07
とても些細で残酷なこと


午後の時間はずっとびくびくしていた。黒田さんがいつ花巻くんに辞書を返しに来るのかと。私には全く関係のない事なのに、昼休みに感じた黒田さんの視線や気配にずっと支配されているのだ。
敵対心を抱かれるような同じ土俵には上がっていないけど、確実に意識されているような気がして。
周りの全員が「そんな事ないと思うよ」と言ってくれたとしても、きっと私は信じられないだろう。だから今日が終わるのを今か今かと待っていて、午後のホームルームが終わったらすぐにこの教室を出て家に帰ろうと準備していた。


「じゃあ今日は以上…あ、最後にもうひとつ」


だけどこんな時に限ってホームルームが長引いてしまったのだ。担任の先生がいくつかの伝達事項をみんなに話したりプリントを配ったりして、なかなか終わる気配がない。
やっと終わると思った時にもまた、何か言い忘れた事があったらしくて別の話が始まった。勘弁してください先生、私は一刻も早く帰りたいんです。


「以上!終わり」
「きりーつ」


起立、礼、ありがとうございました。毎日行うこの一連の流れすら今は嫌になってしまったけど、やっとこれでお終いだ。教科書などを全部入れて用意していたのですぐに席を立ち、黒田さんがこの教室に入って来る前に帰ってやろうと足を踏み出した。


「あ!ねえねえすみれちゃん、」
「へっ?」


机の間を小走りで過ぎ去ろうとすると、友だちに呼ばれてしまった。クラスで一番仲のいい女の子だ。この間、バレー部の練習試合を一緒に見に行った子。当然無視するわけにはいかなくて、私は急ブレーキをかけて立ち止まった。


「あ、ごめん。急いでた?」
「大丈夫…どうしたの」
「えっとね、昨日言ってたCD持ってきたよ」


友だちはそう言うと、鞄からCDを取り出した。
確かに昨日、最近気に入っている曲があるという話をしていて、そのCDを貸してくれると言っていた。彼女はその約束を忘れずに持ってきてくれて、しかも一日が終わったこの時に出してくれるなんて最も嬉しいタイミング、なのに。
今の私は理不尽な事に「どうしてこんな時に引き留めるんだ」という気持ちが生まれてしまった。


「あ、ありがとう!いいのにこんなすぐじゃなくても」
「いいのいいの。私もうスマホに入れたし、いつでも聞けるから」
「そんなに気に入ってるんだぁ」


花巻くんと黒田さんとの事さえ無ければ楽しく話せるはずなのに、今は笑顔が引きつっている気がする。早く帰らなきゃ黒田さんが来てしまうかも。だけど友だちの話を無理やり終わらせて帰る事は出来ない。私のためにCDを貸してくれると言ってるんだし、昨日私が「その曲気になる」と言い出したんだし。
心臓をバクバクと鳴らしながらCDを受け取り、少しだけジャケットを眺めてから鞄に入れようとしたその時。


「貴大、持ってきたー」


来てしまった。黒田さんが。
だけど花巻くんはちょうど教室を出ようとしていて、しかも少し慌て気味であった。


「あ!辞書か。忘れてた」
「もう部活行くの?」
「そうなんだよ今日ちょっと早く行かなきゃで…テキトーに俺の机置いといて」


花巻くんはそう言うと、バイバイと告げて廊下を走って行った。今日は急ぎで部活に行かなければならないらしい。黒田さんはきょとんとしつつも教室に入ってきて、迷わず花巻くんの机へ歩いてきた。


「えと、じゃあ…私帰るね。ありがと」


友だちの席は花巻くんの席と近い。このままでは黒田さんとすれ違ったり目が合ったりしてしまう。黒田さんよりも先に教室を出て急ぎ足で下駄箱に行けば大丈夫。しかし、最後に友だちが私を引き止めた。


「そうだ!聞いたら感想教えてー」
「へっ?あ、わかった」


その一瞬だけ私は立ち止まり、振り返って友だちに答えた。それから手を振って、ようやく教室を出ようとドアの方に向き直る。しかし、そこにはちょうど同じように教室を出る黒田さんが居た。


