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ネバーランドの成れの果て


学校内で姿を見かければ一声かけるくらいの仲だった俺と先生は一変して、全く言葉を交わさなくなった。
九月の行事のひとつである体育祭で俺がクラス対抗の綱引きに出ても、部活対抗のリレーに出ても、白石先生が話しかけてくることは無かった。

もちろん俺もわざわざ出向いて「今度の体育祭、これとこれとこれに出るから」などと予告もせず。良いところを見せたら白石先生が褒めてくれるわけでもなく。せっかく高校最後の体育祭だったのに、楽しい事なんか何にも起きずに終わってしまった。
厳密には、体育祭そのものは「楽しかった」という感想が一番適切なんだけど、いつもいつも白石先生の事が頭に浮かんで悶々としていたのだ。


「えーたくん。オベンキョしーましょ」
「ごめん、俺彼女と約束してるんだわ」
「あっそう。隼人くんは?」
「ワリ!今から学園祭の練習」
「……そうですか」


皆してそれぞれ楽しそうな事をしやがって。英太くんはこの夏に彼女が出来たので、練習以外の時は極力そっちを優先している。ご立派な事である。
で、隼人くんはというと何故か学園祭の劇で主役をやる事になったとかで、あれやこれやと忙しなくしているようだ。若利くんは楽しくおしゃべりしながらって感じじゃないから、俺が一緒だと邪魔してるみたいになってしまうかな。

しかしどうして皆、色んな事が上手くいってそんなに充実しているんだろう。俺だってそろそろ嬉しい事があっても良いはずなのに。白石先生に余計なちょっかいをかけるのだって我慢しているし。まあ、避けられてるから無理なんだけど。


「天童、なんか踏んでね?」


昼休みに廊下で喋っている最中、クラスの誰かが俺の足元を指差した。
滅多に足元に注意しないので気付かなかったけど、確かに俺は何かを踏んずけているようだ。足をどかしてみるとそれはハンカチだった。女性ものの。


「誰の?」


俺もそれは気になった。だけど今時この歳になって、ハンカチに自分の名前を書いている生徒なんか居るだろうか?


「……白石すみれ。」


居た。生徒じゃないけど先生だ。
白石先生、こんなところにハンカチなんか落っことしていたらしい。どうして三年生の校舎に白石先生のハンカチが落ちてるんだっていうのはさて置き、ご丁寧に名前を書くとは呆れるべきか褒めるべきか。


「誰だっけ?」
「歴史の先生。今年入った」
「へー」
「俺、届けてくる」


やっぱり三年生はあまり白石先生の事を知らないようだ。俺は先生に会いに行くキッカケが出来たので職員室まで届けに行く事にした。
まあ今回ばかりは、もし白石先生のハンカチじゃなかったとしても多分そうする。だって俺が踏んじゃったんだし。


「白石先生、居ますか?」


前のようにずけずけと職員室に入る事はせず、入口付近の先生に聞いてみた。その先生は職員室の奥のほうを見渡したけれど、姿は無い様子。


「今はいらっしゃってないみたいだけど…なんか用事?伝えておこうか」
「んー…いや…ダイジョブです」


ハンカチをその先生に預ける事も出来たけど、そうはしなかった。俺が直接渡さなきゃ会えないから。

昼休みだからどこかでお弁当でも食べているのかもしれない。けど、先生たちって普段どこで昼食をとっているんだろう?
全く分からなかったけど白石先生に関してだけはなんとなくあそこかな、という場所があった。資料室の中である。

あの部屋が飲食可能かどうか不明だが(常識的に考えて多分禁止かな)、白石先生は一人で作業をする時に、職員室よりも資料室を使うほうが多いと言っていた。それに、まだ新任だし他の先生に混じって職員室で過ごすのは居づらいんじゃないか。大きなお世話だって怒られそうだけど、今は怒ってほしい。何も言われず交流できないくらいなら。


「失礼しまーす」
「っ!?」


資料室のドアを勢いよく開けると、一番窓際に座っていた人が立ち上がった。居た。白石先生。
逆光のせいでどんな顔をしているのか見えないけど、俺が入ってきたのを見て驚いているのだけは分かる。そして目が合うと、思い切り窓のほうを向かれてしまった。


