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親子丼定食・本当は七百円


このまま白石さんへの気持ちをずっと隠しておくべきか考えた。無事に排水ホースが洗濯機とつながれば、もう彼女はコインランドリーに来る事は無い。俺が白石さんの家に上がる事も呼ばれる事も無い。ただ大学のキャンパスで時々すれ違って会話をするだけ。
無駄遣いできないから白石さんの働くファミレスにだって頻繁に行く事は出来ないし、出来たとしても通いすぎたら怪しまれるだろう。それに、バイトの邪魔はしたくない。白石さんの足を止めてわざわざ俺の席で話すのは良くない。と、分かっているのに。


「いらっしゃいませー」


俺の足は自然と白石さんの働くファミレスに向かい、自動ドアをくぐってしまっていた。

昼間学校の食堂でゆっくりと話す事が出来なかったせいか、俺はどうしても白石さんに会いたくなっていた。別れ際に控えめに手を振ってくれたのが嬉しくて、午後の授業ではずっと白石さんで頭がいっぱいだったのだ。
彼女の耳に俺たちの会話は届いていただろうか。「理想の出会い方」が何なのかと聞かれた俺はコインランドリーだと答えた。白石さんが驚いたのを見て最初は「まずい」と思ったけど、聞こえていればよかったのになと思う。
俺の気持ちをどれだけ支配して、どれだけ日常生活に支障をきたしているか知ってほしい。どれだけ俺に好かれているのか。俺がどれほど白石さんだけを見ているか。…いけない、また犯罪者みたいになってきた。


「赤葦くん、いらっしゃーい」


バイト中の白石さんが俺の席までやってきた。
手にはオーダーを取るためのリモコンらしきものを持っていて、メニューを開いている俺に「これが期間限定だよ」と近づいて指さしてくる。その時ポニーテールにしている髪が垂れてきて俺の頬をくすぐった事には気付いていなさそうだ。


「もうちょっと悩む?」
「…うん」
「そっか。決まったらそれ押してね」


白石さんは各テーブルに設置された呼び出しボタンを指して去っていった。前回俺はこのボタンを使わなかったし、今回も使うつもりが無いのを彼女は知っているのだろうか。

無意識にファミレスに入ってしまったとはいえ、お腹は空いている。だからメニューをめくってみたけれど頭に入ってこなくて、どうすればいいか分からなかった。
俺は食事をしに来たんじゃない。白石さんと話したい。でも腹減った。どうしてしまったんだ俺は。


「白石さん」


結局食べるものが決まらないまま、近くを通った白石さんを呼び止めてしまった。これを逃したら、また白石さんがこの通路を通ってくれるかどうか分からないじゃないか?ファミレスは案外広いのだ。


「注文?」
「うん」
「押してって言ったのに」
「うん…」


そんなに直接俺の注文を聞くのが嫌か。そんな事思われていないだろうけど、ここ最近白石さんの事ばかり頭にあるせいか偏った思考も増えてきた。


「……赤葦くん?どうかしたの」


なかなか注文をしない俺に痺れを切らしたのか、白石さんがテーブルをトントン叩いた。
今日も彼女は他のお客さんに接するのと同じように膝を付いていて、つり目ぎみの猫目が俺の間抜けな顔を捉えている。
そんな目で見られたら上手く話せない。ただでさえ注文が決まっておらず反射的に呼び止めただけなのだから。


「…ごめん。前と一緒のにする」
「前…あ!ハンバーグ」
「そう」
「かしこまりましたー」


白石さんは注文をリモコンから送信すると、立ち上がって別の席に行ってしまった。前に俺が何を頼んだのか覚えてくれていたのは嬉しいのだが、少しの雑談も出来ないなんて。いや、白石さんは仕事中なんだから無駄話の暇は無いんだけれども。


「……なにやってんだ…」


自分が自分じゃないみたいってこういう事を言うのだろう。とりあえずメニューを閉じてスマホ取り出し、最近ダウンロードした新しいゲームを起動させた。ゲームがしたいわけじゃなく、気を紛らわせたいだけなのだが。
しかし俺は画面を見ているはずなのに、どうしても視界の端にチラチラうつるウエイトレスの姿を毎回確認してしまう。あれは白石さんだ、でも今度は違う人、また白石さんが近くに来た、ああ別の人が横を通った。このエンドレス。
自分でも信じられないほど馬鹿馬鹿しい事を考えていると思う。でも、どうしても白石さんが近くに来ていないか気になってしまうのだ。

それなのに、そのうち全く白石さんが現れなくなった。キッチンに引っ込んでしまったのか?それとも休憩だろうか。
何度目か分からない溜息をついて、俺はゲームを終了させた。はじめからゲームなんか興味が無い。
ついに画面を下にしてスマホを置き、窓の外を眺めることにした。外の道沿いを歩く人を見るほうが、ゲームをするよりずっと気が紛れるかも知れない。事実は小説よりも奇なり、みたいな感じで。

その時どれくらい時間が経ったのか、待ちわびたものが現れた。ハンバーグではない。 ハンバーグを持った白石さんだ。


「お待たせー」
「ありが………」


思わずそこで声が止まった。
白石さんはさっきまで着ていた制服ではなく私服に着替えているではないか。黒いリュックを背負い両手にそれぞれハンバーグ定食、親子丼を持っている。そのうちハンバーグのほうを俺の前に置いて、向かいに親子丼を置いた。それからリュックを下ろしたかと思えば向かいに腰掛ける。
一体何が行われているのか分からなくて、その流れを見ながら聞いた。


