同じクラスの御幸一也は野球部で、とっても忙しいけれど素敵な人。その男と付き合う事が出来るのはとても貴重で嬉しくて、周りからも「御幸くんと!?凄い」なんて祝福されたものだった。しかしそれは、次第に「野球部って自由時間ないよね」「デートできないね」「つまんなくない?」という声に変わっていった。

確かに普通の男子みたいに、休日に二人でデートをするのは難しい。でも、それを補って余りあるくらい一也との交際は私にとって実のあるものだった。だから付き合って初めての一也の誕生日には、前々からバイト代を貯めて用意していた御守りと、バッティンググローブを用意してお祝いしようと思っていたのに。


「あんた、学校行くつもり!?」


十一月十七日の朝、いつも通り家を出ようとした私にお母さんが言った。行くつもりも何も、もう出発しなければ遅刻してしまう。だからお母さんの制止を無視して玄関のドアを開けようとしたけれど、先にお母さんに回り込まれた。


「どいてよ」
「駄目!悪化するよ」
「いいもん」
「馬鹿言わない!」
「行かせてよ」
「駄目!人に移したらどうするのっ」


学校に行きたいと言う娘に、行くなという母親。こんなの絶対に間違っている!
…と思うけど本当は私、学校を休むべきだと思っている。だって今朝起きたら足元がふらついていて、トイレで吐いて、朝ごはんも食べられず、熱を測ったら三十八度を超えていたのだ。


「欠席しますって電話したからね。着替えて寝なさい」
「……」
「返事!」
「はあ〜い…」


せっかく制服を着て、一也へのプレゼントも鞄に入れていたのに部屋の中に逆戻り。脱いだばかりのパジャマを着ていると、お母さんが飲み物を持ってきてくれた。「それ飲んで大人しくしてなさい」と。
大人しくなんか出来ない。今日は一也の誕生日だと言うのに。

しかし、気持ちはとても行きたいのに身体が言う事を聞かなくて、立っているだけで頭がくらくらしてしまう。せめて頭痛が治るまではまともに動けそうにない。


『ごめんなさい。風邪ひいた』


ベッドに入ってから、今日誕生日のお祝いを約束していた一也に、お詫びのメールを入れてみた。今はちょうど朝練が終わった頃だろう。一也はあまり携帯をチェックしない人だけど、今日はすぐに返事が返ってきた。


『大丈夫?』


たった一言しか書かれていないが、なんとまあ彼らしい。横になれば多少は楽だったので、私はすぐに返信した。


『大丈夫なのに、休めっていわれた』
『当たり前だろ』


当たり前だろって。いや、当たり前だけど。今日はあなたの誕生日ですよ?あなたのために行きたいんですよ?
でも一也は人一倍健康に気を遣い、自分にも他人にもとても厳しい。だからこれは私を怒らせるためではないのだと、かろうじて理解出来た。


『ごめんね。楽になったら行く』


どうしてもプレゼントは当日に渡したい。この気持ちよ伝われ。
そう思って送ってみたけれど、一也からは『そんなのいいから。寝て治して』としか返ってこなかった。一也なりの気遣いなのだろうけど。
それからはもう朝のホームルーム開始時刻になっていたので、私は送るのをやめておいた。携帯を枕元に置いて目を閉じると、頭が少しガンガンする。それなのに睡魔が襲ってきて、すぐに眠りについた。

そして、どれくらいの時間が経ったのだろう。目が覚めると私は凄い汗をかいていて、居心地が悪くて起き上がった。
熱を測るとまだ三十八度。全然下がっていない。でも頭痛は今朝よりも治まっている気がして、とりあえず身体を拭きたくて一階に降りた。


