02
はじまる世界のささいなこと


高校生活最後のクラス替えが無事に終了し、一学期がスタートした。俺の席は前から三番目。さすがに受験生だから居眠りなんかするつもりはないけど、やっぱり教壇から近い席は憂鬱だ。そうでなくても座高が高くて目立ってしまうので、授業中には結構神経を使うのだ。


「若利くん、新しいクラスどう?」
「問題ない」
「それじゃ分かんないよ」
「そうか?」
「担任の先生だーれ?」


新学期はだいたいこんな話題で盛り上がる。若利くんと隼人くんは同じクラスになったみたいで羨ましい。仲の良い人が居るほうが、クラスの行事が楽しめそうだから。
その点俺はあんまり仲良しと呼べる人はクラスに居ないけど、良くも悪くも普通って感じだった。同じバレー部の部員も数人居るし。


「そういや、アレあるんだってよ。職業体験」


豪快にティーシャツを脱ぎながら隼人くんが言った。
職業体験、初めて聞く言葉ではない。何故ならさっきホームルームで概要のプリントを渡されたからだ。


「それって全クラスあるのかな」
「らしい。去年の先輩も行ってたろ、色んなところ」


よく覚えていないけど、確かに去年も一昨年も三年生が部活を休んでいる時があった。あれは職業体験に行っていたのか。
配られたプリントによると体験内容は様々で、ショッピングモールとか老人ホームとか、病院・保育園などなど。たぶん俺は病院は無理だろうな、老人ホームは英太くんが似合いそう。若利くんが保育園で子どもに囲まれているところ、見てみたいなあ。


「どこにしようかな〜。隼人くん一緒に保育園行かない?」
「俺は消防署にする予定」
「消防署!正義感強すぎ」
「かっけーだろ」


そうかそうか、皆いろいろ考えているんだな。そう言えば隼人くんは今後の進路、大学に行くか自衛隊の学校に入るか悩んでると言っていた。確かに自衛隊っぽい。大人になってもし何かに巻き込まれたら、隼人くんを指名して呼んじゃおう。

職業体験なんて非日常なイベントが近づいているという事で浮足立ってしまったけれども、そんな事で練習をおろそかにする俺では無かった。これでも白鳥沢で二年間、鍛治くんに鍛えられてきたのだ。新しく入ってきた一年生は鍛治くんの勢いに慣れない様子で、春休みから練習に参加しているのに未だビクビクしていた。無理もないけど。

そして、練習が始まったら始まったで俺はきちんと集中してしまうので、職業体験の事なんかすっかり頭から消えていた。言っておくけど忘れっぽいわけではない。練習に集中していただけである。
だから期限が三日後だと決められていたのに、職業体験の希望を書いたプリントを提出し忘れてしまった。


「天童、今日中に出しに来いよー」
「げ!わすれてた」


と、提出期日の放課後に担任に言われたもんだから超ギリギリだ。
部活に行く前に出したくて鞄の奥底にあったプリントを発掘してみると、まだ自分の名前すら書いていなかった。とりあえず名前を書いてから、箇条書されている沢山の職業・職場に目を通す。 第三希望まで書かなきゃならないのに、どれもこれもピンと来ない。


「……浮かばないな」


ペンを回しながら考えた結果、とりあえず第一希望だけは書いた。残りは適当な職業にチェックを入れただけ。早く部活に行かなきゃ鍛治くんに怒られてしまうからなあ。

早足で職員室に向かい、ノックをする前に自分の担任がどの席に座っているのか座席表を確認した。生徒と同じように、先生たちも毎年席移動があるらしいのだ。


「失礼しまー」


軽くノックをしてから戸を開けると、ちらほらと先生が席に着いていた。まだホームルームをしているクラスがあるのか、もう部活動に顔を出している先生が居るのか。担任は奥の席に座っていたので、職員室の中をずんずん進んで行った。


「先生、ハイこれお願いします」


先ほど書いたプリントを手渡すと、何かの作業をしていた先生が顔を上げた。


「ん。おお、第一希望が保育園?」
「うん」
「子どもの相手出来るのか」
「分かんないけど、自分への挑戦でーす」


なんだそりゃ?とひと笑いされて、周りに座っていた先生たちもクスリと笑って、満足した俺はくるりと振り返って出口に向かった。保育園って楽しそうだし、子どもがお昼寝してる間は暇そうじゃん?それに、若利くんにもメールで聞いてみたら「保育園」って返ってきたから。