「せんせー……?」
「あ…あっち行って」
「え、なんで」
「いいから!」


俺は落し物を届けに来たのだから、このまま帰るつもりなんか毛頭ない。それに白石先生とは話したい事が山ほどあるのだ。うまく言葉に出来る自信はないけれど。
でもハンカチの話をするよりも前に、なんだか変だなと思えた。先生はずっと窓の外を見ているが、それは俺への警戒というよりも別の事が原因に感じられるのだ。単純に俺に近づいて欲しくないだけならば、もっと怖い顔をして追い返せばいい。


「悩み事?」


あくまで当てずっぽうであるように見せかけて聞くと、白石先生は少しだけ肩を揺らせた。向こうを向いているけど、窓に自分の顔が写っている事に気付いてないようだ。背後まで近付けば先生がどんな表情をしているか、ぼんやりと見えてしまった。


「彼氏のこと?」


続けて聞くと先生が一瞬、こちらを振り返ろうとした。だけど結局動かずに、外の景色を睨みながらゆっくりと答えた。


「天童くんには関係ないことだから」


つまりイエスって事なんだな。俺は音に出さないように溜息をついた。喧嘩でもしたのだろうか。もしかして彼氏の浮気に気付いた?今すぐ具体的な話を聞きたいけれど、そんな事聞いたら本当に追い返されそうだ。


「勉強なら、小野先生に見てもらってください」


それどころか白石先生は、これ以上話しかけてくるなというオーラを前面に出してくる。これまで何度も勉強を教えてくれたのに、ここで。
勉強は学生の仕事だろ。誰と勉強するかなんて俺の勝手だろ。詳しい原因は知らないけれど俺の楽しい時間を奪われて、もううんざりだ。彼氏となんか別れてしまえばいい。


「…先生の彼氏ってさ、黒い車でさ。アレでしょ?けっこう背が高くてイケメンだよね」
「え…?」
「見ちゃったんだよね。先生が彼氏と一緒に居るところ」


こんな事を言うつもりは無かったのに、気づいたらべらべら喋っていた。


「……いつ」
「ずっと前。夏休み中」


ついでに彼氏が別の女と仲良くしてるところも見たけど、それは言わずに我慢できた。と言うかそれを言ったら先生がどうなってしまうか分からなくって、言えなかった。


「あいつってそんなに良い人なの?」


前は自慢げに彼氏のことを話してくれたけど、今はどうだ。嬉しそうな顔をひとつも出さずに苦々しく俺の事を睨んでいるだけだ。
あ、俺、もう白石先生と元の関係に戻れないかも。そんな危機感を覚えた時には既に先生が拳を握り締めており、静かに呟いた。


「…出て行ってくれる?小テストの採点しなきゃ」


努めて俺に酷い言葉を使わないように耐えているのが伝わる。いっその事「もう関わるな」とビンタでもしてくれれば幸せだったのに。
これ以上ここに居るのが辛くなり、俺はポケットに手を突っ込んだ。


「落とし物」


踏んでしまった先生のハンカチを机に投げて、すぐに俺は廊下に出た。先生が顔を上げて驚いたように見えたけど、もう一緒にいるのがいたたまれなくなってしまったのだ。

先生が何に悩んでいるのかは分からない、原因はあいつだっていう可能性が高いだけで、全く別の理由かも知れないし。
でもそれを話してくれないという事は俺なんて、先生にとって大勢いる生徒のなかの「ちょっと面倒くさい男子生徒」くらいにしか思われていない。それを覆すためには俺が今の関係を崩さなくてはならない。それは怖くて無理だった。先生が先生でなくなってしまう危険性だってある。

とにかく俺という存在が白石先生の人生に、「関わっても関わらなくても何も変わらない」という事実が物凄く悔しいのだ。大学を卒業してもなお自分のハンカチに名前なんか書いてしまうような白石先生を、大事に大事に護ってあげられるような権利を持てない事が。