09
僕らなりのそれなりエンド


「すみれちゃん、本当に明日も来てくれるの?」


箒で床を履きながら言ったのは、私のおばさんだ。アルバイト先の喫茶店を営む店長。もともと今週の日曜日は休みたいと伝えていたのに出勤すると言い出したから、驚いているらしい。
明日は本当はバレー部の試合を見に行く予定にしていたけれど、やっぱり行かない事にしたのだ。理由は言わずもがな、花巻くんとの関わりを極力無くすため。


「うん。予定なくなっちゃって」
「そう?お店としては嬉しいけど…」


私が出ればお店は助かる。小さなお店だからおばさん一人で回せるといえば回せるけど、誰かもう一人居た方がいい。叶わない恋のためにアルバイトを犠牲にして応援に行くなんて無駄だ。
だから、試合の応援には行かない事にした。応援に行くか行かないか、これまでの数年で何度悩んだ事だろう。もう行かないって決めていたのに今回は浮かれて「行く」と言ってしまい、結果キャンセルしてしまった。

なんとなく開いたスマホのSNSでは『明日から大会!』と笑うバレー部の写真が。花巻くんもその中に写っている。頑張ってきてね、私は行かないけれど、と念じながら私はSNSのアプリを閉じた。



日曜日、青城バレー部は無事試合に勝利したようだ。強豪だからいつも準決勝あたりまではスムーズに進んでいる。それは観戦に行かなくても皆が知っている。だから週明けの平日、教室内でこんな会話が聞こえてくるのも珍しい話ではない。


「バレー部勝ち進んでるって?」


クラスの誰かが花巻くんや、他のバレー部の人達に話しかけていた。
去年は花巻くんとクラスが違ったけれど、勝ち続けるバレー部への応援ムードや声掛けは同じように行われていた。今年は最後のインターハイだし花巻くんが堂々のレギュラーだという事もあり、盛り上がり方は去年より大きい。


「おー。今んとこね」
「今回は優勝しろよー、応援行くから」
「ドモドモ。まあ最後に超強豪の難関があるんだけどなー」


そんな事を言いながら花巻くんは笑っていた。大会、緊張してないのかな。
彼の言う「超強豪」というのは、いつだったか県内にバレーの強い高校があると聞いたので、その事かも知れない。
花巻くんならきっとそこにだって勝てるよ、だって花巻くんだもん。私の好きな人。頑張って欲しい。私の応援なんかあっても無くても関係ないだろうけど。


「でも昨日の貴大、ちょー凄かったんだよ!みんな決勝だけじゃなくて途中の試合も見て!」


そこに聞こえてきたのは、黒田さんの声である。彼女は昼休みが始まってから少ししてこの教室にやって来ていた。花巻くんが居るからだ。もしくは私が居るから?
…なんて考えたくはない。とにかく黒田さんが居るこの教室から出るか出まいか考えたけど、タイミングを逃してしまったのだ。
まあいいや。目の前に黒田さんが居れば、花巻くんは私に構うことは無いだろう。


「なー、白石さん」
「えっ!?」


それなのに、前の方に居る花巻くんがぐるりと後ろを振り向いて私に話しかけて来た。
周りに居た何人かも同時にこちらを向く。もちろん黒田さんもだ。
その目には私への憎らしさ、怒り、悲しみ、一瞬にして色々な感情が宿った事なんて花巻くんは気付いていない。


「おばさん大丈夫?」


私になんの用だろう。そう思っていたら花巻くんの口から出たのは「おばさん」という単語であった。
一瞬なんの事を言っているのか分からなくて首を傾げそうになったけど。アレだ。私が嘘をついたからだ。喫茶店を営むおばさんの体調がよくないから、試合を見に行く事は適わないと。それを彼は覚えていたんだ。


「へ……あ、うん…」
「そっか。よかった」
「うん……」


私の親戚の事まで覚えていて気に掛けてくれるなんて。喜びたいのに喜べない。
同じ空間に黒田さんも居るのを分かっているはずなのに、どうしてわざわざ私に声を掛けてくるのだ。黒田さんの瞳が光るのを、彼は感じていないのか。心配したとおり、すぐに花巻くんの後ろから黒田さんが顔を出した。


「おばさんって何」
「うん。白石さんのおばさん!こないだ俺が寄ったじゃん、喫茶店してんの」
「それが?」
「体調崩してるって言うからさ」


花巻くんは当たり前のように説明しているけど、それが彼女の神経を見からに逆撫でしている…ように見える。悪気が無いのがまた残酷だ。私にとっても黒田さんにとっても。
多少不自然に思われても構わないからこの場を去ろうと、私は口を開いた。


「……私、」
「あ。奈々、お前次の授業移動教室じゃなかったっけ?」
「え?」
「そろそろ行かなきゃだろ」


私が「トイレに行く」とか適当な事を言う前に、花巻くんがこんな事を言った。彼女である黒田さんに、自分の居るべき場所へ戻るようにと。

何も知らない人が聞けばごく自然な会話。だけど、私と黒田さんの耳には特別な意味として聞こえた。今、花巻くん・黒田さん・私の三人で固まっているこの場所から、黒田さんだけに抜けろと言うのは爆弾発言だ。もちろん黒田さんは首を横に振った。


