08
だから世にはフィクションが入用


俺がわざわざ出向かなければ、白石先生と会う機会なんてそうそう無いのだった。白石先生は三年生の校舎までやって来ない。一・二年の授業しか受け持っていないのだ。
しかも俺は日本史で白石先生の教える科目は世界史。カタカナよりは漢字のほうが覚えやすいかなっていう安易な考えで日本史を選択したのを今になって後悔している。世界史取っときゃ良かったな。

だけど、まだまだ俺が白石先生との会話をするチャンスはある。インターハイ予選のあいだはちょっと忙しかったけど無事に全試合を勝ち抜き、今は一学期の期末試験まで一週間を切ったところだ。いくらスポーツ推薦で入学したとはいえ学業をおろそかにする事は許されず、赤点を取れば即レギュラー落ちと言われている。
実際に赤点を取って外されたメンバーは見た事が無いけれど、鍛治くんならやりそうだ。去年なんか三年生の引退試合内容が気に食わなかったとかで、帰りのバスに乗せてくれずに走って学校まで戻らされたんだから。


「失礼しまーす」


俺が職員室に慎ましい態度で入るなんて、他の先生にとっちゃ驚きの出来事だろう。開いたドアから現れた俺を見てぎょっとしている。きっとみんな、俺が誰かに説教を受けに来たと思っているだろうけど違うんだなあ。


「白石せんせ、コンニチハ」


だけど俺は悪い事なんてひとつもしていないので、真っ直ぐに白石先生のデスクに向かった。目が悪くなりそうなほど顔をしかめてノートパソコンを覗き込んでいるけど、俺に呼ばれて眉間のしわが伸びていた。


「こんにちは。どうしたの?」
「あのー、テスト勉強で聞きたい事がありまして」
「テスト…?」


白石先生も、隣の別の先生も俺の言葉を聞いて疑問符を浮かべた。無理もないんだけど。三年生のクラスバッジをした俺が、新任の白石先生名指しで質問をしに来たのだから。


「小野先生いないのかな?探してみようか」
「いいのいいの違うの違うの。白石先生に教えてもらいたい」
「え」
「他のせんせー怖いんだもん」


と、俺は適当な言い訳をした。まあ小野先生が怖いのは本当だけど教え方に文句は無い。
だからわざわざ小野先生の居ない時を狙ってここに来たのだ。小野先生の立場になってみれば、自分が居るのに新人のほうに質問しに行かれるなんて屈辱だろうし。俺って気が利くなあ。
だけど、白石先生は冷や冷やしながら小声で言った。


「…そんな事して怒られない?」


怒られるって、俺が小野先生に?それとも白石先生が小野先生に?どちらも可能性がありそうだけど。


「先生がバラさなきゃ平気」
「ウーン…」
「忙しいんなら、無理にとは言わないけど」


でも俺の勘はこう言った、先生はきっと勉強したがる生徒の気持ちを拒否しないだろうと。ずっと教師になるのが夢だったのだから。俺の行動はそんな白石先生の気持ちを踏みにじる事になるだろうか?でも、勉強を教えてもらいたいのは本当だ。


「どうしても聞きたい事なの?」


白石先生は座ったまま言うもんだから、俺に対して上目遣いになっている事に気付いていない。危うくゴクリと唾を飲んでしまうところだ。そこからだと俺の喉仏が動くのが丸見えなもんだから、「俺って勉強熱心だから」と言ってすんでのところで誤魔化した。



先生との待ち合わせは資料室にした。あまり生徒が頻繁に立ち入る場所じゃないし、誰にも邪魔をされずに白石先生と勉強出来そうだったから。
試験期間中は部活の時間がほんの少し短くなるので、夕方の時間を指定した。部員たちは部活が終わったのに後者に戻る俺を不思議がっていたけど、適当に忘れ物とかなんとか言って誤魔化したので大丈夫。


「あっ、天童くん」
「はいはーい」


先に資料室に入っていた俺に気付いて、先生は小走りで駆け寄ってきた。校舎の中は走るの禁止なんだけど、俺は心の中で笑うだけに留めた。


「お待たせ」
「大丈夫。忙しかった?」
「ちょっとだけね…でも大丈夫」


もしかして本当に忙しかったのだとしたら申し訳ない事をした。テストを作ったり、もしかしたら俺の想像も出来ない色んな業務があるのかも知れない。が、今更そんな心配事が出てきたけどもう遅い。


