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きみの悲しみを喰らうぼく


勉強に身が入らない。元から勉強なんか好きじゃないけれど。白石先生に日本史を教えてもらっている時は、少なくとも積極的に取り組んでいたんだけどな。もう先生が俺に二人きりで教えてくれる事は無いのだろうか。

元はと言えば俺が無理やり付き合わせていたのだから、振り出しに戻ったと言えばそうなんだけど、どうも先日会った時の白石先生は普通じゃなかった。
俺が彼氏との身体の関係の事なんて聞いてしまったから、っていうのも原因のひとつかもしれない。あの時はついつい聞いてしまったが良く考えればあんなデリカシーのない質問、怒られて当然だと思う。嫌われて突然。
それでも白石先生はハンカチを届けに行った時、俺にその事を怒りはしなかった。他の事で悩んでいるのかなと思えた。それを俺に相談してくれる事は無かったけれど。


「白石先生、最近おかしくないですか」


そんな折、意外にも後輩の口から白石先生の名前が出てきた。先生の授業を受けている川西太一である。


「……え?おかしい?」
「はい。え、天童さん気付いてないんですか?」


川西は意外そうに瞬きをした。
気付いてなくて悪かったね。この頃俺は先生と距離を取っている(と言うべきか、取られていると言うべきか)ので、どんな様子なのか知らないのだ。
この間会った時は偶然調子が悪かったのかもしれないし、それを確かめるために接触もしていない。週に何度も白石先生の授業を受けられる川西のほうが、先生と話す機会が多いのである。


「…知らない。最近あの人と喋ってないし…」
「え」
「何その驚き」
「いや…」


俺がこれまで白石先生と二人で会っていた事をなんとなく知っている川西は、俺に対して差し出がましいとでも思っているのだろうか。言いにくそうにしているので続きを促す事にした。だって超気になるんだもん。


「先生、どんな感じでオカシイの」


白石先生は元々様子のおかしい人である。とても良い意味で。五色工への聞き込みによると、最初の頃に俺が心配していた生徒からのイジメとかも無いみたいだし。だけど授業中に生徒に勘づかれるほど調子を崩すなんて、ただ事ではないと思う。


「なんて言うんでしょうね。心ここに在らずって感じと言いますか」
「恋煩いでもしてんじゃないの?」
「恋煩いですか…」


そんなの、大人になってもあるもんですかね。と川西はちょっぴり笑っていた。

恋煩いくらい大人だってするだろう。大人と言っても白石先生は、俺と五つしか歳が変わらないのだ。自分の五年後を想像しても、恋煩いをせずにスムーズな恋愛が出来るなんて到底思えない。それに俺だって今まさに恋煩いの最中で、頭の中は白石先生の事でいっぱいだ。簡単に会いに行く事ができなくなってしまったけれど。俺自身が悪いんだけど。



そんな中ではありつつも、練習は基本的に休み無しで毎日行われる。おまけに今日は掃除当番だったので終わるのが遅くなってしまった。

ご飯を食べてお風呂に入ったらすぐ布団にダイブしたい。翌朝まで目が覚めることなく爆睡したい。
そんな事を考えながら渡り廊下を歩いていると、俺はまたいつかのように、ある場所に目が行ってしまった。真っ暗な校舎の中に一箇所だけ電気が点いている。職員室だ。

俺はなぜだか直感的に、白石先生が居るのだと思った。なんの根拠も無いけれど、一学期にも同じように掃除で遅くなった時、先生は一人で職員室に残っていたからだ。
もしも白石先生じゃなかったらすぐに出ればいい。探していた先生が居ないからまた明日来ます、とでも言っておけば何も怪しまれない。そうでなくとも俺が他人よりおかしな行動をとる事なんて教師の間では知れ渡っているはずだ。
だから自信を持って職員室のドアを開け、自信を持って中に押し入り、自信を持ってそこに向かった。白石先生の座る席まで。