「……どうしたの?」
「今日はもう上がりなの。賄いでーす」
「え」
「ここで食べていい?」
「え…?」


白石さんは俺の了承を得る前にもうそこに座っている。もちろん断るはずは無い。かろうじてウンと頷くと白石さんはニコリと笑って、おしぼりで手を吹いた。

とりあえず落ち着こう。突然好きな女の子がさっきまでひとくくりにしていた髪を下ろして私服になって、二人分の料理を持って同じテーブルに腰掛けているけれど落ち着こう。髪の毛をゴムでくくっていた跡がついているのがまた可愛いけれど落ち着こう。

落ち着くには、そう、別の事に意識を向けなければならない。
そうだせっかく運んで来てくれたんだからハンバーグ定食を食べようとテーブルを見下ろせば前回と全く同じ盛り付けがしてあった。という事はつまりライスが多いのだ。また大盛りにされている。


「……ありがとう」


手をつける前に言うと、白石さんはちょうど一口目を食べようとしているところだった。あーんと口を開けた状態のまま静止してしばらく目が合い、首を傾げて一言。


「なにが?」
「今日も大盛にしてくれてるよね、ライス」
「あっ。さすがだね、気付いた?」


それから白石さんはぱくりと親子丼を口に運んだ。
気付いたとか気付かないとか言うよりもライスを多く盛ってくれた事、そして「気付いた?」という得意げな顔、何から何まで俺の予想の上を行く。言葉の出ない俺には構わず箸を進める白石さんは、二口目を飲み込むと満足そうに言った。


「美味しー」


アルバイトを終えてから味わうご飯は格別だろう。俺も白石さんの顔を見ながら食べるハンバーグは格別だと言いたいところだが、あいにく味わっている余裕は無い。味わっているフリをするだけで必死である。味がしないのに「うん、おいしいね 」と答えてしまった。


「そういえば赤葦くんとこうやって話すの、っていうかご飯食べるの初めてだね」
「そうだね」
「普段ちゃんと食べてるの?」


俺がファミレスや学食以外でまともな食事をしていないと思っているのだろうか。だとしたらファミレスに通う口実が出来るなあ、と思ったが経済的理由によりそれは不可能だ。

やっと「目の前で白石さんが幸せそうにご飯を食べる」光景に適応してきた俺の脳は別の事を考え始めた。そうだ、洗濯機の話をしなければ。


「お父さん、いつ来るの?ホース直しに」
「んーとね、今週末」
「今週末…」


今週末になれば家の洗濯機が使えるようになり、コインランドリーには来なくなる。
その事実のせいで、今こうやって向かい合って話せているのに気分が落ちてしまった。白石さんが持ってきてくれた料理の味も、またもや感じられなくなるほどに。
もっと白石さんと話をしたいし、誰も居ないコインランドリーで「今日は会えるかな」と外の様子を眺めて楽しみたいのに。


「寂しいんでしょー、私と会えなくなるのが」


突然俺の心の声が白石さんの口から聞こえてきたので、口元からライスがこぼれ落ちてしまった。


「…え?」


会えなくなるのが寂しいだなんて、どうして知られてるんだ。もしかして俺の気持ちがバレている?もしくは一人でコインランドリーにも行けないような根性無しだと思われている?それは無いか。
何故そんな言葉が出てきたのか固まってしまったけれど、白石さんはそんな事に気付いていなかった。


「なーんてね」
「え……」
「赤葦くんはそういう感情無さそうだもんねー、あ!でもホームシックはあったんだっけ」


どうやら全く本気ではなく冗談で言った言葉だったらしい。そう言えば初めて会った頃も同じような事を言われた。赤葦くんってホームシックになるんだね、傷ついたりするんだねと。


「どしたの?」


無言になった俺に気づいて白石さんは箸を止めた。
俺にだって人並みの感情は備わっている。突然親と離れればホームシックにもなる。心外な事を言われれば傷付きもする。好きな女の子と会えなくなるのは寂しいと感じる。


「寂しいよ」


だからそのまま口にした。言うつもりは無かったけれど、不思議と焦りは感じない。俺は寂しい。今はそれだけを伝えたいのだ。


「…なにが?」
「白石さんと会えなくなるのは」


白石さんはとうとう箸を置いてしまった。カシャンと小さな音がして、それを境にこのボックス席だけが隔離されたかのように無音となる。


「何言ってんの…?」
「直ったらもう、あそこには行かなくなるよね。白石さん」
「そりゃあ…」
「それなら一生直るなって思ってるよ俺は」


ああ軽蔑されるな、これは。
そう思いながらの言葉だったけど、撤回する気にはならない。どうせ俺は一度、白石さんに軽蔑されてもおかしくない嘘を吐いているのだ。直せるはずの洗濯機を直さなかったのだから。


「…赤葦くん…?」
「俺たち、あそこだけが二人で会える場所だったよね」
「どういう意味、」


さっきまで白石さんの姿を直視出来なかった赤葦京治はどこかに消えた。今は自分でも嘘みたいにまっすぐ、瞬きすらもままなない白石さんを見つめている。
しかしこのまま俺は告白するのだろうか、したほうがいいのか?それを考えた瞬間に変に冷静になってしまって、ずっと合わせていたはずの視線を俺から外してしまった。


「…ごちそうさまでした」
「あ、えっ」


幸いすべて食べ終えていた定食のうち、少し残っていた味噌汁だけを一気に飲み干した。お椀を置いて口を拭き、持ってきた鞄を肩にかけ伝票を取る。座ったまま硬直する白石さんは俺が立ち去ろうとするのを見て小さな声を出したけど、申し訳ない。俺、今は頭がどうかしてるんだ。


「ごめん。気にしないで」


こんな馬鹿げた捨て台詞があるのか甚だ疑問であるが、とにかくこれしか浮かばなかった俺はそのままレジへと向かった。あろう事か白石さんが「赤葦くん!」と呼び止めるのを無視してまで。