09
ラストダンスはヒールを脱いで


試合が始まる前だってこんなに緊張した事があるだろうか?
いや、断じて無いと言い切れる。というよりは緊張の質が違うのだと思う、今日の俺は自分の土俵とは全く違う場所で勝負をしようと言うんだから。勝負じゃないけど、まあ勝負みたいなもんだ。立派な衣装を着せられて、舞台の上で劇をする事になるなんて、これまでの自分からは考えられない事である。

台詞は全部覚えた。昨日の夕方に行った通し稽古では完璧だったはずだし、あとは緊張して頭が真っ白にならない事を祈るだけだ。


「あ…アーアー、ゴホン」


せめて声だけはちゃんと出さないとなあと思い、テレビで見た事のある発声みたいなのを試してみた。けど、普段から声が大きめな俺にはあんまり意味が無いかもしれない。喉の調子も別に悪くないし、こっちもたぶん大丈夫。
でも何かしておかないと落ち着かなくて声を出していると、それを聞きつけた白石がやって来た。


「発声練習?」
「しとこうかなと」
「いいね。アー…、っうえ」
「大丈夫かよ」
「さっきおにぎり食べて…あはは」


本番前におにぎりを食べる余裕があるとは、意外と図太い女である。俺なんか何も食べてないのに…朝はしっかり食べたけど。


「いよいよだね」
「おー…」
「……」


初めて白石が演劇部だと知ったのはつい最近、高校最後の夏休み。遠い昔のように思えるがほんの三ヶ月ほど前だ。

夏の間走っていたせいか、あるいは本来声が大きい女だったのか、白石は見違えるほど堂々と美女を演じるようになっていた。それも今日が最後で、これっきりなのだが。
それを思うと俺は言葉が出なかったけど、白石も同じように黙っていた。このまま本番が終わるまで、それについての会話は辞めておきたい。
が、白石は俺の隣で決心したように息を吸った。


「山形くん、あの」


今から何を言うのか丸分かりの顔で、白石が言った。
推薦してくれてありがとう、諦めずに声をかけてくれてありがとう、そんな感じの気持ちが前面に出ている。当然嬉しいんだけど今言われると非常に困る。俺だって血の通った人間だから、感極まってしまう恐れがあるのだ。本番前なのに。
だから、白石が続けて何か言おうとしたのを手で制した。


「終わってからにしよーぜ、そういうの。俺今かなりキンチョーしてるんだわ」
「あ、ごめ…え、緊張してるの?」
「するだろ普通」
「すごい度胸ありそうなのに」
「ねーよ」


やっぱり、試合の本番とは全く違う緊張だ。試合では何が起きるか分からないけど、今日は覚えた事をそのまま披露しなければならない。段取りが決まっているのに失敗するなんて、絶対に避けたい。途中で台詞が飛んでも誰も助けてくれる事は無い。やべ、めちゃくちゃ怖いじゃん。


「二人ともー!そろそろ準備始めるよ」


その時、クラスメートが俺たちを呼んだ。
気付けば間もなく舞台横の部屋に移動しなければならない時間。衣装係はドレスの裾が地面につかないよう、二人がかりで持ち上げて慎重に運び出している。
それを見ると、劇に関わっているのは俺と白石だけではなくて、クラス全員だったんだというのを実感させられた。


「……行くか」
「ウン」


白石は笑顔で頷いた。やっぱり本番前に素で笑ってるのってすごいと思う。俺、自分の事が不安で不安で仕方ないんだが。
しかし泣いても笑っても今日が今までの集大成を見せる場だ。クラス皆で円陣を組んで劇の成功を願った時、俺ってちゃんと部活以外にも真剣になれたんだなぁと感じた。



それからはとても慌ただしかった。白石は奥のほうでメイクをされたり衣装を着たりと大忙し、俺も最後に読み返しておこうかなと思っていた台本に指一本触れること無く舞台袖に移動しなければならなかった。
大丈夫かこれ。いや、大丈夫だろ。あれだけ練習してきたんだから。

頭の中で段取りを何度も繰り返しているうち、体育館が静かになった。
会場内に流れる開演のアナウンス。同時に音楽がスタートし、暗転の中、冒頭シーンの出演者が板付きになる。その中には白石も居て、ガンバレヨーと念を送ったけれども集中しているのか全く舞台袖を見る事は無かった。