「こんな時間まで何やってるの?」


自分の予感がこんなにも的中するなんて身震いしそうである。職員室には白石先生だけしか残っていなかったのだ。
それならばと白石先生のすぐそばまで辿り着いた時、先生は突っ伏していた頭を上げた。今日は眠っていたわけではないらしい。むしろ、眠っておいて欲しかったかもしれない。


「…どしたの、それ」


俺は顔を上げた先生に声をかけた。もう少しマシな言葉があったかもしれないが、思い浮かばなかった。白石先生の目元は泣き腫らしたように赤く、何度も涙を擦ったような跡が痛々しく残っていたのだ。


「恋煩い?」


また俺は、他に言いようがあるだろうに、昼間に聞いたばかりの単語を白石先生へ投げかける。先生が泣いている時点で原因は二択であった。仕事で失敗した、あるいはプライベートが上手くいっていない。


「……そんな可愛いものだったらいいんだけどね」


やっと口を開いた時、白石先生は自嘲気味だった。そして空っぽのティッシュの箱を潰しながら続けた。


「振られちゃったんだぁ…」


先生がそのように言ってティッシュの箱をゴミ箱に投げた時、とても不思議な気持ちになった。自分では「先生、あいつと別れたの?やったじゃん!」なんて笑顔になるものだと思ったのに、先生の悲しくて悲しくて仕方の無い顔を見ると、とても笑いなんて浮かばなかったのだ。
嬉しくもなんともない。先生が彼氏と別れる事を望んだはずなのに。
俺が何も言わず立ち尽くしていると、白石先生は我に返ったように顔を拭いた。


「…天童くんにこんなこと言うの、おかしいよね。よくないね、ごめん」
「いーよ。話して」
「……やっぱり駄目、」
「話してよ。他に話せる人が居ないんだったら」


こんな時まで教師の顔を保とうとして欲しくない、少なくとも俺の前では。それに俺の予想が正しければ、先生には非が無いにもかかわず振られてしまったのだろうから。


「この間、天童くんに言われたよね。そんなにいい人なの?って」


このところ俺を避け続けていたはずの先生は、俺が隣の椅子を引いても止める事なく話を始めた。


「なんだかそれが心にずっと引っかかってて…ううん、本当はちょっと前から色々あって」


先生の手元にはスマートフォンがあった。それを両手で包みながら話しているのを見る限り、振られてしまったのはたった今で、電話かメールのどちらかで別れを告げられたのでは?と思える。
俺の頭には自然と言いようのない怒りが込み上げてきた。先生にとっては俺が怒るなんてお門違いだろうけど。なんだあいつ。なんなんだよ、くそ野郎。


「私、男の人とそういう事するのが怖いの」


かなりの時間を溜めてから、先生が言った。ずっと前から色々あったという先程の言葉と繋げてみると、悲しいけれどすぐに分かってしまった。


「セックス?」


何のいやらしい意味も込めずにこの単語を発したのは生まれて初めてかもしれない。先生はこくりと頷いた。やっぱりだ。


「………はじめてなの。した事ない」


生徒とはいえ仮にも男である俺にそんな事を打ち明けるなんて、容易ではない。けど、俺みたいなやつに話さなきゃならないほど自分では解決できないのか。先生の中で俺が生徒なのか子どもなのか男なのか、そんな事は気にしていられないのだろうか。


「何回も何回もしようって言われて、途中でずっと誤魔化して躱してて。けど、振られるのが怖くなって応じようと、したんだけど」


白石先生はスマホが折れてしまうんじゃないかというほど強く握り締めていたけれど、やがて、一気に力を緩めて言った。


「やっぱり怖くて、拒否しちゃった」


そして、完全に力の抜けた手のひらから、スマホがカタンと机に落ちた。
白石先生は顔を上げない。座ったままで呼吸だけを静かに繰り返している。怒っている、あるいは悲しみに任せて泣き叫んでくれればもう少し掛ける言葉が見つかっただろうけど。先生が淡々と話している今、俺には事実確認しか出来なかった。