「…お母さん?」


家の中はとても静かだった。台所にもリビングにもお母さんの姿は無い。時計を見ると午後二時で、どれだけ眠っていたんだろうとびっくりした。


「買い物かな…」


四時からはお母さんの好きなワイドショーが始まるから、それまでに買い物を済ませようと出掛けているのだろう。
冷蔵庫に入っていたお茶を飲んで、バスタオルで汗びっしょりの身体を拭いた。そうしていると、意外にも身体の調子が良い事に気付く。熱はあるけど、腹痛も無いし頭痛も無い。もしかして私、ちょっとくらいなら動けるのでは。


「………」


本当はこんなの、良くない事だ。お母さんにも一也にも寝ていろと言われた。でも今日は初めて一也の誕生日を祝える日。このためにバイトを頑張ってお金を貯めたのだ。これプレゼントだよ、と渡した時にどんな顔をしてくれるかな?それを想像しながら、この数ヶ月は頑張れた。

お母さんごめんなさい。心の中で呟いて、私は部屋に戻って制服に着替えた。プレゼントを渡したらすぐに帰ってくるから、どうか許してください。



家から学校までは片道三十分弱。駅まで歩いて電車で十分、電車を降りてまた学校まで十分。この三十分の間くらいは我慢できるだろうと思っていた。実際、電車を降りるまではなんの問題も無かった。


「……っしゅん!」


学校の最寄まで着いて歩き出すと、急に身体が冷え始めた。
さっきまでこんなに風が強かったかな。それとも、午後三時を回って急に気温が下がってきた?一応マフラーをしてきたもののそれだけでは足りなくて、亀みたいに首を引っ込めて歩く羽目になった。


「さぶ…」


手を擦り合わせても全く変わらない。一也へのプレゼントを抱きしめるように抱えている事だけが、今の私の動力源であった。その甲斐あって無事に学校に到着し、私は真っ直ぐに野球部のグラウンドへ歩いていた、が。


「う…」


そのあたりから、急に腹痛に襲われ始めたのだ。どうして?今朝は頭痛しかなくてお腹は平気だったのに。きりきりと何かで抉られるような強い痛みに、思わずその場にしゃがみこんだ。


「……っい、っ」


さっきまでなんとも無かったのに。こんなにお腹が痛くなるなんて初めてじゃ?そのくらい辛くて、でも一也へのプレゼントを地面に置くのだけは避けようと手に持っていた。普通こういう痛みって波があるはず。早く治まれ、早く。
しかし一向に痛みが引かず、私は顔を歪めたままその場に座り込んでいた。


「大丈夫ですか!?」


もう少しで横たわってしまうかも。そう思っていた時、誰かの声がした。
歪んだ視界にスカートと、そこから生える二本の脚が見えたので女の子だと分かった。膝を付いて私を抱き起こそうとしているのを感じる。ああ申し訳ないな、知らない子の膝を汚してしまった。


「…へ…へーき…で…す」
「大変…誰か呼んできます」
「いや、」
「じっとしててくださいね!」


そう言って、その子は立ち上がりどこかに走って行った。
言われなくても動く事が出来ないのでじっとしているしか無い。もう目を開けておくのも辛くて、瞼を落とすと強い風が吹くのを感じた。
一也やお母さんの言う通り家でじっとしていれば良かった。でも私、少し外に出るだけでこんなに悪化するなんて思わなかったんだもん。


「……」


次に目を開けた時には全く違う場所に移されていた。青道高校の保健室だ。カーテンで遮られているせいで、近くに誰が居るのか分からない。
私はここに自分で歩いてきたんだっけ、それとも誰かに担がれたんだっけ?天井を見ながら思い出そうとしていると、部屋の外から声が聞こえてきた。


「はい、大丈夫です。すみません、じゃあ」


その声を聞いて、思わず飛び起きそうになった。御幸一也のものだ。
「起こさないでね」と一也に注意を促す声は保健室の先生で、先生らしき足音は遠ざかっていくのを感じた。という事は保健室の前にはもう、一也だけ。それに気付いた時にはもう、ゆっくりと戸が開けられる音が聞こえていた。


