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禁じられたら甘くなるセオリー


学校のテストは大っ嫌いだ。定期テストも実力テストも模試も小テストも抜き打ちも何もかも。好きなのは体育の実技テストくらいである。なるべくならペンを握る回数を減らして生きて行きたい…というのは言い過ぎだけど、とにかくそれほど嫌いだったテストを頑張る理由はひとつなのである。
自分のため?まあ、それもあるかも。だけどいくら自分のためになるからって勉学に励もうとは思わない。他人のためじゃないと。それも超超トクベツな他人。


「上出来じゃん」


返ってきたテストを見てこんな言葉が出たのは初めてかも知れない。どこからどう見ても上出来だ。日本史の中間テストで九十点。小野先生も返却の時、「一体どうした」と驚きながらも褒めてくれた。
どうしたもこうしたも、今年から入った白石先生のプライベートレッスンのおかげですよ。と喉まで出かけたけれど我慢した。

自分はやれるだけの事をやった。あとは他のやつの結果を確認しなくては。世界史を専攻している知り合いも居るっちゃ居るけど、受験生に向かってテストの出来栄えを聞くのはさすがの俺でも憚る。というわけで後輩の点数を聞くことにした。


「太一、テストどうたった?」
「え?…いや、まだ全部返ってきてないすけど」
「世界史は?」


最初は怪訝な顔をしていた川西だけど、そこまで聞くと理解したようだった。何故俺に世界史の点数を聞かれているのかを。


「そこそこですよ。良い点数です」
「平均点以下じゃないだろな」
「ないですってば、ほら」


わざわざ鞄の中を漁って、川西が答案用紙を出してくれた。
書かれた赤い文字は間違いなく「良い点数」と言える。こいつ、頭が良かったのか。それとも白石先生の事を気にして頑張ったとか。または俺に聞かれるのを想定していたのかも。いずれにせよ先輩として褒めてやらねば。


「フンフン、よくやった」
「返してくださいって」
「ハイ。あっ」


川西にさっさとテストを返して、次に目に入ったのは一年生の五色工だ。これから着替えようとしているところ悪いけど、どうしても気になるのでそばに寄って聞いてみた。


「つとむ!世界史何点だった」


すると五色も顔をしかめるかと思ったけれど、口が裂けそうなほど大きく広げてニコリと笑ってみせた。よほど出来が良かったらしい。


「世界史ですか!一番自信がある教科ですよ」
「ほー」
「白石先生、いつも優しいですから。いい点とってお返ししないとですから」
「イイ心構えだね」
「そうでしょう!」


そして、「見せて」とも言っていないが自らテストを取り出した。書かれている点数は、なるほど確かに文句無し。こいつも頭が良かったのかな。もしかして俺が思っているほど要領は悪くないのかも。

ひとまずこれで、白石先生は決して駄目な教師では無いことが判明した。教えた生徒がテストで良い点を取ったのだから。祝杯をあげなくちゃ。


「せ〜ん〜せ〜い」
「わ」


夜、職員室には誰も残っていなかったからもしかして、と思ったらやっぱり居た。資料室の奥に一人、座って仕事をしている人が。


「ここに居たんだぁ」
「わわ、ちょっと待って!ちょっと待ってね、マルつけしてるから」


俺が近付こうとすると、白石先生は片手で俺と距離を取ろうとした。
拒否された、ってショックを受けそうになったけどそうじゃない。まだ返却していないクラスの、中間テストの採点をしているようだった。他人の点数が見えてしまうのは確かによろしくない。俺だって見られたくないし。


「…ああ。ゴメン、出直そっか」
「大丈夫だよ。どうしたの?」


キリのいいところまで終えていたのか、先生は俺を帰そうとはしなかった。それならばとお言葉に甘えて、後ろ手に持っていた紙をゆっくりと身体の前に出した。日本史のテストである。


「じゃん。テスト」
「わあっ!」


座っていたはずの先生は勢いよく飛び上がって、一瞬にして窓際から俺の真ん前に来た。テスト用紙を覗き込むようにして(紙に先生の鼻がくっつきそうでドキッとした)、右下の数字を確認した瞬間にガバッと身体を起こす。それから両手で俺の肩を掴み、サンタクロースでも見つけたかのように目を輝かせた。


「凄い!こんなに得意だったの!?」


俺の人生を振り返ったところで、一秒たりとも勉強が得意だった時期はない。だけど思わず頷きそうになるほど、白石先生の目はきらきらしていた。


「…得意じゃないよ。白石先生が教えてくれたからだし」
「うわあぁ〜」


先生は俺の肩から手を離してガッツポーズをしたり顔の横でヒラヒラしたり、興奮のあまり両手の行き場が分からなくなったようだ。
喜ばせたくて頑張ったはずなんだけど、こんなに喜ばれるとは思わなくてなんだかむず痒い。そこでタイミングよく別の事を思い出した。世界史の授業を受けている可愛い可愛い後輩である。