「……それが振られた原因なの?」
「そう言われた」
「今?」


先生は無言で頷いた。
俺は試合前後のミーティングの時だってクシャミや溜息を我慢した事はないけれど、今は大袈裟に吐いてしまった。大きな大きな溜息を。そうでもしなきゃとても先生には聞かせられない汚い言葉が出そうだったから許して欲しい。


「そんなことで別れるなんて、その程度のやつだったんだよ」


俺の言った言葉は何の面白みも機転も効かない台詞である。漫画でもアニメでも小説でもドラマでも上記の台詞は頻繁に出てくる、ありきたりな慰め方。
だけど先生はウンと頷いて、机の引き出しから新しいティッシュを取り出した。それでもう一度目元を拭くと、ふうと息をついた。


「…天童くん、ごめんなさい」
「いいってこのくらい」
「そうじゃなくて」


白石先生は椅子ごとこちらを向いて俺を見た。久しぶりに間近で見た先生の顔色は失恋のおかげで最低だ。でも声はかすれたりする事なくはっきりと出ていた。


「私、大人気なくて……天童くんにちょっとムカついて、無視しちゃったりとか…最低な事した」


ごめんなさい。と、先生はもう一度謝って頭を下げた。
そりゃあ確かにせっかくの体育祭で絡む事が出来なかったり、俺との関わりなんて無かったかのように振る舞われるのは辛かったけれども。元はと言えば俺が余計な事を言ったのが原因だ。先生に向かって「彼氏とヤッたの?」なんて、他の先生だったら俺を殴っているだろう。


「いいよ。俺のがヒドかったじゃん」
「…ちょっとだけね」
「いやいや超怒ってたったしょ?」
「うーん……うん」


素直には言いにくそうだけど、ゆっくり頷かれたのでやっぱり白石先生は相当頭に来ていたらしい。俺の心無い失言について。
反省はしている。後悔はしていないけど。先生を魔の手から遠ざけるためには必要だったと考えているから。


「俺はまた、白石先生と一緒に勉強できたらそれでいいや」


そう言うと、先生は「そうだね、しよう」と受け入れてくれた。

俺は、彼氏が居なくなったからと言ってやすやすと同じ椅子に座れるだなんて思っていない。俺が発した数々の失礼な発言について許されるとも思わない。だから今は元通りに、時間さえあれば勉強を教えてくれればそれでいいのだ。
と、思っているフリをした。本当はそんなのじゃ満足できないけれど。

さてこれからはどうやって白石先生との仲を深めよう、そもそも先生の失恋の傷はどのようにして埋めるべきだろう?と思っていたらいきなり先生が両手を上げた。


「はあーっ!」


そして、大きな深呼吸をした。とても職員室内での新人の振る舞いとは思えない声である。


「やっぱりさ、私みたいな新人が恋愛にうつつを抜かしちゃ駄目だね!うん」
「へ?」
「まずは仕事で一人前になるって決めてたのにさ!まんまとやられちゃったね!」


そう言いながら俺の背中をバシバシ叩いてくるのは、自分の気持ちを整理するための空元気だろうか。それとも単に俺を痛め付けたいだけか。めちゃくちゃ怪力だ。


「天童くん。勉強頑張ろうね!」


それから最後に一発思いっきり、バシーンと背中を叩かれた。

ひりひりするけど気持ちがいい。先生はひとまず無理やりながらも元気を取り戻そうとしているようだ。心の中ではまだまだ凹んでいるのだろうけど、俺との間にあったわだかまりは消えたのかも知れない。それは有難い事だけど、果たして俺は先生の彼氏が浮気をしていた事実について伝えるべきか?そんな事を知ったらまた、白石先生は新たなショックを受けるに違いない。

先生が振られたのは「セックスを断ってしまったから」、それでいい。そう思っておけばいい。決して「先生以外に同時進行している他の女がいた」のが理由ではない、それは俺だけが知っておけばいい事だ。