05
やわらかに責める鼓動


ショッピングモールでの職業体験も無事に終わって、ゴールデンウィークには厳しい厳しい合宿があり、しばらく白石先生を見かける機会は減っていた。
職員室に行けば会えるのだろうけど、ゴールデンウィークの間も研修とか会議とか勉強会があるらしくて、あんまり邪魔をしちゃ悪いかなと思ってしまったのだ。俺にしては珍しく他人に気を遣っている。そうでなくてもそろそろ最後のインターハイに向けてもうすぐ予選が始まるし、練習がハードになってきた…と言うよりはレギュラーの座を奪おうとする部員に気合が入り始めたので、俺がボンヤリしてたら駄目かなぁなんて。
そんなの考えた事も無かったのに、この二年で随分と真面目になったもんだ。


「若利、日本史の宿題やった?」


ある日曜日の朝、若利くんに質問をしたのは隼人くんだった。この二人は羨ましい事にクラスが同じなのである。


「一応やってある」
「マジ?うわ、俺も夜やらないと」


若利くんはきちんと宿題を終えていたらしく、まだ手を付けていない隼人くんが悔しそうにしていた。
味噌汁を飲みながらその会話を聞いていた俺も、今週末は何か宿題が出ていたっけ?と思い返してみる。と、嫌な事を思い出した。


「やば。俺も日本史の宿題出てた」
「覚のクラスも小野センセーだっけ?」
「そう」
「じゃあ一緒だわ。レポート書けってやつだろ」


その通りで、とある歴史上の人物について簡単なレポートを書いて提出しろと言われているのだった。「簡単な」ってどの程度の仕上がりにすればいいのか難しいけど、適当すぎると絶対に怒られる。小野センセーはそういう提出物を隅から隅までちゃんと読む人なのだ。


「どうする、一緒にやるか?」
「うーん…」


隼人くんとはクラスが違うとはいえ、同じ内容を書くわけには行かないし。でも一人だとモチベーションが上がらない。かと言って二人で居ても雑談をして進まない気がするな。

悩んでいたら獅音くんが「一緒にやってもたぶん意味ないぞ、それ」と微笑みながら去って行ったので、諦めて個々でレポートを書く事にした。



全体での練習が終わったのはその日の午後三時。今からは基本的に自主練習で、いつもは俺もそれなりに自主練をするんだけど今日はいったん抜ける事にした。まずは宿題を終わらせて安心してからじゃなきゃ、集中できない気がするから。

着替えるのは面倒くさいので練習着のまま寮に戻り、日本史の勉強道具と配られたレポート用紙だけを持って資料室に向かった。白鳥沢には図書室とは別に、授業やその他の勉強に役立ちそうな本が並ぶ資料室という部屋が存在するのだ。自らそこに足を踏み入れるのは一年の時以来である。まああの時は道に迷って入り込んだだけなんだけど。

ノックをするかどうか迷ったものの生徒は自由に出入りできる部屋だし、何もせずにゆっくりとドアを開けてみた。人影はない。日曜日の午後だし当たり前か。でも、誰にも邪魔されずに好きな棚を漁ることが出来そうだ。
ラッキー、と口笛を吹きそうになるのを我慢して手頃な席がないか探していると、窓際の端っこに誰かが座っていた。というか、座ったまま突っ伏して眠っているように見える。


「……白石せんせ?」


見覚えのある後頭部と鞄、「白石」と書かれた手帳があるので確信を持って名前を呼んでみた。寝てるから返事はないかも知れないけれど。でも、こんなところで寝てるのを生徒に見られるのって良くないんじゃないかなと思ったので。


「せんせー」
「んー…?」


もう一度声をかけてみると、やっと先生は反応を見せた。しかしまだ自分がどういう状態で、誰に声をかけられたのかは分かっていない様子。


「……だれ…?」
「サトリですよー起きてくださーい教頭にチクリますよー」
「チク、っ!?」


それでやっと飛び起きた白石先生は、漫画みたいに頭からいくつかの髪が跳ねていた。
けれどそんなのお構い無しで左右を見渡し、真横に居る俺を見上げてギョッとしていた。


「天童くん!?やだ私寝てた?」
「完全におネムだったね」
「うそ…ごめんなさい」
「なんで?俺はべつにいーよ」


白石先生が寝ていようが起きていようがどっちでもいい。もし他の先生が寝ていたとしてもわざわざ「あの人寝てましたよ」なんて誰かに言おうとは思わない。でも、新人で真面目な白石先生は青い顔をしてもう一度ゴメンナサイと謝りながら、やっと髪を手ぐしで整え始めた。


「それより先生、ここで何してたの」
「私は勉強を……天童くんは?」
「宿題やりに来た。ここのが集中できそうだから」
「へえ、偉いんだね」


未だに頭から変な毛が跳ねているのに、先生はにこりと笑ってみせた。けれど女の人が男に見せる甘えたような顔じゃなく、教師が生徒に向けて「凄いね」「やるじゃん」と褒める時のそれ。褒められるのは嬉しいけど、あまり心には響かない言葉だった。
でもせっかくここには誰も居ないみたいだし、俺は先生の隣の椅子を引いて座ってやった。


