06
憧れの傍らにて
ここ最近浮かれていたようだ。花巻くんが構ってくれるからと言って、自分が特別であると誤った認識をするところだった。私はただのクラスメートで、それ以上でも以下でもない。花巻くんに必要以上に近づく事は避けるべき存在なのだ。そうでないと、黒田さんに嫌な思いをさせてしまうから。
私は誰にも嫌われたくはない。黒田さんにも花巻くんにも。
だけど運命とは残酷で、そういう時に限って会ってしまうのだ。
「あっ」
朝、廊下を歩いていると二人の男女がちょうど教室から出てきた。
私もその教室に向かって歩いていたので自然とすれ違ってしまう事になる。だけど登校して来たところなのに引き返すわけにも、また教室の前を素通りするわけに行かなくて。結局花巻くんと黒田さんと顔を合わせる事になってしまった。
「オハヨ」
花巻くんは相変わらずというか、むしろ以前よりも気軽に挨拶をしてくれた。
それ自体は嬉しい事のはずなのに、今はどうか私を無視して欲しくてたまらない。だって花巻くんの隣には彼女が居るのに!私なんかに構ってないで黒田さんとの会話を盛り上げていればいいのに。
だから私は花巻くんと目を合わせないようにして頭を下げ、「おはよう」とすれ違いざまに呟く程度にしておいた。黒田さんの目の前でにこやかに挨拶を返すなんて出来ない。
「おーい。白石さん!何か落としてる」
それなのに、二人の横を通り過ぎて数歩しか進んでいないところで花巻くんに呼ばれてしまった。
恐る恐る振り向くと彼らの足元に私のクラスバッジが落ちていた。安全ピンがうまく留まっていなかったようだ。
そしてそれを花巻くんではなく、黒田さんが屈んで拾い上げてくれたではないか。そりゃあどちらかと言えば黒田さんに近い位置に落ちていたけど、私は一気に背筋が凍り付いた。
「はい」
黒田さんが一歩前に出て、バッジを差し出した。
彼女の手のひらから伸びる五本の指はすべてピンと伸びており、美しい形を保っている。
黒田さんは顔だけでなく手先も身体も何もかも、アイドルみたいに可愛い。もちろん目も二重で大きくて力強い。そしてその大きな目は、私のような冴えない女子が恋敵である事を、簡単に見抜いてしまうらしいのだ。ただバッジを渡してくれるだけのほんの一瞬なのに、彼女が私を見る目はとても鋭かった。花巻くんに恋しているのがバレている。消えて無くなりたい気持ちでいっぱいだった。
「…ありがとう…」
だけどバッジを無視する事は出来なくて、私は黒田さんからそれを受け取った。その間も黒田さんが私の顔や仕草、あらゆる事を観察しているのが感じ取れる。
もういやだ。私はあなたたちの邪魔なんてしないから、そんな目で見ないで欲しい。黙って花巻くんへの気持ちを温めておく事くらい許して欲しい、絶対に迷惑はかけないから。
「貴大、今度の月曜さあ、映画いきたいなー」
私がぺこりと頭を下げると黒田さんはすぐに花巻くんのほうを向いて、こんな事を話し始めた。もしかしたら元々次のデート予定を話していたのかも知れないけど、私の中ではぐるぐると嫌な感情が芽生え始める。
「映画?うん、いーよ」
「やった!私観たいやつがあるんだよね」
黒田さん、わざと私の前でそんな話題を持ち出している?
