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恋は芸術となり得るか


高校生活で、部活の次に充実していると思える時間であった。もしかしたら残りの何か月かでもっと凄い事が起きるのかも知れないけど。とにかくそのくらい、この約二か月間は色々な事があったのだ。
全部をやり切った他のクラスメートも晴れ晴れとしていて、その中でも白石すみれが最も輝いていた。

自分たちの出番を終えて最後に集合写真を撮り、各々が衣装を脱いで制服に着替えて行く。白石もこの日の為に用意された巨大な黄色いドレスを脱いでしまうらしかった。


「山形くん、もう着替えたの?」
「おー」
「わたしも着替えよっと」


せっかくだから最後まで着ておけばいいのに、とも思うけど。背中の編み上げを見れば脱ぎたい理由は納得出来た。きつく締め上げられているのだ。


「白石さん!白石さん」


そんな時、クラスの誰かが大慌てで駆け寄ってきた。その様子に驚いて何か事件でも起きたのかと思い、俺は腰を浮かせてしまった。


「どうしたの?」
「それ脱ぐのちょっと待ってほしくて」
「へ」
「ベストドレッサー賞出ようよ!今エントリー募集してんの!」
「!?」


息を切らして言ったのは、白石のドレスを丹精込めて作り上げた衣装係の女子だった。
これだけのものを時間をかけて作ったんだから、本番で一度着て終わりだなんて確かに勿体ない。が、着ている本人はそんなのとんでもないといったふうに両手をぶんぶん振った。


「えっそっそんなの無理だよ無理無理ぜったい無理」
「大丈夫大丈夫すごい衣装なんだから」
「衣装だよね?わたしじゃなくても良いんじゃ」
「白石さんに合わせて作ったんだから他の人が着ても微妙だよ」
「えええ」


今着られているこれは、白石の身長や体型に合わせて造られたオーダーメイドってやつ。しかも白石は劇のためにきちんとメイクもしていて、髪型だって衣装にぴったりだ。若利の言うように「似合っている」し、俺にとってはその一言じゃ片付けられないほどの姿。

白石はエントリーを渋っているようで、何故かちらりと俺のほうを見た。
俺は白石のやりたいようにすれば良いと思う。けど、どちらかと言うとそのままで居て欲しい。素晴らしく似合っているのだから。この俺が「脱がないで欲しい」と思ってしまうくらいに。


「出れば?」


最終的な判断は自分でしろ、しかし俺は出ればいいと思う。…と、少しだけ自分の意見を強めに出して白石に言った。たぶん白石は俺に逆らわないだろう。理由は分からないけど、そう感じる。
その証拠に、しばらく迷っていたらしい白石はゆっくりと頷いた。



うちの学園祭にベストドレッサー賞なんてイベントがあるのはなんとなく知っていた。今まで全く縁が無かっただけで。天童が去年「英太くん出れば?」なんてからかっていた記憶はあるけど。

白石は無事に劇の主演を務めたもののあがり症が直ったわけでは無いらしく、青い顔をしていた。これから再び舞台に上がり、エントリー者は大勢の前で並ばなければならない。それが非常に緊張するのだそうだ。


「…どうしよう」
「いや、行くしかねえだろ」
「ど…どどどドキドキしてきた」
「さっきの本番より?」
「さっきは段取りが決まってたから…」


椅子に座ったままなかなか立ち上がらない白石は、次の舞台で何を喋ればいいのかああでもないこうでもないと考えている様子。基本的には司会者が進めてくれるらしいが、前に出るだけでも充分に大変のようだ。
俺、また余計な推薦をしてしまったかな。
けど今回は本当に根拠があって「出れば」と言ったので後悔は無い。しかし、今度もやっぱり背中を押してしまった自分が何かしなきゃいけないな、とは感じていた。