「センセーは、先生なのに勉強すんの?」
「うん。まだまだ覚えなきゃいけないこと沢山あるから…」
「白鳥沢のこと?」
「それもだけど、教え方のこととか色々…私って要領が悪いから」


開かれたノートをちらりと覗くと、自分の教科書に沢山書き込みしてあるのが見える。生徒にどんな教え方をするべきか試行錯誤しているかのような。つとむは「分かりやすい」って言っていたけどなあ。

「学校の先生になる」というのがどれほど大変なのか分からないけど、無事に教師になれたとしてもそこがゴールでは無いんだな。と、俺は感心していたんだけど先生はいきなり慌て始めた。


「…あ!ごめんなさい私、生徒さんに向かって弱音なんか」
「だからいいんだって俺は」
「良くないよ!私が良くない!そういうのしないって決めたんだからっ」


「そういうの」って、生徒の前では「教師」として存在しておこうという事だろうか。既に俺の目にはただの先生として映っていないのに。

でもいくら白石先生に好意があるからって、仕事を邪魔したくはない。俺だって自分の中のコレをどう整理したら良いか分からないのだ。だから今はまだ、先生との会話を楽しむ程度の事しか考えていない。


「白石先生って、どうして俺のクラス見てくんないの?」


けれど、もし自分の授業を担当してくれるのが白石先生だったらなぁと思う。受け持つクラスってどうやって決められるんだろう?と聞いてみると、先生は答えづらそうに目を泳がせた。


「…天童くんは三年生だったっけ」
「だよ」
「そうだよね…あのね、 一年目は受験生の授業は任せてもらえないらしいの」
「へえー」
「だから大事な授業も出来るようにならないと…」


将来に大きく関わる高校三年生の授業は、確かに新任の先生には荷が重そうだ。特にうちは進学校だから、大学への進学率だってウリにしているはず。でも難関大学なんて目指していない俺には、あんまり関係の無い事だ。


「俺、白石センセが教えてくれるなら真面目に勉強するのにな」
「あれ、今は真面目にしてないの?」
「してるよぉ、してるけど」


そういう意味では無いんだけど、勘づかれる事を言ってもいいものかどうか。
もうちょっと攻めてみようか迷ったものの、困らせたいわけでは無いからやめておく。その代わり、ちょっと気になっていた事を聞いてみよう。


「…ていうか先生、朝から晩まで仕事して休みの日まで学校来ちゃってさ。そんな事したらカレシに愛想尽かされるんじゃない」


恐らくこの人には恋人なんて居ない。雰囲気で分かる。男ウケなんて考えてなくて、失礼だけどモテた経験も無さそうな「真面目ちゃん」を絵に描いたような人。
でも万が一って事もあるもんなと思ってカマをかけてみたら、案の定先生は軽く否定した。


「ヤダなあ、彼氏なんて居るように見える?」
「いつから居ないの?」
「えっと…大学の……」


そこまで話して先生の口は止まったが、俺にとっては充分だ。一応男と付き合った経験はあるんだっていうのが分かったから。
そりゃあ本音を言うと詳細まで聞きたかったけど、先生はごほんと咳払いをして「教師」に戻った。


「…言えません!」
「えー」
「えーじゃない」
「なんで?俺が生徒だから?」
「それもあるけど、そうじゃなくても!誰にも言いませんっ」


もし俺が先生の親友だったなら話してくれるくせに。俺は親友になりたいわけじゃないので今は諦めよう、そのうちポロリと喋ってくれそうだから。そのためにはもっと白石先生に心を許してもらわなきゃ。


「彼氏が居ないんならさ、別の土日に予定入れちゃっても大丈夫?」
「予定?」
「バレー部の応援とか」


だから俺はまず、俺を知ってもらおうと考えた。自分の事をプレゼンテーションするのは得意だと思うけど、頑張ってる姿を見てもらうのが一番手っ取り早くて、先生の心を掴めそうな気がしたから。
はじめはキョトンとしていた白石先生だけど、間もなくインターハイの予選が行われる事・その公式戦に誘っている事を説明すると目を輝かせた。


「…え、いいの?」
「いいのっていうか、結構みんな来てくれるよ。他の先生とか」
「え!そうなんだ」
「机に向かってばっかだと頭痛くなんない?気晴らしだと思ってさ」


自分の姿を見て欲しいのは勿論だし、先生が眠いのを我慢してまで休日に勉強しているのも見ていられないし。それが白石先生自身の為であったとしても。
だからたまには大きな会場で大きな声で応援してみればと提案すると、先生は 頬をたこ焼きみたいにして笑った。


「行ってみたい!いつ?」


その顔、もう「教師」の仮面が剥がれてるよ。って言おうと思ったけど、俺の前でこうして白石すみれそのものが現れてくれるのが嬉しくて、内緒にしておいた。

たぶん見に来てくれた試合に俺は出るし、白鳥沢は勝つだろう。その時に先生が俺を教師の姿を保って褒めるのか、思わず素になって褒めちゃうのか、それが楽しみだ。
先生を素にしちゃうような凄い試合を見せなきゃ。若利くんにも頑張ってもらおう。