「で、どこが分からないの?」


ノートや筆記用具を用意しながら先生が言った。俺も同じように、鞄の中からあるものを用意した。


「じゃーん。これ俺のテスト範囲」


出したものはテスト範囲の書かれたプリントである。その中の日本史の枠を指さして見せると、白石先生は身を乗り出してそれを見た。


「これ…日本史」
「そー」
「あれ、私言ってなかったっけ…世界史担当で、まだ日本史は」


ほかの学校はどうだか知らないけど、うちでは歴史を教える先生は日本史と世界史の両方を担当する。だけど新しいうちはどちらかしか受け持たない。俺の授業を持ってくれている小野先生はベテランなのでどちらも大丈夫だけど、白石先生は言わずもがな世界史だけだ。
でも、そんなのは全く関係ない。だからそれを知った上で頼んでるんだよと伝えてみたけれど、白石先生は遠慮がちに言った。


「でも私、そんな大事なこと…責任持てないよ。小野先生に頼んだら?」


頑なに俺に教えようとしてくれない。困らせちゃってるなぁ俺。だけどどうしても白石先生じゃないと、わざわざ資料室まで足を運んだ意味がなくなる。


「白石先生がいい。じゃなきゃ勉強したくない」


強引で卑怯な脅し文句だと自分でも思う。実はこれで駄目なら諦めようと本気で考えていた。しかし優しい優しい白石先生はやっぱり、俺のような熱心な生徒を追い返そうとはいないのだった。


「…ちょっとだけだよ」
「やったあ!」


ごめんね先生、ありがとう。本当の目的は白石先生と二人きりになる事だけど、勉強は真面目に取り組むからどうか許して欲しい。
俺はなるべく雑念を捨てて、勉強の事だけを考えるようにした。まあ雑念、捨てきれているかどうかは聞かないでもらいたい。意図的に捨てられるなら苦労しないんだから。
とは言え白石先生の時間を奪っている自覚はあるし仮にもテストを控えているので、きちんと先生の話を聞いた。


「ええと…あ、これ。滝口の武士、北面の武士、西面の武士…は、似てるから確かよく出てくるの」
「へーえ」
「暗記しちゃうしか無いんだけど、センター試験でも出るかも」
「そうなんだ」


さすが一度大学入試を経験した人の話は有難い。俺も一応四大には行くつもりなので、そういう情報は有益だ。


「あとね、あ、図録持ってる?」
「うん。ロッカーに入れっぱなしだけど」
「置き勉?」
「いちいち持ってくんの、重いんだもん」


本当は学校への置き勉は禁止されているけど、図録とか辞書とかの重いものに限っては暗黙の了解ってやつ。だから先生は少しムッとした顔をしたけど、それについては深堀される事は無かった。


「…覚えられそう?」


ひと段落したところで白石先生が言った。


「うん。ちょー分かりやすい」
「本当?」
「ほんとー」


俺は元々日本史が好きなほうだし白石先生のことも好きだから、話はしっかりと頭に入った。もっともっと勉強を続けたいくらいだ。


「よかった」


先生は安心した様子で胸をなで下ろしていた。専門じゃない内容を突然やらされたんだから無理もないか。しかも高校三年生の受験生に向けて。白石先生の貴重な時間を貰っただけでなく、神経まですり減らしてしまったらしい。
しかし先生は急にハッとして、気の抜けた顔をやめた。


「あ…ごめんね、なんか天童くんのこと練習台みたいにしちゃって」


それを聞いて、俺もハッとした。その手があった。俺と白石先生のどちらにも利益が出る方法が。


「ねー、先生」
「なあに?」


先生はまだ気付いていない。気付くはずもない。なぜ俺がここまで白石先生にこだわっているのかを。そろそろ気付きそうなもんだけど、仕事が大変な今はそんな余裕が無いのかもしれない。それなら俺は先生の余裕を増やしてあげなくちゃ。先生が早く一人前になれるように手伝ってあげなくては。


「俺でよかったら、いつでも練習台に使っていいよ」


これってすごくナイスアイデアだ。白石先生は教えるのが上手くなるし、俺は白石先生と過ごせる時間が増える上に勉強まで見てもらえる。しかも先生の「練習台になる」という事で、さも味方であるかのように恩を売る言い方。
最低最悪なこのアイデアは、心を読める人間ならば幻滅するだろう。だけど先生にはそんな能力備わっていないから、心から「ありがとう!」と感謝されてしまった。…それはそれで罪悪感。