その後すぐに照明が点き幕が上がり、なんだかんだと見守っているうちに俺の出番なんかあっという間にやってきた。そして、驚くほどあっという間に過ぎた。若利のたったひとつの台詞「そうだそうだ!」を聞き逃してしまうくらいに、あっという間。後で若利に言ったら怒られるかも知れないので内緒にしておこう。


「最後だね」


背後で声がして、はっとした。そこに居たのは学園祭の実行委員で、俺に向けて「最後のシーン頑張れ」と言っているらしかった。

嘘、もう最後?全然意識してなかった。俺、今までちゃんとやれてたのか?恐ろしくて思い出せない。
しかし今聞こえてくる音楽は確かにラストシーンに入るための曲で、俺はもう数秒後には下手袖から足を踏み出し、舞台中央に歩かなければならなかった。上手から現れる美女を迎えるためだ。


「………」


深呼吸をして、決められた曲のタイミングで一歩前に出る。舞台袖は暗くてとても涼しいのに、舞台に出るとこんなにも熱くなるのは照明のせいだろうか。

真っ直ぐ歩いていくと、上手の袖に待機している白石の姿が見えた。一目でそれが白石だと分かったのは、このために作られた立派な黄色のドレスを着ているからだ。
俺が定位置まで来た時に、今度は白石が足を踏み出した。その姿が舞台に現れた時、観客席からは息を呑むような気配がして、どうだ白石はこんな事も出来るんだぞ、こんなドレスを着ても不自然じゃないんだぞと何故か俺が鼻高々な気分。


(いい?)


お互いに中央まで来て向かい合った時、白石に向けて口だけを動かした。
これに対して身体を動かす事は出来ないからか、白石はゆっくりと瞬きをする事で頷いたと思う。それまでは緩やかに静かに流れていた曲調が変わり、音量が上がっていくのに合わせて俺達は手を取り合った。音響やってんの誰だよ、プロか。

衣装を着てこの踊りを練習したのは最後の一週間だけだったが、俺は特になんの問題も無くこなせていたと思う。演技力がどうかと問われれば、下手くそだったに違いないけど。
白石も最初の頃よりは流れるように動いてて、というかドレスも着て髪も整えてメイクもしてるとそれなりに良く見えてしまうし、こんなに密着して踊っているのにどこを見ればいいのか分からなかった。ホントに体育館の横で吐いてたんだよな、こいつ。


「う、わ」


その時、白石が小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。
どうかした?と声を掛ける事は出来ず様子を伺おうとした瞬間、身体に突然重みを感じた。白石の体重とドレスの重さが思いっきり俺にのしかかっている感じ。
かろうじて立っている白石だが握った手からはかなりの力を感じた。もしかして、よろけた?足、捻ったとか?

そこで思い出したのは白石のはいている靴はややヒールがあって、練習の時には準備が間に合わず、昨日やっとその靴で練習を通したのだという事。ドレスが苦しいとか何とかよりも、重要なのは靴だったのだ。


「ゴメン……」
「シー」


今、何かを喋ると床へ設置されたマイクが声を拾ってしまう。幸い足元はドレスのおかげで全く見えない。上半身さえ踊っておけばいいのだ。


(だいじょうぶ)


それまで余裕に見えた白石の表情が一気に青くなっていたので、俺は口の形で合図した。
曲はもう半分を過ぎている。このまま白石を支えながら踊るくらいたぶん大丈夫。練習の時だって、何度も何度も同じようなことはあったのだから。

おかげで、そこから先は転倒することも無く無事に踊り切る事が出来た。音楽の盛り上がりとともに一旦幕が下り、そのうちに舞台袖に居た出演者が一気に舞台に上がってくる。


「…山形くん、」
「まだ」


もしかしてこの場で謝ろうとしてるんじゃないかと、俺はまた白石の言葉を止めてしまった。だってこれまでの演技より、ダンスより、もっと大事なものが待っているのだから。

俺が正面を向くと、白石もゆっくりと前を向くのを感じた。全員が前を向いた時、別の音楽とともに再び幕が上がり出す。一度でいいから拍手を浴びてみたかったと白石は言っていた。演じ切ったあとの、カーテンコールの舞台で。



「二人ともー!超よかった!集合写真とろ!写真!」


やっと全部が終わると力が抜けたみたいになって、でもクラスの皆はワイワイがやがやと俺たちを迎えてくれた。ひとまず成功だと思っていいのだろうか。
けど、後ろを歩く巨大なドレスを着た女の調子がどうも悪そうだ。