「そういえばさ。川西も五色も世界史のテスト、よかったんでしょ」
「うん。二人とも頑張ってたから」


そりゃあ本人たちが頑張ってたのもあると思うけど。俺が言いたいのはそういう事じゃなくて。


「それって、先生の教え方が良かったからじゃないのかな〜って」


この間、自分は教師に向いてないって悩んでたけど。誰もそんな事は思っていないと思う。少なくとも授業を受ける生徒は。というか人間なんだし一年目なんだし、全てが上手くいくわけが無いのだ。


「…ありがとう。私も最近やっと、ちょっとだけ自信がついてきたところなんだ」
「ちょっとだけなの?」
「うん。ちょっとだけ。これくらい」


と、先生は親指と人差し指のあいだにほんの数ミリ程度の隙間を作ってみせた。謙遜なのか本気なのか。本気かな。


「先生はさあ…自信持っていいんだよ」
「そうかな?まだまだ」
「イイ先生なんだから」


だからもう少し胸張れば。そう続けようとしたんだけど、続きは出てこなかった。何の気なしに言った台詞だったのに、白石先生が言葉を失っているではないか。それだけでなく口や目を開いたまま動かないので心配になり、今度は俺が先生の顔の高さまで屈んでみると。


「……やだ、ちょっと見ないで」


そう言って、白石先生がしっしっと俺に離れるように合図したのだ。
これは拒否されてるわけではない、というのはすぐに分かった。俺が離れようとはしないので、自ら後ろを向いて顔を覆っている。その表情は、窓に映っているおかげでなんとなく見えた。


「泣いてんの?」
「違、」
「にやけてんの?」
「だ…だって嬉しいんだもん、イイ先生とか言われるの初めてで」


そう、白石先生は笑っていたのだ。あまりの嬉しさで顔がゆるゆるになっていたらしい。夏休みの後に自分のせいで先生を怒らせたり悲しませてしまった俺は、ようやく俺の力で笑顔にする事が出来たとホッとした。
単純に嬉しい。先生に喜んでもらえて。もっと先生を喜ばす事ができるのに、俺が生徒という立場でなければ。


「天童くんも、イイ生徒さんだね」


だから先生が言ってくれたこの言葉は本来なら名誉なはずなのに、全く喜びを感じなかった。むしろ落胆、何故このタイミングで「生徒」という単語を口にするんだと責めたくなるほど。


「…どうしたの?」


急に黙り込んだ俺を不思議に思って、白石先生が首を傾げた。
なんでもないよ別に。
心の中では一生懸命そう唱えていたけれど、俺の脳は唇への命令伝達を忘れてしまったようだ。思ったままの言葉を口にしてしまった。


「俺、今までずっと黙ってたんだけど」


先生は「うん」と話を聞く気満々だ。今ならまだ話すのを止められる。だけどどうしても止まらなくって、皮肉なほど滑らかに声が出てきた。


「イイ生徒って思われるの、嫌なんだよね」


もうずっと、教師と生徒という関係から抜け出せればいいのにと思っている。「イイ生徒」なんて俺にとっては嬉しくとなんともない、むしろテンションがた落ちの言葉なのである。


「どういうこと…?」
「イイ生徒とか、そういうので終わりたくない」


先生はいつの間にか窓のすぐ前に立っていた。俺が一歩ずつ進んでいるせいで、窓際に追いやっていたようだ。もう行き止まりなのに俺は、口も足も止まらない。


「俺…俺、今から軽蔑されること言うね」


窓に背中がべったりと張りついた先生は、首を傷めそうなほど俺を見上げていた。俺が先生から目を離さないせいで、視線を逸らすタイミングを失ったのかもしれないが。


「何?…なにか悩みがあるなら…」


ようやく先生は手のひらで俺を押し返そうとした。このままだと、窓と俺にサンドイッチにされてしまうから。
悩みがあるなら言えって、もう俺はずっと前から同じ悩みを抱えているのに今更打ち明けたところで何か変わるのかな?変わるなら言おうか?言ったら喜んで受け入れてくれるのかな、「イイ生徒」の俺を。


「先生のこと、ずっと女の人として好きだよ」


答えはやっぱりノーだった。白石先生は俺の発した言葉の全てを理解するのに時間がかかったようだけど、その後もただ困ったような戸惑っているような表情だけを浮かべていた。何も言わずに。
でも、それで良かったかもしれない。もしも拒否する言葉を言われれば俺は立ち直れなかっただろうし。だから俺は先生からの答えを聞かないまま、自らその部屋を出たのだった。