「ん」


俺は座ったままの白石に手を出して、立ち上がるよう促した。重いドレスのままだと腰を上げるのも難しいだろうし、なんたって足を捻っているのだ。だから立たせてやろうかなと思っただけ。
しかし白石は差し出された俺の手を見て、それから顔を見て、きょとんとした様子で言った。


「……まだ王子様の役やってくれるの?」


その時の白石の目が思わず言葉を失うほどまん丸くて、発した言葉は全くの予想外なのに俺の心に強く刺さった。痛くないけど、とにかく刺さったのだ。グサリと奥まで貫通するほど。


「…はい?」


おかげで間抜けな声が出て、それを自分の耳で聞いた瞬間「いやもっとマシな返事しろよ」と突っ込みを入れたくなった。恥ずかしい。けど救われたのは、我に返った白石のほうが俺よりずっと恥ずかしそうにしていたからだ。


「…やだゴメン!ほんとにゴメン忘れて今の」
「え」
「わたしが足捻ってるからだよね!?だからだよね、最悪だホントにごめんなさい」


今から俺に取って喰われるとでも思っているのか、白石は両手を合わせて何度も頭を下げた。そんなに謝られる筋合いはない。それに何故だか、謝られるとちょっとショックだ。俺は別に、白石が足を捻っているという理由だけで動いたわけでは無いのだから。


「わ、」


俺は白石の手首を掴んで、そのまま自分のほうに引っ張り上げた。後から考えれば仮にも怪我人なんだから丁寧に立たせてやるべきだったが、その配慮を欠いてしまうほど俺も動揺していたのかも知れない。


「続けて欲しいんなら続けてやるけど」
「………え…」


白石は何か言いたげだったけど、それから何も言わなかった。触んな変態!とか思われたかもしれないが。今は舞台に上がる緊張のほうが大きかったのか、それとも俺と同じような妙な何かに刺されていたのか、とにかく何も言わずに舞台袖に歩いて行った。

その背中と、後ろに長く広がるドレスのトレーンを見送りながら、自分の胸に手を当ててみる。まだ心臓に何か刺さってる気がして落ち着かない。触っても触っても普段の俺の左胸があるだけで、なんにも変わりはしなかった。
収穫の無かった右手を広げてみるとやっぱり何も無かったけど、ついさっき掴んだ白石の腕がやけに細かった事とか、本番中に触れた肩や背中の感触が今になって思い出されてきて、変な気分になりそうなのを頭を振って無理やり振り払った。


『それではいよいよ…ベストドレッサー賞を始めます!』


舞台上に十名程の生徒(変な仮装をさせられた教師も一名居た)が並び揃った。まずはおのおの簡単な紹介をするらしい。司会の生徒が右から順にエントリー者の紹介をして、簡単なコメントをしていく、と。
俺はもう見てるだけの側だけど、あそこに白石が居るってだけで息を飲んだ。白石をすすめた衣装係の連中も。


「うわーどうしよう緊張する」
「大丈夫だよ、白石さん超似合ってるんだから」


そんな声が背後から聞こえてきて、そうだよな、あの中じゃ白石が一番目立ってて舞台映えしてるよな。と願うように言い聞かせる自分が居た。まあそれぞれ個性的で完成度の高い姿だとは思うんだけどやっぱりクラスメートの贔屓目と、その他もろもろの原因で。


『続いては童話、美女と野獣の美女を見事に演じ切りました!三年三組の白石すみれさんでーす』


白石の番が来た。
一気に俺と、俺の周りに緊張が走る。舞台上でマイクを向けられた彼女は話す事が出来るかどうか。


『なにか一言アピールを』
『………ええと…』


…やっぱり控えめである。まあ今は声の大きさなんて関係ないから良いんだけど。人前で話す事自体は緊張するのかもしれない。与えられた台詞も無いし、突然の出場だし。

それでも白石は何かを喋ろうと口を動かしていた。ええと、あの、と何度か繰り返し、司会の生徒も「伝えたい事ありますか?」と二度目の質問。白石はこくりと頷いて、やっと喋り始めた。