「ちょっと待って。白石が足ひねったかも」
「え!?」
「ごめんなさい…」


やっと声を出してもいい状況になり、白石はクラス中に頭を下げた。いや、そこまで謝らなくていいんじゃね?と止めようとしたが、俺より先に委員長が「そんなのいい」と声を掛けた。


「本番中に?全然気付かなかった」
「山形くんがフォローしてくれたから」


と、白石は今回の事を俺の手柄にしてきた。俺がフォローしたと言うより、預けられた体重を受けていただけなのだが。


「ん」


その時、顔の真ん前に何かが突き出された。牛島若利の手と、手の中にあるテーピングだ。白石の足にこれを使えと言いたいらしい。というか、どこから出したんだコレ。


「…お前いつでも持ってんのな」
「いつ何があるか分からないからな」
「なんじゃそりゃ。…まーいいや、借りる」


若利からテーピングを受け取って、パイプ椅子に座る白石の前に来た。ドレスのボリュームが凄すぎて、白石が黄色い海に溺れているみたいだ。


「白石、足」
「え?」
「だして」
「!?」


足を出せという言葉だけ聞くとちょっと変態みたいだけど、俺がテーピングを見せると納得したように肩を落としていた。俺ってそんなに下品に見えますか。


「早くしないと悪化すんぞ」
「えっ、いや、山形くんが巻いてくれるの?」
「あ、自分でやるか?やり方分かる?」
「……ワカリマセン」
「わかんねーのかよ」


そして、やっと観念した白石が靴を脱ぎ、ドレスの裾を上げて足を出した。
そこでふと、我に返った。何も考えずに出せと言ったけど、これって結構やばいんじゃないの。女子の裸足なんか触った事ないんですけど。


「…けど、まあ、うまくいったな」


しかし他人の足にテーピングをすると言うのは経験済みだ。頭を切り替えて、会話で誤魔化す事とした。


「山形くんのおかげだね」
「白石のヨロケ方が上手かったんじゃねーの?」
「はは…うん、でも今日の事だけじゃなくて」


話しながら、時々顔を上げて白石の表情見ていた俺だけど。あ、ついに言われる、という予感がした。


「山形くんが推薦してくれなかったら、一生こんな経験できなかった」


文字通り、たぶん一生無理だったと思う。いや、もしかしたらもっと良い方法で白石の声を引き出す人間が現れたかも知れないが。少なくとも高校の学園祭で主役を張ることは無かっただろう。
けど、それも別に俺だけの手柄ってわけじゃなくて。そう言われると照れくさくなり、思わず顔を下げながら言った。


「…そうか?どうせ誰も立候補しなかっただろ」
「だとしても私を推薦する人は居なかったよ」
「……それもそうか」


それもそうか、って今だから言えるんだけれども。あの時は何も知らずに、知ったふりをして推薦してしまったし。それが結果的に良い方向に進んだだけで、もしも駄目だったらどうなっていた事やら。


「ありがと……」


まだテーピングは終えていないのに、お礼の言葉が降ってきた。顔を上げると白石の瞳が潤んでいて、思わずぎょっとしてしまった。まさか今ここで泣くのか。


「……!? え、嘘おまえ」
「ご、ごめん」
「いやゴメン、痛かった?」
「ちが…そうじゃなくて…」


話しながらついに涙が頬を伝って、けれど白石もそれを止めようとはしていない。他のクラスメートに聞かれないよう声だけを我慢して、ぽたぽたとドレスに涙の跡が落ちた。


「なんか、幸せだったなぁ〜って思ったら泣けてきた」


泣いてるくせに嬉しそうで、楽しそうで、思わずドキリとするような顔。白石は小学生の時からずっと憧れていた事を達成出来たのだ。カーテンコールで拍手を浴びたい。もう高校のうちは無理だと思っていたけど、クラスの学園祭で叶えることができた。夢にも思わなかっただろう。
でも、その嬉しさを俺の前で泣いて喜ぶのは、やめて欲しい。


「泣くなよなあ…」
「ご…ごめん…」
「いや…泣くのが悪いとかじゃなくて…」


上手く言えない。白石が感情をあらわにする度に産まれてくる変な気持ちを、上手く表現出来ないのだった。だからこれ以上俺を惑わすような事はしないで欲しいという意味での、「泣くな」というお願いである。