「……一也?」


カーテンの向こう側に向かって呼び掛けると、一也が「あ」と小さく呟いた。それから恐らく足の向きを変えてこちらに近付き、私を隔離していたカーテンをゆっくりと開いた。


「起きてたのか」


現れた一也は部活中にそのままやって来たような、泥だらけの練習着であった。それを見ただけで私は今日、無理してきた事を更に後悔してしまった。わざわざ練習を抜けて来たのかも知れない。


「熱は」
「下がった…かも。さっきよりは」
「そっか。さっき先生が薬飲ませてくれたって言ってた」
「そうなんだ…気付かなかった」


解熱剤を飲んだ事すら覚えていないほど、私の意識は朦朧としていたらしい。でもそのおかげで今はどこも痛くなく、身体が少し重く感じる程度であった。
謝らなくては、来てしまった事を。それから言わなくちゃ、誕生日おめでとうって。


「なんで来たの?」


何から言おうかと思っていると、先に一也が口を開いた。しかも私が予想していたより低く冷たい声で。


「…え」


本当に私に向けて発された言葉なのか信じられなくて、ベッドの脇に立つ一也を見上げた。眼鏡の奥に見えるふたつの瞳はいつものように私を写しているのに、見た事もないほど冷たい。怒っているの?と聞く事すら許さないとでも言うように。


「俺、寝てろって言ったよな。治せって送らなかった?」
「え……?」
「グラウンドの近くでぶっ倒れたんだってさ。うちのマネージャーが居なかったらそのまましばらく放置だぞ」
「……」
「分かってんのか!?」


固まる私に一也が叫んだ。まさかそんな事を言われるとは夢にも思わず、私は身体を震わせるばかり。この人はどうして怒ってるの?私が勝手に出歩いたから?でも、それを一也がここまで怒る必要ってある?私は一也の誕生日のために、頑張ってここまで来たのに。


「……なんで、そんなこと言うの」
「なんでって」
「私、一也の誕生日…」
「それは分かってるけど、その前に」
「ぜったい今日、お祝いしたいって思って」
「だからそれは…」
「一緒に居たかっただけじゃんか!」


さっきの一也に負けないくらいの声で、私も叫んだ。
馬鹿な事に、その自分の声がガンと響いて咄嗟に額に手を当てる。何やってるんだろう私。なんて事言ってるんだろう。取り乱した自らの声で我に返るとは。


「……ごめんなさい」


本当は分かっていた。家を出る時に罪悪感を感じた時点ですべて分かっていたのだ。
お母さんは買い物から帰ったら私が居なくて大慌てだろう。一也は自分の誕生日を祝うために大熱を出して外に出た彼女が、あんな所で倒れてしまって迷惑だろう。大人しくして、治ってからお祝いをすれば良かった。


「いや…俺も…ごめん」


一也は眼鏡に手を掛けながら言った。ずれていないはずの眼鏡を掛け直すのは、冷静さを欠いた時の彼の癖である。


「ごめんね…」
「ごめんって」
「いいもん謝らなくて私が悪いんだもん」
「謝るよ」
「いい」
「すみれ」


ずっとそこに立っていた一也が、そばにある椅子を引いて座った。
いつもそうだ。一也はいつも喧嘩をした時、私よりも先に折れてしまうのだ。


「ごめん、俺も言い方きつかったな」


それからどのようにすれば私の心が落ち着くのかを知り尽くしている彼は、汗でへばりついた私の前髪をゆっくりとはらう。それでもまだ落ち着かないと言うか、大人しく落ち着くのは癪と言うか。


「……きつかった」
「悪い」
「怖かった」
「悪かったよ。でも俺、女子が倒れてるって聞いて…駆けつけたらすみれが真っ白い顏して倒れてるし…動揺して」


一也も私が倒れたところに駆けつけてくれたんだ。そう思うと嬉しいんだか恥ずかしいんだか情けないんだか。


「そんなに無理してまで祝う価値ないぞ、俺の誕生日なんて」


心の底からそう感じているかのように、一也は肩を落とした。そんな訳ない。価値があるから私は身体に鞭打ったし、欲しいものを我慢してお金を貯めていたんだから。そんな事も知らずに自分の誕生日を「価値がない」なんて。