『今日、わたしがこの衣装を着られたのは…というか、ここに立ててるのは…わたし一人の手柄じゃありません、ので』


おお、それらしい事を喋っている。俺もクラスメートもほっと胸をなで下ろした。


『一緒に舞台を作ってくれて、こんな凄いドレスを作ってくれたクラスの人のおかげです』
『…なるほど?』
『あと』


マイク越しに、白石がゴクリと唾を飲むのが聞こえた。


『……わたしを…この役に…推薦してくれた人』


三年三組の人間が、意識を俺に集中させるのを感じた。白石は斜め下を向いたまま。けれど確実に俺は察知した。白石から何かが向けられているのを。


『それは誰なんですか?』


その瞬間に、俺と白石の視線はばっちり交差した。
ほんの一瞬まわりの音が消えて、遠く離れた白石と俺しかこの空間に存在しないような感覚。しかしだんだんと賑わいが戻ってきた頃には、次のエントリー者へ質問が始まっていた。どうやら司会者からの最後の質問に、白石が答えることは無かったようだ。



それからは割とあっけなく、ベストドレッサー賞とやらは幕を閉じた。

白石の衣装は最優秀賞では無かったものの三位の賞を与えられて、これで衣装係の面目が保たれたというもの。「お疲れ様」「スピーチ良かったよ」というクラスメートからの歓迎を受けて、白石はようやくギチギチのドレスを脱ぐ事を許された。
そのあいだ俺は白石の着替えが終わるのを待っていたわけじゃないけど、一人残してどこかに行くのもなぁと思って、教室の前に待機していた。


「…あ」


そして、出てきたのは見慣れた制服姿の白石すみれ。舞台用のメイクはすっかり落としてしまったようで、いつもの顔に戻ってる。それなのに頬紅だけは取り忘れたのかと思うほど、白石は俺と目を合わすや否や真っ赤になっていた。


「あ、お、おつっ…カレサマ」
「お疲れ」


もうちょっと何か言えよ俺。思ったが、どうも言葉が出てこない。白石と話すのが嫌なわけでは決して無いのに、今日や昨日やそれより前の白石の事を考えると。


「…ごめん、なんか緊張して…危うく山形くんの名前言いそうになっちゃって」
「あー、うん…」


とてもぎこちない会話だと思っているのは俺だけだろうか。もう少しまともな受け答えが出来る男だったはずなのに。


「…でもほんとの事だから。山形くんが居なかったらってずっと思ってたから」


そのように訴える白石に俺は、どんな返事をするのが正解なのか?またはどんな返事をしたいと考えているのか?
俺は今、純粋に嬉しい。今日の劇を終えられて本当に良かったと思う。けど、これで終わりって事にして良いのか。


「ま、これで無事に終わりだな」


それなのに、俺の口からは終わらせるような一言が出た。自分で言った瞬間にとてつもなく寂しい気持ちになったのに、撤回する事が出来ない。だってその他に何を言えばいいんだよ。

生徒は皆グラウンドや体育館の出し物を見に行っていて、校舎内にはほとんど人が居なくて静まり返っている中、このまま二人きりで過ごすのは苦痛だ。全部終わってしまったんだから。どうせ終わるなら早く終わらせよう。


「待…って!」
「うおっ」


こんなシンとした場所に留まる気にはなれなくて、去ろうと一歩を踏み出した時。後ろからとても女の力とは思えない強さで腕を掴まれた。しかし後ろを振り向けばそこに居たのは勿論白石で、目が合うと更に彼女の握力と、瞳の力は強まった。


「まだ、あの、言えてない事が」
「言えてない事?」
「アリガトウとか、その他もろもろ色々と」
「何回ありがとうって言う気だよ、もういいって」
「違う!」


その声と、また腕を圧迫する力がこもったのを感じて俺は固まった。
白石は俺の両目から目を逸らさずに、口を動かすかどうか迷っているのが見て取れた。何事も無く本番を終えて拍手を浴びて夢を叶えて、それから俺にお礼以外の何を言ったら気が済むのか、冷静に考えれば察する事は出来たかもしれない。が、この時の俺には分からなかった。


