01
きらめく世界のパラノイア
あの人が教室に入って来ると、ぱあっとクラスが明るくなる。あの人が近くを通ると、ふわっといい香りが辺りに広がる。あの人と目が合うと、どきっと私の心臓が波打つ。
恋してるなあと自分でも感じるし、あれほど魅力のある人が同じ空間に居て心を奪われない方がおかしい。
花巻貴大くん、同い年の青城高校三年生。どうして私が花巻くんを好きになったかと言うと、それは二年前に遡る。
入学式の日、私はとても緊張していた。中学で仲の良かった友だちと同じ高校へ進学で来たはいいものの、一年目からクラスが離れ離れになってしまったのだ。
同じ中学からはあと何人か青城に来ているけど、特別仲が良かったわけじゃない。元々引っ込み思案な性格の私に高校で新しい友だちが出来るかどうか、そもそも誰ひとり知り合いの居ないこのクラスで上手くやって行けるかどうか。不安は募る一方であった。
「コレ、落としたよ」
入学初日、机と椅子にすっぽり納まってなるべく目立たないように努めていたところ、突然誰かに話しかけられた。というより、私の机から落ちたプリントを拾ってくれたようであった。
「ありがとう…」
私はお礼を言いながらその人を見上げたけれど、びっくりした。この人は同級生じゃ無くて先輩?と疑ってしまうほど背が高かったのだ。
でも胸元には新入生の証である赤い花が付いていて、彼も高校一年生なのだと分かった。そして「いいよ」と私の机にプリントを置くその表情がとても優しくて朗らかで、目を細めて笑う顏に一目ぼれした。
その後すぐに担任の先生が入ってきて挨拶が行われ、クラスバッジが配られた。
各自名前を呼ばれて教壇まで取りに行くシステムだったので、図らずも私はあの人の名前を知る事が出来た。花巻貴大。花巻くん。苗字に「花」がつくなんて、あの人にふさわしい。まだ出会ってから数分しか経っていないのに、すっかり私は花巻くんにお熱になっていた。
花巻くんが同じクラスに居るなら、誰も知らないこのクラスでも頑張れるかも知れない。何か辛い事があったとしても、学校に来さえすれば花巻くんの姿を見る事ができる。
それだけを頼りにといったら大袈裟だけれども、私は無事に毎日学校に来ることができた。出席番号が近かった女の子と仲良くなれたし、クラスメートは個性豊かだったけれどみんな良い人だった。花巻くんを筆頭に。むしろ花巻くんを中心にしてあたたかいクラスの輪が広がっていると言っても過言では無いと思えた。
「白石さん、すげえ上手だね」
花巻くんの口からこんな嬉しい言葉が聞こえたのは、家庭科の授業での事。
この時、私と花巻くんは奇跡的に班が一緒だった。だから班ごとに分かれてカレーライスを作る時、同じテーブルで料理を出来たのだ。
「俺全然そういうのやった事ないんだよな」
「そ…そうかな?あんまり難しくないよ、これ良い包丁みたいだからよく切れるだけで」
「いやいや、そんな綺麗に切れる気しないわ」
小さいときから親の料理を手伝うのが好きだった私は、初めてこれまでの自分に感謝した。そして誓った、これからもお母さんを手伝おうと。
好きな人に褒められるのがこんなに嬉しいなんて知らなかった。次の調理実習はいつだろう?この班で居られるうちに、あと一回は調理実習をしたいなあ。そんな事を考えながら野菜を切っていたら、ふと指先にピリッという感覚が走った。
「イタッ、」
私の声と、カタンと包丁がまな板に当たる音で周りが静かになった。と言ってもうちの班だけで、大半の生徒や先生は気付いていない。だけどすぐに同じ班の人が心配そうに寄ってきてくれて、中でも一番に声を掛けてくれたのは花巻くんだった。
「切った?大丈夫?」
花巻くんに言われて自分の指を見ると、浅く切ってしまったようで真っ赤な血が出始めていた。
やってしまった!花巻くんが見ているのに情けないところを晒してしまうなんて。しかも花巻くんがその傷を、私の手を持って覗き込もうとしているなんて!