「…まだ大丈夫だし」
「行っとけって。田村センセーは遅刻にうるさいってボヤいてたじゃん」
「………」


その場に留まろうとする黒田さんを、笑い声を交えながら行かせようとする。
黒田さんは否定する理由が浮かばなかったのか、この仕打ちに耐えられなくなったのか、可愛らしい顔がだんだんと怒りに染っていく。
それから「あっそ!」と言い捨て、わざと花巻くんの机にぶつかってから出て行ってしまった。


「なんだあいつ?」


ぽかんとその様子を見送る花巻くん。本当に気付いていないようだ。私が花巻くんを好きな事も、そんな私を黒田さんが敵対視している事も。
さすがに黒田さんの気持ちを思うと私の心まで痛くなった。だけど当の花巻くんは相変わらずだ。


「…でもさ!白石さんバイト忙しいんだもんな。無理しなくていいから!来て欲しいけど」
「……うん…」


今はこんな明るい言葉も苦痛でしかない。私は無意識のうちに浮かない顔をしていたらしく、花巻くんからはだんだんと笑顔が消えた。心配そうな表情へと変わって行ったのだ。


「どしたの」
「……ううん」


私は首を振ったけど、こんなのでは誤魔化せない。今の私はどう頑張っても自分を取り繕うことが出来なかった。それはきっと、これから先も。花巻くんが私に対して仲良くしようとすればするほど。
だから私はもう、これを機に線引きをしたほうが良いのではないかと思えた。


「ごめん、私の事はもう…あんまり気にしなくていいから」


どうせこのままでは私も傷つき、黒田さんも傷付いてしまう。それならば黒田さんだけでも幸せなほうが良いんじゃないか。両想いなんだから。


「…どういう事?」


花巻くんは私の言葉を黙って聞いていたけど、理解はできなかったらしい。いつもの元気な声ではなく、とても低い声で静かに言った。花巻くんのそんな声を聞くのは辛いけど。このまま過ごす方がもっと辛い。


「あんまり私に、話しかけないほうが…いい、と、思う」


なんとか目線を合わせないように、私は目線を動かした。そうしなければいつ花巻くんと目が合って、そのまま動けなくなるか分からないから。現に花巻くんにはさっきまでの元気さは無く。


「なんで?」


ただただ私に、この奇妙な状況について説明を促そうとしているようだった。
だけどそんなの言えるわけなくて、私はさっき使おうとしたトイレ作戦に出る事にした。「ごめん、ちょっと」と立ち上がり、花巻くんの横をすり抜け廊下に出て、女子トイレまで一直線に向かおうとしたけれど。


「白石さん、待って」


花巻くんが私を追い掛けて、教室を出てきたのだ。私を追いかけたって何の得も無いというのに。それよりさっき険悪になった黒田さんとの仲直りをどうするか、考えていればいいのに。


「ごめん、私トイレ行くから」
「奈々になんか言われた?」


その声で私の足は止まってしまった。私と黒田さんとの間にあった事を知っているのだろうか?


「あいつ前からちょっと嫉妬深いとこあって…けど俺、トモダチ関係とか変えるつもりは無いからって言ってたんだけど」
「……」
「もし何か言われたんなら、気にしなくていいから」


花巻くんは私と黒田さんがどんな気持ちで居るのかを知って、それでも交友関係を保ちたい、と思っているわけではないらしい。私たちの気持ちは全く分かっていないのだ。黒田さんが勝手に私に嫉妬してると思っている。
そうじゃない。私は花巻くんが好きなのだ。黒田さんだけが悪者なんじゃない。


「…そうじゃないよ。言われてない」
「じゃあ何で?俺、なんかした?」


更にはこんな斜め上の質問をしてきた。
花巻くんは、誰にでも優しい。だから好きになった。でも、今はそれが仇となっている。彼女以外に女の子には必要以上に優しくするべきではないのに、彼はそれを分かっていない。好きになった私の負けだと言われれば、それまでだけど。これを解決する方法はひとつしかない。


「…ごめんなさい。もう私に話しかけないでほしい」


私のほうから花巻くんとの関係を完全に切る、完璧に絶つことだった。これ以上黒田さんを傷つけてはならないし、優しくされたって私自身も悲しくなるだけ。それならもう、私には構わなくっていい。

それが花巻くんにとっては到底理解出来なかったらしく、何かを言いたげにその場に立ち尽くしていた。
私はトイレに行くからと、花巻くんの視線から逃げて背を向ける。こうするしか方法は無いのだった。花巻くんの事を嫌いになるのは無理だから。好きでいるためには関わらない。最も馬鹿らしくてちぐはぐで、正しい選択なのである。