01


白鳥沢に通い始めて2年目、さすがにこの電車にも乗り慣れて運よく座れる日にはうたた寝をする事もあった。
「次は白鳥沢、白鳥沢」と言うアナウンスで目を開けて、大きく息を吐いて電車を降りる。これが俺の、いつもの朝の始まりだ。


だが今日は違った。
まずは何故だか電車は満員で俺は座る事ができなかった。座れない日だって良くあるから座れない事自体は構わないのだが、ぎゅうぎゅう詰めで少し息苦しい。

牛島さんや天童さんほどの身長があれば、少しだけ周りよりも高い位置で呼吸が出来るのに。人の頭ばかりで窓の外も見えやしないな、とドアの方に視線をやる。
ドア付近には、やはり窮屈そうに同い年くらいの女の子が立っていた。周りには通勤途中のサラリーマンばかりだからあまり良い気分では無いだろうなと思いながらぼんやり見ていると、その様子がおかしい事に気付いた。

いや、まさか。
そんな事、自分の身に起こるはずは無い。ニュースやドラマの世界でしか起こらない事だと思っていた。

おそらく痴漢に遭っている。

ドアの方を向いて、手すりを掴んで顔を伏せ、時折斜め後方へ恐ろしげに視線をやっている。これだけなら断定できないが、ちょうど俺からは見えた。触ってる。
というより、触ろうと手を動かしているのを女の子が自分の小さな手で制している、静かな攻防が見えた。


周りの誰もたぶん気付いてない。音楽を聴いていたり、スマホでゲームをしていたり、目を閉じてこの息苦しい空間から脱出できるまで瞑想していたり。
俺だけが、気付いた。


ここからドアのところまで、間に人がいる。ぎゅうぎゅうに詰まったその他の周りの人も合わせると、結構いる。どうするか。そうこうしているうちに、あの子のスカートの中には魔の手が伸びているのかもしれない…仕方ないか。


「すみません」


小声で周りの人に謝罪しながら、少しずつドアの方へと近づいていく。

触っている男は背後の事なんかあまり気にしていないみたいで、電車の揺れや音のせいで余計に距離を詰めていく俺には気付いていないようだった。


揉みくちゃにされながらやっとそこへたどり着いた時、男が気付く前に女の子のほうと目が合った。いまにも泣きそうな顔、いや少しは泣いていたかもしれない。

小さな頃に、どこかに置き去りにしたかと思っていた俺の正義感が火を噴いた。


「…何してるんですか?」


静かに声をかけると、男が動きを止めた。

振り返ってこないので、俺の視界には彼の後頭部と、視線を下げれば女の子のスカートのそばで固まった手が。


「見てましたから」


触られていた女の子の名誉のためにも、他の人にはなるべく気付かれないように伝える。
男は何も言わなかったが、静かに首を縦に振った。





すぐに次の駅について、幸いこちら側のドアが開いたので3人揃って降りる事となった。


サラリーマンの男は全速力で逃走、という事はなく素直に駅員室へと連れられて行った。
最悪の場合乱闘騒ぎになるかと思ったし、その場合勝つか負けるか正直分からなかったので、こっそり胸をなで下した。


俺とその子は別の部屋に通されて、駅員から話を聞かれる事になった。その前に部活に遅れる旨を報告しなければならない。


「…うん、そう。皆に伝えといて」


同学年の太一に大まかな事を説明し、電話を切って鞄に仕舞うのを合図に、事情聴取のようなものが始まった。


結局、女の子もあまり大事にしたくないという事で俺とその子は一応連絡先を聞かれてから駅で解放された。


すでに8時を回っており、朝練には参加出来ないあるいは1限目にも遅れる。

でも目の前で起きた出来事を見て見ぬ振りするよりは良かったのだろうと、一緒に駅員室を出た女の子のほうを伺った。


「…あの、大丈夫ですか」


女の子は小さく頷き、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございました」
「いや、たまたま見えたんで…」
「…部活だったんですよね。ホントにごめんなさい」
「謝る事じゃないですから」
「…でも……」


そう言って、女の子はごそごそと鞄を漁り始めた。

ノートの1ページを開き、そこに何かを書き込んでいく。書き終えるとその部分を千切り、俺に差し出してきた。連絡先が書かれているようだ。


「お礼します。何か困る事があったら言ってください」
「えっ、いや…そんなつもりでした事じゃないです。受け取れないです」
「…ホントに、助かったんで……本当に」


このままだともう一度泣いてしまいそうだったので、俺はおずおずとその切れ端を受け取った。すると彼女は再び深く頭を下げた。


「…白石すみれ。青城高校2年です」


青城高校。
この際どこの学校かなんて事は関係ないか。


「白鳥沢の、白布です」


しらぶさん、と繰り返して白石さんと名乗った彼女は三度目のお辞儀をし、どうやらここで乗り換えだったらしく別のホームへと歩いて行った。


受け取ったノートの切れ端にはきれいな字で、名前とLINEのIDらしきものが書かれていた。





「なにそれ。ヒーローかよ」


昼休みは、隣のクラスまで出向いて太一と食べるのがお決まりだ。

朝練に参加しなかったのが単なる体調不良ではなく痴漢現場に遭遇したから、という珍しい理由だったので太一には詳細を事細かに聞かれた。


「運命的すぎじゃん?俺なら即!連絡するね」
「別に大した事してない」
「大した事だろ?少なくともその子にとっては」
「んー、まあ」


でも、こちらから連絡するイコール謝礼を求めている、という意味になる気がしてなかなか連絡しようとは思えなかった。

そもそも偶然その現場を見たから声をかけただけだし、今後会うかどうかも分からないんだから。


「ちなみに何てコ?」
「…俺になりすまして連絡する気じゃ無いだろうな」
「そこまで落ちぶれてねえわ」
「はあ…青葉城西の、えーと」


名前、何だったかな。そう思って受け取った切れ端を取り出し、書かれた名前を読み上げた。


「白石すみれ…さん。」
「すみれちゃんね」
「何でファーストネーム呼んでんだ」
「可愛かった?」
「…不謹慎。この子被害者なんだぞ」
「カッコイーねー賢二郎」


太一は褒めているのか呆れているのか分からない様子で大きなおにぎりを頬張った。

俺は決して格好いいわけでは無い。
クラスの女の子やすれ違う女の子の顔を見た時に、可愛いかそうでないか、好みか好みでないかくらいは無意識に判別している。

そして、その判別は今朝の電車でも例外無く行われていた。


「……可愛かったとは思う」
「おっ?不謹慎の仲間入りか」
「ヤメロ。」
「連絡してみろよー」


他人事だと思って面白がっているらしく、太一は積極的な行動をすすめてきた。そりゃあ好みの子ではあったけど、そこまで必死に追いかけるような事じゃ無い。


「…次に会う事があったら考えるかな」


何の気なしにこう答えた。

1年ちょっと通い続けた電車で今日初めて見かけた相手に、再び会う可能性なんか無いに等しいと思ったからだ。偶然彼女は今日、あの時間の電車に乗っていたのだろう。

だから俺は次の日も同じ電車で会うなんて、予想だにしていなかった。

01.満員電車に気を付けて