「わたし、山形くんが好き」


白石がこの言葉を口にするまで全く何も気付かずに、片腕を白石に捕えられていた。その上、暫くは白石が言い終えた口をぎゅっと閉じるまで声を出す事が出来なかった。


「…あ…え……?」


静かになってからやっと、今言われた内容が頭に入ってくる。しかし白石はあまり俺に考える余裕を与えてくれず(本人も俺の様子を伺う余裕なんか無かったのかも)、再び口を開いた。


「ずっと言いたくて…でも、終わるまで言わないでおこうって」
「ずっとって…」
「練習していくうちに好きになって、けど山形くんは基本的にみんなに優しいしっ、思い上がっちゃ駄目だって思いながら」


彼女がそれらを話す時、俺の目は確かに白石の姿を写していたけれども、頭の中では過去の白石を映していた。
主役に推薦した俺に理由を聞いてきた事、台詞の覚えが早くてびっくりした事、こだわりが強くて真面目だと知った事、もう出来ないと泣いていた事、そこからちゃんと立ち直った事。最初はただのお節介だったかも知れないけど、俺は決して優しさだけで白石の夢に付き合ってきたわけじゃない。


「…言うの我慢できなかった。ごめん」


俺が何も答えないので、とうとう白石は謝罪をしてきた。俺が言葉を出せないのは白石の気持ちを拒否したいからではなくて、この悪い頭ではこれまでの事を繋げるのに時間がかかるだけなのだった。けど、今それは繋がった。


「……手…」
「え、」
「手、離してくんねえか」
「…え」


離してくれなきゃ俺のやりたいように出来ないから。でも俺はやっぱり言葉足らずで、勘違いした白石が悲しそうにゆっくり俺の腕を離した。
けど、そのまま逃がすつもりなんて無い。解放された手を今度は俺が伸ばして、引っ込めようとする白石のそれを引っ張ってやった。


「わっ!?」


そうしたら予想よりも簡単に俺の方に倒れ込んできた。そういえば白石はもうドレスを着ていないので軽いのだ。お陰で俺は望んだとおりに白石をこの胸に抱き留めることに成功した。


「や、やま…」
「俺もずっと…ていうか、何なんだろうなって思ってた」
「え?」
「けど今ので全部納得したわ」


自分で気づく事が出来なかったなんて情けない。今までも感じていた心地の良いモヤモヤは、これが原因だったのだ。


「俺も白石が好きだ」


白石の背中を両手でロックしたまま、鼻先にあるつむじに向けて言った。途端に白石の頭がびくっと動いて鼻を強打しそうになり、慌てて身体を離すと祈るような疑うような顔の白石が居た。どちらかと言うと疑いが強そうだ。


「……う…え…嘘、じゃなくて?」
「じゃない」
「美女と野獣の、延長じゃ、なくて」
「じゃない」


舞台の上でも感じたけど、女の子らしい細い肩。両手でそれをがっしり掴むと、白石の身体が強ばるのを感じた。劇の延長でこんな台詞があってたまるか。今の俺は野獣でもなんでもないただの男子で、物語の主役でもなんでもないただの女子を好きになったのだから。


「美女とか野獣とか置いといて、俺が白石を好きなんだよ」


白石と言う女の子がほんの数ヶ月でこんなに変われた事は感激したし、自分がそれに関われた事はなんと言っても光栄だ。嘘じゃないの!?と今度は自分から俺に飛び込んでくる白石のせいで、鼻を守るために離した身体はあえなくぴったりくっついた。この様子では彼女の耳には届いてないだろう、背後で「ベストカップルもエントリーすればよかったね」とクラスメートに囁かれているのを。