「…馬鹿。」


思わず出た言葉はこんな台詞で、だけど本気で一也を貶しているわけじゃない。一也もそれを分かっているようで、困ったように「えぇ、ショック」と笑ってた。


「ばかばかばかバーーカッ」
「ひどくない?」
「馬鹿!」


枕を一也に投げ付けて、落っことしそうになるギリギリのところでそれをキャッチする。こらこら、なんて言いながらそれを元の位置に戻す。どうしてあなたはそんなに完璧なの。どうしてそんな完璧な自分の誕生日を、蔑ろにするような事を言えるの。


「どうしても今日、お祝いしたかったの」


私の声は自分でもびっくりするほど涙声だった。声を出したら直ぐにでも泣いてしまうだろう。だから私は、無言でベッドのそばに置いてある紙袋に手を伸ばした。最後まで地面につかないよう守っていたつもりだけど、倒れ込んだ時に少し汚れてしまったみたい。それを見て少し残念な気分になってしまったけど自業自得だ。だから少しだけ指で汚れをはらって、紙袋を一也に渡した。


「これ、くれんの?」
「ん」


受け取った一也は「開けていい?」と言うので、私は頷いた。きっと喜んでくれると思って買ったものだから、一也の反応を見たい。
一也はリボンがぐしゃぐしゃにならないよう、包装紙が破れないようにゆっくりと開けた。そして中身を見た時に、一也の目は今日初めて輝いたように見えた。


「うわ。俺が欲しいって言ってたやつ」
「うん」
「本気?」
「うん。バイト代貯めた」
「まじかよ…自分のために使えよな」
「これが自分のためだもん」


一也の喜ぶ顔を見たかった自分のエゴ。一也のために頑張っている自分が可愛かった。だからこんなのはへっちゃらだ。ちょっとお菓子を我慢したり、可愛い靴下とかを買うのを控えるくらい。


「そういうトコ好きだけど、もっと自分を大事にしろよ」


バッティンググローブを袋に戻し、一也は小さな溜め息をついた。自分を大事にしろってダメ出しするだけじゃなく「そういうトコ好きだけど」と枕詞を付けるなんて、私の熱を沸点まで上げる気だろうか。


「…一也が大事にしてくれるからいいもん」
「えーちょっと荷が重いんですけど」
「してくれないの?」
「どうしよっかな」
「してくれないの!?」
「はははっ」


お腹を抱えて笑う一也の手の中で、紙袋がくしゃりと鳴った。もう怒っていないようだ。息が落ち着いたところで一也は思い出したように「あ」と話し出した。


「もうすぐお母さん来てくれるってさ。電話じゃチョー怒ってたけど」
「え」


やばい。超やばい。お母さん、私が学校に来ているのを知ってるんだ。そりゃあ体調不良の娘が突然消えたんだから大問題になっているだろう。一気に熱が引いてきた気がする。


「ちゃんと謝れよー」
「あ…な…、わ、わかってるし」
「ま、俺からもちゃんと言っとくから」
「何を?」


私は首をかしげた。もう薬を飲んで落ち着いているようです、とか?保健室で寝かせたので安心してください、とか?


「どうしても俺にプレゼント渡したかったみたいでスミマセンって」


眼鏡越しの目が三日月みたいな形になって、歳相応のいたずらっぽい顔が見えた。それって正しいけど絶対親に知られたくないやつ。絶対後から色々聞かれるやつ。
「それは内緒にして!」と頼み込んだけど、一也は高笑いして誤魔化すだけだった。

ちゃめっけミッション
御幸一也お誕生日おめでとう〜!