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あらゆる毒からの救済


白石先生が不器用な人だというのは、初対面から分かっていた。白鳥沢は確かに広くて入り組んでいるけど、渡り廊下のド真ん中で地図を片手にキョロキョロする姿は今でも覚えている。その人が新しく来た先生だと知ったので、良い関係を築こうと思った。先生に好かれていれば学校生活が何かとスムーズに進みそうだから。
中学の時はそんなの考えてなかったけど、高校で身に付けた知恵ってやつだ。とはいえお気に入りの先生にしか媚を売ってはいない。

その白石先生は頑張り屋で、今のところ生徒とは上手くやっているように見える。三年生の授業を担当していないのは残念だった。まあ授業なんか無くたって、白石先生と一緒に過ごす時間を手に入れたわけだけど。


「白石せんせー」


俺はルンルン気分で職員室へ向かった。あれから白石先生は失恋を乗り越えたのかは不明だけど、元の元気を取り戻して仕事に励んでいるからだ。元々やる気満々だった人なので、更に張り切っている感じ。
ただちょっと心配なのは、それが空回ってないかなって事である。


「もうすぐ中間だからさ、ちょっと教えて欲しいんだけど」


白石先生の真後ろまで言って声を掛けた。生徒が勉強の教えを乞いに来るほど素敵な先生なんだぞこの人は、という周囲へのアピールも含めて。
中間テスト、一人で勉強しても赤点はとらないだろうけど、どうせなら良い点を取りたいし。白石先生と一緒の時間を過ごしたいし。そろそろ仲を深めて距離を縮めたいし。
しかし先生はあまり顔色が良くなくて、散らかった机の上を漁りながら答えたのだった。


「あ、うん…ゴメン、ちょっと待って」
「おっけーい」
「天童!何だその返事は」
「んっ?」


突然俺と白石先生の会話に入ってきたのは、白石先生の向かいに座る人だった。
げ、この人、去年生活指導みたいなのをやっていた気がする。何回か注意された記憶がある。名前。覚えられちゃってたらしい。そして今、俺の白石先生に対する言葉遣いが不適切だとしてまたもや注意されてしまった。


「…分かってますよぉ」
「語尾は伸ばさない」
「分かってますってば」


そう言うと、その先生はやれやれといった様子で立ち上がった。俺もやれやれだ。それからどこかに消えたかと思うと、今度は教頭が近付いてきた。ヤバい、俺、教頭にまで注意されんの?


「白石先生、今日はこのあと職員会議ですからね。今朝のような事はダメですよ」
「はい……」


そのまま去っていく教頭。消えて無くなりそうなほど弱々しい白石先生の声。と、顔。これはまた良くない事でもあったのだろうか。


「…今朝のような事って?」


周りの先生に聞こえないように聞いてみたけれど、白石先生はゆっくりと首を振るのみだった。明らかに元気が無い。でも彼氏に振られた時のそれとは質が違うような気がする。


「ごめんね天童くん、今は難しそうだ」
「…うん。職員会議?」
「そう」


先生は頷きながら、会議に使うための筆記具などを用意し始めた。
一度は元気を取り戻したように見えたのに、何日か経ってまたこの調子。一体どうしたんだろう。他の先生に注意されるほどだなんて。

だけど今は「わかった」と告げるだけにして、俺は戻る事にした。放課後また、見に来よう。白石先生は遅くまで残っているかもしれないから。



それから五時間、あるいは六時間が経過してからの事。
俺の予想は当たった。自主練を終えて職員室まで様子を見に来たら、白石先生が残っていたのだ。だけどちょうど荷物を持って職員室から出てきたところであった。


「オツカレー」
「……てっ…!?」


俺が声をかけると先生はびっくりしてて、自分の口から出た大声にも驚いて口を塞いでいた。


「な、え…?ずっと待ってたの!?」
「まさか。ちゃんと部活行ってたよ」


まあ、この時間なら白石先生が帰るギリギリかなっていうのは狙っていたけれど。「待ってた」のはあながち間違いではない。
それよりも、タイミングを狙ったとはいえ今はもう真っ暗。白石先生はいつも帰りが遅いのだ。


「またこんな時間まで残ってたの?」


俺がそのように聞くまでは職員用の下駄箱まで向かっていたけど、先生は足を止めた。


「……私、向いてない、かも」
「え」


声が小さくて聞き取りづらかった、ってのもあるけれど。先生の口から、教師という仕事に対して後ろ向きな発言をされるのが信じられず、思わず聞き返してしまった。


「朝礼で、私、ぼーっとしてて…怒られて…授業中も、生徒に呼ばれてるのに気付かなくって…授業、分かりにくいって言われて」


昼休みに教頭の言ってた「今朝のような事」って、それだったのか。先生たちは毎朝集まって朝礼をしているらしいってのは聞いた事がある。その場で怒られるなんて精神的には良くないに違いない。

それよりもショックだったのはきっと、受け持つ生徒から「授業が分かりにくい」って指摘されてしまった事だろう。白石先生は白鳥沢に来てからずっと夜遅くまで居るイメージがある。俺が時間を奪っていたから?でも、それをナシにしたって白石先生は遅い。言いたかないけど要領が良くないのだ。積もり積もって今、頑張りが裏目に出ているのでは?