「失礼しましたあ」


がらっと戸を開けて廊下に出、ゆっくりと閉める。これで期日のある提出物はもう無いはずだ。さあ部活に行こうと勢いよく向きを変えた時、死角にいた誰かにぶつかりそうになった。


「ひゃ」
「わ!ごめんなさ…」


時々俺は自分の身体が大きい事を忘れてしまうのだ。今回は思いっきり体当たりをする寸前で踏ん張ることが出来て、なんとか突き飛ばす事は免れた。しかしその人がビックリして後ろに跳ねたのが見えたので、一応様子を伺おうと見下ろしてみると、なにやら見覚えのあるお顔。


「…あの時の新人先生?」
「え…?あっ!」


目と口を丸く開けたその人は、先日体育館そばの渡り廊下で迷子になっていた先生だった。
あの時は凄く頼りなさそうと言うか、本当に先生なのか正直疑っていたけれども。こうして職員室の近くで教師っぽい服で現れたら、なんとなくそう見える…ような気がする。しかし相手も俺に対して同じ事を感じているようだった。


「本当に生徒さんだったんですか…」
「え。第一声それ?」
「はっ!ごめんなさい」
「いいんですってば。ていうか、先生のほうが年上でしょ」
「あ…そうだった」


先生はまだ緊張しているのか、まるで上司に接するかのように背筋を伸ばしている。それを見てなんだか心配になってしまった、この間ちゃんと目的地に辿り着けたのかどうか。


「あの後、すぐに戻って来れた?職員室」


俺は先生の方向音痴について、極めて失礼のないように聞いた。そんな配慮しなくても気にしなさそうな人だけど。


「ああ…うん。あの時は助かりました。ありがとう」
「どういたしまして」
「…ええと。あなたは何年生?」


新人先生は俺の姿を見上げながら首を傾げた。あ、そういえば俺、ブレザーにクラスバッジ付けてないんだっけ。邪魔になるから服装検査の時以外はポケットに入れているのだ。


「三年だよ。最高学年でーす」
「へえ、どおりで背が高いんだね」
「それ関係ある?俺バレー部だもん。大きいよ」
「えっ、」


意外だったのか、バスケ部だとでも思われていたのか、先生は再び目を丸くした。


「バレー部なの?うちのバレー部って優秀だよね」
「優秀どころかスンゴイよ〜。先生、まだまだ白鳥沢のこと勉強不足だね」
「う…お恥ずかしい…」


男子バレー部が有名である事は、入ったばかりの先生も知っているらしい。白鳥沢の教師になる時って、テストとかあるのかな。「我が校で一番力を入れている部活動は何か答えよ」なんちゃって。
その時、俺の後ろにある職員室のドアが中から開けられた。


「いたいた。白石先生、そろそろ会議始めますよ」
「あ!申し訳ありませんっ」


どうやらこの人を探すために開けられたらしく、新人先生はペコリ!と身体を曲げた。こんなにペコペコして、腰を痛めないのかな。
中から出てきた先生は会議前にトイレに行きたかったのか、職員室の斜め向かいにある男性用トイレに入って行った。


「会議とかあるんだ」
「まだ一年目だから勉強会とか色々…ってヤバ、そんなの生徒さんには関係ないね!ごめんなさい」
「だいじょぶだいじょぶ」


俺の事、生徒だと思っているのかいないのか。あんまり気を遣われるのも嫌なのでこのくらいで良いんだけど。それに、白鳥沢の教師陣はみんな良い人だけどお堅くて真面目な人が多いので、こういう先生は新鮮だ。


「白石先生だっけ?頑張ってクダサイねー」
「ありがとう。ええと…?」


白石先生はもう一度俺の胸元を見た。そこにはバッジが無いので名前を目で確認する事ができず、チラリと俺の顔を見上げる。バッジ付けとこうかな、今度から。


「天童覚!さとりでいいよ」


他の先生より歳も近いし、この繊細そうな先生が新しい職場で精神が参ってしまわないように、わざと俺は名前で呼ぶよう提案した。


「天童くんね。ありがとうね」


が、さすがに就職したてで生徒の名前を呼び捨てることなんて出来ないようで。先生は軽く手を振ってから職員室に入って行った。元々人を呼び捨てたりするのが苦手なのかも。
さとりで良いって言ってんのになぁと呟こうとしたけど、その前に我に返って時計を見た。やばい!部活行かなきゃだ!