限り色々な事を話せるけれど割愛する。俺が白鳥沢で過ごした三年間を、ほんの何行かにおさめるなんて到底無理な話であった。

それに試合が終わった今、俺の頭を支配するのは白石先生の事。無理やり考えないようにする事も出来たかも知れないが、目の前に本人が現れたんじゃあ仕方ない。


「……お疲れ様でした」


学校をあげて応援されている強豪の運動部が、県予選で敗北する瞬間を見たのは初めてなのだろうか。白石先生はかなり意気消沈していた。まあバレー部が負けたせいじゃなくて、相手が俺だからかもしれないけど。


「応援、ありがとうございました」


俺はわざと他人行儀な返しをした。
先生は頷くだけで何も言わない。次の言葉を考えているのかもしれない。俺が凹んでいるかもって思ったら、安易な言葉は言えないだろうから。しかも俺はつい先日、先生に告白したばっかりだ。今は必死に俺を振るための言葉を選んでいたりして。


「かっこ悪かった?」


先生がずっと無言なので、俺は意地悪な質問をした。どうしてこんな質問をしたのかと聞かれれば、まだ負けた悔しさを消化できていないから。八つ当たりだ。ひどいやつ。


「そんな事ない」


だけど優しい白石先生はすぐに答えた。大体分かっていたけれど、そんな言葉を言われたって嬉しくもなんともない。


「かっこ悪かったって言ってよ」
「言えないよ。言わない」
「じゃあ、かっこいいって思ってくれてるの?」


困らせるだろうと分かっているのにこの質問。つくづく最低なやつだと思う。


「…分からない」


案の定先生は俯いて、ぽつりと答えた。
先生の中で俺は異性のくくりでは無いのだ。良くて「男の子」、対等な存在として見られていない。俺は先生を立派に女性として接しているのに。


「俺は先生のこと本気で好きだよ。エッチさせないからって別れるようなクズでもないし」


今日の俺は気持ちが安定していない。こういう時に感情任せになるのは良くない。分かっているけど勝手に口が動いていた。白石先生の元恋人を貶す言葉が、息をするように出てきたのだ。先生はそれを聞いて怒りはしなかったものの、柔らかく否定した。


「それは…私が原因だから。なかなか心を開けなくて、そのせいで愛想つかされちゃっただけで」
「違うんだってば」


先生の口からあいつを庇うような言葉を聞くのは死んでも嫌だ。俺は先生の声を遮った。言わないほうが良いだろうと思っていた事を、思わず言ってしまった。


「先生、あいつ浮気してたんだよ」


俺が偶然英太くんと外に出ていた日の事。白石先生の恋人はいつもの車に乗っていたが、隣に居たのは別の女だった。思わず目が釘付けになった俺はずっと見ていたのだ、彼らが幾度となく唇を合わせて、座席を後ろを倒すまで。


「……え…嘘」
「嘘じゃない」
「なんで…え…嘘、知らないそんなの」
「上手くやってたんでしょ。悪そうな男だったじゃん」


とても醜い事を言っているのは自分でも分かっていたが、止まらなかった。これじゃあどっちが悪役だか分からない。


「…知ってたの?」


先生は未だに信じられないといった様子で、瞳がゆらゆらと揺れていた。気を抜けば大粒の涙が出てきそうなくらい。過去の浮気を知って泣いてしまうほど好きなのかよ、まだ。


「たまたま見たの。一回だけ、知らない女と車でイチャついてるところ。黒い外車だよね」
「………」


それから俺は先生の元彼について、身体的特徴をいくつか挙げた。背が高い事、普段スーツである事、髪色は黒で肌は白い。バックミラーにぶら下がっているストラップはどんなのだった、そこまで言えばもう充分のようだった。「もういい」と首を振り、先生は俯いたまま口を開いた。


「…それ…知ってて…私に、黙ってたんだ」


途切れ途切れに聞こえる声は震えていた。そんなもの、とてもじゃないけど言えるわけが無いではないか?俺は偶然目にしただけだし、先生に言えばどうなるか目に見えていたから。


「言ったら先生が傷つくと思ったから」


傷つくところは見たくなかった。知らないほうが幸せな事だってある。そう思って黙っていたのだ。


「どうして教えてくれなかったの」
「先生が悲しむとこ、見たくなかったから」
「隠し事されてた今のほうが悲しいよ!言ってくれればその時に話し合えたかも知れないじゃん!」


それなのに白石先生は、この期に及んでこんな事を言うのだ。先生が憧れていた仕事、慣れない仕事に一生懸命打ち込んでいるあいだ、他の女と浮気していた男と「話し合えたかも知れない」なんてお花畑にも程がある。話し合ったとして結果は変わらない。「面倒くさい女」「気付かれた、もういいや」そう思われて終わりだ。それは俺が耐えられない。


「先生分かんないだろうけどさ。俺だってよっぽど悲しいよ」


自分の声が普段よりも低く思えた。そのせいかは分からないが先生が一歩ずつ後ずさっている。今の俺、そんなに怖い?いや、無意識のうちに俺は先生に近寄っていたのだ。一歩ずつ一歩ずつ、壁際へ追い込むように。だってもう止まらないから。


「なんで俺の好きな人が、そんなやつに遊ばれなきゃいけないわけ?なんでヒドイ事されてたって分かったくせにそんな事言うの?俺の前で。俺の気持ちを知ってるくせに」


どさっと鈍い音がした。先生の手から鞄が落ちた音である。だけどそんなの気にする余裕のない俺は両手のひらを冷たい壁に押し当てた。腕の間で縮こまる白石先生は鞄を拾おうとする素振りも見せない。どうやら動けないようだった。俺と真っ直ぐに目を合わせたまま。


「……」


怯えているか引いているか怒っているか、白石先生の瞳は様々な色が揺らいでいた。
先生なら先生らしく俺を指導すればいい。教師に向かってその口の聞き方は何だ、その態度は何なのだと言えばいい。そして俺を生活指導室でもどこへでも送ればいいのだ。馬鹿な事を言うな、教師の私情に口を挟むな、負けたからって荒ぶるなと。それが言えないのは俺の身体が満員電車みたいに密着しそうで、先生の防衛本能を刺激しているせいかもしれない。


「本気だから、俺」


それだけ言うと、俺は壁を押し返してその場を離れた。もう白石先生の近くには居たくない。先生が別の男と付き合っていた過去をやっと忘れられると思っていたのに。今日は本当に最悪の日だ。大事な試合には負けるし、もう最悪。