いや、そんな事をしたって何になるんだ。黒田さんは既に花巻くんの彼女という地位を確立しているんだから、私のような女にそこまでして牽制する必要は無い。思い過ごしに決まってる。
そんな事を考える自分が嫌になって、私はそそくさと教室に入り自分の席についた。あの二人は、私とは違う世界を生きる人たち。付き合おうなんておこがましい。ちょっと花巻くんが話しかけてくれるぐらいで浮かれるな、馬鹿。
「白石さん?」
「!?」
ぼんやりしていた昼休み。トイレに行った友だちを席で待っていると、またまた花巻くんに呼ばれた。完全に気を抜いていたせいで身体が跳ねてしまい、手からスマホが落っこちそうになった。
「え、なっ何?」
「コレ、また落としてる」
「あっ」
花巻くんが指さした先、私の足元には今朝落ちたクラスバッジが。あの後ちゃんと留め直したのに、また落ちてしまったらしい。
「ご、ごめん…ありがとう…」
「いーけどさ、なんか変じゃない?大丈夫?」
バッジを拾う私を見下ろしながら、花巻くんが言った。
私が大丈夫かって?全然大丈夫じゃない。だけど正直に答える事は出来ず、しらばっくれるしか無かった。
「…何が?」
「何がって言われると分かんないんだけど、なんとなく…」
「……」
「もしかして体調悪いとか?」
体調なんて悪くはない。ただ、心はとても苦しい。花巻くんと喋られる幸せを噛みしめたいのに、罪悪感と恐ろしさでいっぱいになるのだ。
どこも悪くないよ、気にしないで。
そう答えればこの会話は終了する。そしたら花巻くんは「そっか」と言ってここを離れるはず。だけど。
花巻くん、私の異変に気づいて心配してくれているの?どうしてそんな、私を喜ばせるような事をするの。そんな事をされたらどうしても、我儘になってしまうでしょう。本当はどこも辛くないのに、体調が悪いふりをしたくなるでしょう。
「……ちょっとだけ…」
弱ったふりをして出した自分の声は、ひどく醜く聞こえた。
「大丈夫?保健室行ったほうがいいよ。ちょっと待って石田さん呼んでくるわ」
反対に花巻くんの声は穏やかで、でも少し焦りを含んでいた。
「石田さん」とは今トイレに行っている私の友だちだ。つまり彼は、私を保健室に連れて行くなら仲のいい女子のほうが適切だろうと判断しているのだ。どうしてそこまで完璧に優しさを振りまけるのか分からない。
「待って」
ついに耐えられなくなって私は花巻くんを止めた。
友だちを呼ばれても、さっきまで仲良く話していた私が急に体調不良だとか言うのは怪しまれるし。何より仮病の私のために、花巻くんに手間をかけさせるのは嫌だ。
「私、ごめん…大丈夫だから」
「え?でも」
「大丈夫。授業受けられるから」
ただほんの少しだけ心配してもらって、優しくしてもらって、話が出来ればいいな。そんな我儘から生まれた最低な嘘を突き通せるほど器用じゃない。
「でも、しんどくなったら言ったほうがいいよ」
それでも最後まで優しい花巻くんはそれだけ言うと、私の席から離れようとした。私も「ありがとう」と返してこの茶番を終えようとした。
その時であった、背後から女の子の声が聞こえたのは。
「…タカヒロー。」
聞き覚えがない声だなと思った理由は、彼女の声が普段よりも低く強く感じたから。彼女が低い声になっている理由は、私だ。後ろに居たのは花巻くんの彼女だった。私は本日二度目の寒気を感じた。花巻くんは何も違和感を感じなかったようだけど。
「お。どしたのー」
「どしたのーじゃない!メール返ってこないから見に来たの」
「へ?」
それを聞いた花巻くんは自身のスマホを取り出して、新着のメールを確認した。
「あ、ほんとだ」
「もー」
「ごめんごめん、白石さんが体調悪そうだったから」
最悪だ。本当に最悪。花巻くんは悪気が全く無いのだろうけど(むしろ正当な理由として挙げたのだろう)、私の体調が悪そうだったから、それを気にしていたせいでスマホの確認が出来なかったと言うのだ。あんな嘘をつくんじゃなかった。
「そうなの?大丈夫?」
黒田さんは私のほうを見て、体調を気にしてくれる言葉を言った。
もしかしたら黒田さんは心から私の心配をしているかもしれないけど、私にはそうは思えなかった。私を見る黒田さんの瞳がとても光っているからである。被害妄想だとしたら彼女にとても失礼だけど、恐ろしくて恐ろしくて「大丈夫です」と答えるので精一杯。
花巻くんは黒田さんの怒りの原因は自分にあると思っているらしく、すぐにメールの返信をしなかった点について詫びていた。
「だから怒んなって、今ちゃんと読んだからさー。辞書だよな?」
「うん。持ってくるの忘れちゃった」
「いいんですよー俺ばっかり借りてますから。ロッカー入れてるから来て」
花巻くんがそう言うと、黒田さんは頷いて一緒に後方のロッカーへ歩いて行った。
よかった、解放された。花巻くんの深い優しさから。黒田さんの重い視線から。軽率な嘘をついた罰が当たったんだ。
黒田さんは無事に花巻くんから辞書を借りたようで、後ろのほうからはこんな会話が聞こえて来た。
「ありがと!あとで返しにくるね」
「おう。あ、明日でもいいよ」
「いい!あとで来る」
借りっぱなしは嫌なのだろう、黒田さんは今日もう一度この教室に来るらしい。
気が重い。黒田さんは全く悪くないのに。悪いのは私だけなのに。やっぱり体調不良を装って保健室に逃げればよかった、今日一日が終わるまで。