「それは、単に疲れてるからじゃないの」
「疲れてても、それを人前で出すのは駄目なの!分かってるのに」


先生の鞄が床に落ちた。重そうな音だ。まさか家に帰っても次の授業の事を考えたりして心が休まってないのかな。教師ってそんなに大変なのか、白石先生が偶然そうなのか。


「振られたのも、そりゃ、正直立ち直ってないけど…最近授業もなんだか、手応えなくて不安で」


よろよろと先生の身体が揺れ始めて、良くない状態だなって思えた。先生の涙を見るのはこれが初めてでは無いが。


「………どうしよおぉ」


そのまま白石先生は、その場にうずくまってしまった。
幸い、いつもの事だけど他の先生はもう居ない。もしかしたら体育教員室に他の部の顧問が居るかもなっていう程度。だから、泣いてる先生を生徒の俺が介抱したからと言って誰にも見られる事は無い。俺が俺の意見を俺の言葉で喋っても、口調を正してくる人は居ない。


「先生は、先生になって一年目じゃん」


俺はしゃがんだ先生の位置に目線を合わせて言った。と言っても俺の方が座高が高いので、俺はその場にべったり座り込む状態だ。お尻が冷たいけど仕方ない。悲しそうな先生を見るほうが辛いもん。


「俺だってバレー始めて一年目のときは、上手くいかない事のほうが多かったよ」
「…それとは違うよ」
「一緒だよ」
「私、お給料もらってるのに」
「好きな事が上手くいかない辛さは一緒じゃないの?」


分かっている。一緒じゃないなんて事は。でも辛いとか辛くないとか悩んでるとか幸せだとか、そういうのを誰かと比べたり推し量る事は出来ないのだ。けど、白石先生はまだしゃくり上げていた。


「…好きだけでやれる仕事じゃないもん」
「分かってるけど。ものの例え!つーかバレーだって好きな気持ちだけじゃ続けらんないんですけど?」


俺にしては綺麗事を並べてしまったものだ。自分に対して少し虫唾が走ったけれど、先生の涙はおさまった気がした。だけど一向に顔を拭こうとはしないので、俺はポケットからティッシュを取り出した。


「ねー、どっちが生徒だか分かんないよこれじゃ」
「天童くんでしょ、生徒は」
「…まぁソウデスケド」


合ってるけど、まだ俺を生徒扱いするんだなこの人は。生徒の前で立場を忘れて泣いてるくせに。しかも複数回。でも今回だけは理解できる悩みであった。


「先生って大変だなーって思うけど、あんま気に病んじゃ駄目だよ」


働いたことが無い俺にはこれしか言えない。アルバイトも未経験で、春に職業体験に行ったくらいだ。だからこんな薄っぺらい台詞しか言えなかった。先生はまだ納得してくれない。


「…頑張りが反映されないのは、辛い」
「そういうのをちゃんと気にするのも白石先生のイイトコじゃん」
「そう?」
「ていうか少なくとも俺はセンセーのおかげで、こないだの期末で良い点取れた」


それって白石先生の頑張りが反映した、っていう意味にならないだろうか。無理なら川西太一と五色工に、世界史で必ず良い点を取るように命令してやる事だって出来る。白石先生が、先生をやっててよかったって思ってくれるなら。


「俺は白石先生のそういうとこ、頑張り屋なところとかが好き」


先生の目が少しでも俺を見てくれるなら。って考えてたら、勝手に「好き」とか言ってしまってた。


「…本当?」


だけど白石先生は、やっぱりと言うかなんと言うか、俺の言葉をそういう意味では捉えていなかったようだ。俺を見上げるその顔はトキメキとか恥ずかしさとかが全然無くて、親戚の子どもに「好き」って言われたような感じだった。まあいいんだけど、いいんだけどね、今日は別に。


「ありがとね、天童くん」


伝わってねーな、と悲しむのはとりあえず後にする。もうすぐ二学期の中間テストだ。白石先生の面子を保つために、あとは白石先生がやる気を出しくれるために、絶対にいい点を取らなくちゃ。やっぱり寮に戻ったら川西と工にも言っておこう。