「っ、」


私たちはお互いに足を止めて、しばらく目が合っていた。
黒田さんの目はとても大きい。左右対称でまつ毛が長くて、誰にでも愛されるような顔立ちは花巻くんに好かれて当然。私はこんな女の子の彼氏に片想いしてしまうなんて、惨めな女であった。


「…さ…先どうぞ」


あなたのほうが私よりも優れている。あなたに敵意は抱いていない。それを証明するかのように、私は黒田さんに道を譲った。


「なんで?どうぞ」


黒田さんは私が先に教室から出るよう手のひらで促した。なんの事は無い普通の譲り合いのはずなのに、ぴりぴりとしたものを感じる。だけどすぐにでもこの場を離れたかったので、私はお言葉に甘えて先に廊下に出た。


「……」


しかし、黒田さんは下駄箱に向かって歩く私の後ろを付いてきているように感じた。もし彼女にその意図が無いのだとしても、それほど黒田さんからの視線を感じてしまったのだ。
黒田さんの教室は確か三つほど先にある。早くそこにたどり着いて教室の中に入ってくれればいいのに。


「白石さん」


私のそんな願いは虚しく、とうとう後ろから黒田さんに話しかけられてしまった。


「……なに?」


私は歩くのを辞めずに答えた。何を言われるのか怖い。 しかも私のクラスのホームルームが長引いていたせいで他のクラスにはあまり人が残っておらず、廊下はとても静かだった。


「貴大のことが好きなの?」
「!」


立ち止まらないようにしようと思っていたのに、ついに足を止めてしまった。あまりに単刀直入だったのと、やはり気付かれていたのだという焦りのせいで。


「勘違いじゃないかな…」


誤魔化すしかない。だって、私の気持ちを証明するものなんて無いんだから。誤魔化して、違うよって答えて逃がしてもらおう。でも黒田さんは私の答えに納得していなかった。


「この前、貴大がね。遊びに行った帰り、わざわざ遠回りしようとしたの。最初は何でか分からなかったけど」


そして何かのエピソードを話し始めた。どうして私にそんな話をするのかと不思議に思っていたけれど、続きを聞いていくうちに息が止まりそうになった。


「クラスメートのバイト先が近いから、ちょっと挨拶していくとか言ってさ」
「……!」
「私には、そのへんで待っといてってテキトーな事言われてさ」


あの時、いつかのアルバイトの日。花巻くんが来てくれて、私が居るのかどうか覗きに来た日があった。「彼女が待ってる」と言っていたから近くに黒田さんが居るんだろうとは思っていたけど、わざわざ待たせていたなんて。


「てっきり男友達のバイト先かと思うじゃん。でも、違ったんだね」


黒田さんは怒りなのか、悲しみなのか分からない顔をしていた。花巻くんは私みたいなただのクラスメートに優しくしてくれるせいで、彼女である黒田さんを傷付けていたのだ。私は反対に浮かれていた。花巻くんが会いに来てくれた事に。


「貴大、最近あなたの事ちょっと気に入ってるよね…」
「そ…そんな事ない、と思うけど…」
「あるの!分かっちゃうの!分かりたくもないのに!」


心臓が痛い。黒田さんの気持ちを思うととてもじゃないけど耐えられない。そして、黒田さんがこんなに悲しんでいるのに、未だに私の中には黒田さんへの嫉妬心が羨む気持ちが消えていない。
花巻くんへの気持ちを諦められればいいのに。そうすれば私の苦しみも晴れて、黒田さんも幸せになれるのに。


「…一切会話するななんて言わないよ。でも、お願いだからもう貴大に近づかないでくれる?」


黒田さんは最後の最後にこう言った。本当はこんな事言いたくないと思っているかのように、絞り出すような声で。


「私の貴大、奪わないで」


それだけ言うと黒田さんは教室に戻るのではなく、トイレに向かって歩いて行った。
黒田さんから花巻くんを奪うつもりなんて毛頭ない。ただ同じ教室にいる花巻くんの姿を見られるだけで幸せだと思っていた。それなのにここ最近は、「もっと仲良くなりたい」と思うようになっていた。花巻くんが優しいせいで調子に乗っていたのだ。その陰で悲しんでいる人が居るのも知らないで。