「…で、だ、だっ」
「すみれちゃんこっち!早く流そう」
取り乱して変な事を言ってしまう前に、運良く班の女の子が呼んでくれた。そうだ、慌てている場合じゃない。傷口を洗い流さなくては。それに野菜を切る途中の出来事だったから、まだまな板の上には玉ねぎが乗ったまま。
「ごめん…玉ねぎ汚れちゃった」
「大丈夫だよ。ちょっとだけだから」
彼女はそう言うと、そばにティッシュが無かったのでキッチンペーパーを渡してくれた。それを指に当ててみるとすぐに血が滲んできて、情けない気持ちになる。本当に家ではちゃんと料理が出来て、こんな失敗は滅多にしないのにな。私の血がついたせいで、いくらかの玉ねぎも捨てる事になってしまった。
「後は花巻くんが切ってくれるって」
「え、」
びっくりして花巻くんを見ると、まな板を一度洗おうとしているところだった。花巻くん、こういうのした事ないって言っていたのに。
「だいじょぶ。血、止めてて」
私があまりにも心配そうに彼の手元を見ていたせいか、花巻くんは「任せろ」と言わんばかりににこりと笑ってくれた。
またひとつ、花巻くんの素敵なところを知ってしまった。指を切った時、花巻くんの手が私の手に触れた。もうこの手、洗いたくないなあ。…と思ったけれど、血を流すために既に洗ってしまったのだった。
それが高校一年生の一学期の出来事で、それ以降は残念ながら調理実習が無いまま夏休みを迎えてしまった。
二学期になれば席替えと班替えがあり、花巻くんとは離れ離れ。元々私たちには共通の話題も無かったし、私も積極的に花巻くんに話しかけられなかったので、仲を深める事はできなかった。更には二年生に上がってから、クラスも別になってしまったのだ。
もう花巻くんと仲良くなるのは難しい。バレー部の試合をこっそり見に行くのも恥ずかしくて、二年生の時は偶然廊下ですれ違う事だけを楽しみに過ごしていた。
そうして迎えた三年生のクラス替え、私の祈りは神様に届いた。花巻くんと再び同じクラスになれたのである。
「貴大!」
この二年間のことを思い出していると、聞こえてきたのは花巻くんを呼ぶ女の子の声だった。
初めてこの声を聞いた時は愕然としたし、誰の事を呼んでいるのか分からなかったけれど。花巻くんの下の名前が貴大である事と、花巻くんが声に反応して手を挙げた事で、ああ花巻くんを呼んだんだっていうのが分かった。そして、あの子が花巻くんと親しい間柄である事を。
「ほーい。どした?」
「どした?じゃないよ。数学の教科書」
「お!忘れてた」
どうやら花巻くんはその女の子から、教科書を借りていたらしい。うちのクラスの子では無いから、教科書の貸し借りが出来たようだ。花巻くんは取り出した教科書を渡しながらお礼を言った。
「はい、さんきゅー」
「明日はちゃんと持ってきなよ」
「分かってまーす」
「ホントに分かってんの?どうせ私に借りれば良いとか思ってるでしょ」
「思ってるよん」
そして、私には一度も向けられた事の無い顔で笑ってみせた。
一年生のときは花巻くんの笑顔を見ると幸せな気持ちだったのに、どうしてだろう、今はとても辛くなってしまった。私の力では決して覆す事の出来ない現実を突き付けられているようで。初めはそんな正体不明の苦しみに襲われていたけれど、すぐに原因は分かった。花巻くんが女の子を下の名前で呼んだのだ。
「あ。奈々、今度の月曜だけど」
きゅうっと胸が締め付けられるのを感じる。この痛みももう慣れた、と言いたいけれど全く慣れない。
「こないだ言ってたシュークリームの店、行く?」
「行くー!」
「よし行こー」
「貴大の奢り?」
「ではない」
「ではないんかい」
そのような会話を繰り広げながら本人たちはもちろん楽しそうに笑っているし、周りも微笑ましく聞いていた。誰がどう見ても仲睦まじい男女のペア。私は彼らを見ないように携帯電話を触る振りをした。
「奈々ー、移動教室行くよー」
「あ!はいはーい」
廊下から自身のクラスメートに呼ばれたらしくて、女の子は元気に返事をした。ああよかった、もうあの子はこの教室を去る。安心しきった私は顔を上げたけれども早かった。まだ下を向いておくべきだった。
「じゃあね」
「うっす」
二人はお互いに目を合わせてヒラヒラと手を振り、ペシンと手のひらをハイタッチのように合わせてから、やっと女の子が教室を出たのだった。
花巻くんの周りは「お前ら仲いいな」「教科書忘れんなよ」なんて言っていて、花巻くんもそれに対して心から笑っている。このような光景が、三年生になってから毎日のように繰り広げられている。私にとっては耐え難く、けれども打開策の無い状態。
要するに私とクラスの離れていた高校二年生のあいだに、花巻くんには黒田奈々さんという彼女ができていた。
「また同じクラスになれたらいいな、そうしたらもっと仲良くなれるかな」そんな浮かれた事を考えるだけで行動に移さなかった自分が情けなくて、腹立たしくて。それなのに花巻くんを見ると未だに穏やかな気分になってしまうのが悔しい。恋する気持ちを忘れる手段があるのなら、なんだってするのに。