一緒に居る時、携帯を見る頻度が多くなった。会話中にうわの空で返事が返ってこなくなった。笑顔が減った。メールの返事が遅くなった。会うのを断られた日に、別の男と一緒に居るのを見かけた。

これだけ揃えば彼女が浮気をしている、少なくとも俺から気持ちが離れている事は容易に想像できるわけで、いっその事「別れよう」と言われる方がまだ幸せだ。本人から聞かされないうちに自分で気づいてしまった時ほど情けなくて、ショックな事は無い。
もう俺に気が無いんだろ、と言ってやるかどうか迷ったけれど、信じられないほどあっけなくその時は訪れた。


『別れよ』


目を疑うほど短いたった三文字の言葉は、会う予定を立てていた前日の夜に送られてきた。
メールで明日の事を話している最中にちょっとした言い合いになり、「単刀直入に聞くけど、浮気してる?」と聞いてみたところコレが来た。せめて否定しろよと送り返してやりたいけど、そんな事よりどうしようもなく重い気持ちがのしかかって来た。


「…メールかよ」


互いを好きになって、頻度が多いとは言えなかったけどデートを重ねて、楽しいと思える時間を共有して、それでもいつか気持ちが離れるのは致し方ない事だとは思う。もしかしたら俺のほうが先に別れを切り出す可能性だってあったかもしれない。
けれど二人の時間を終わらせるために、軽量化された手のひらサイズの液晶の上で、指をほんの数センチ動かすだけの労力しか、使いたくないって事なのか。
俺はそっちのほうに落胆した。浮気された事実よりも。


『わかった』


それなら俺も同じように返してやるよ。本当は明日、対面して話したかった事だけど。正直に言ってくれればそれで良かったのに、他に好きな男ができた事くらい。


「せんせー」
「!」


自分の部屋に居たはずが、我に返ると全く違う場所に居た。
しかし初めて来る場所ではなく、俺はここに毎週日曜日だけ訪れている。家庭教師のアルバイトをするために。そして今、目の前には生徒である女の子が居て、何度か俺の事を呼んでいたらしかった。


「…ごめん。別の事考えてた」


最悪というより最低だ。こういう事を、給料が発生する時間帯に頭に浮かべてぼんやりしてしまった自分が。


「珍しいですね、いつもわたしが怒られる側なのに」


白石さんはそんな俺を不快に思うような子じゃないけど(もともと勉強が大嫌いで無理やり家庭教師を付けられたらしい)、それでも不思議には思っているようだった。それも当然の事で、普段は俺が集中力の無い白石さんを注意していた立場なのだ。
今ではいくらか真面目になって、やっと自分から質問をしてくれるようになったのに。そんな時に俺が私生活の事で勉強を疎かにするなんて、絶対駄目だろ。俺にとってはただの小遣い稼ぎでも、この子にとっては大学受験で人生を左右されるのだから。



翌日、授業はすべて金田一と同じだったので朝からずっと一緒に居た。
金田一はあまり人間観察に優れているとは言えないが、長年連れ添ってきた俺の事はなんとなく分かるらしい。そりゃあ、いつもキャンパス内ですれ違うと「お疲れ様!」と声を掛けてくる女が今日は俺を無視したんだから、気付くのも当然なんだけど。


「そっか、別れたんだ」


喧嘩でもしてんの?と聞かれたので、俺は正直に打ち明けた。一昨日の夜、男女の関係が終わった事について。


「振られた」
「え!?」


これから昼食を口に運ぼうとしていた金田一は、大きく開いたままの口で叫んだ。顔もうるさいし声もうるさい。周りの生徒が何人かこちらを向いたので、慌てて人差し指を口にあてた。


「…声がでかいよ馬鹿」
「悪い…けどあの子、結構お前に惚れてたんじゃね?そう見えたけどな」
「知らない。飽きたんだろ」
「飽きたって…」


確かに彼女は、いや「元彼女」は俺の事をとても好いていたように思う。アプローチをしてきたのは向こうだし、当時彼女の居なかった俺は満更でもなかった。顔は文句なしに可愛かったし、一緒に居ると明るくていつも笑ってて、あの子は俺の知らない色んな事を知っていた。

だから告白された時には即答で頷いたんだけど、どうやら「彼氏彼女」の関係になると俺はとても不器用らしかった。どうやって彼女を褒めたり、話しかけたり、誘ったりすればいいのか分からなくて。
それに彼女が出来たからと言って、今も続けているバレーボールや交友関係に影響させるのは嫌だったし。おまけに家庭教師のバイトまで初めて、余計に忙しくなるのに何考えてるのって言われた事もあったような。


「仕方ないよ。俺、あんまり気とか使えないし」


だから俺に全く原因が無かったなんて思ってない、むしろ原因は俺が作ったのかも。


「今思えば、もうちょっと俺も構わなきゃいけなかったと思う」


「構う」だなんて上から目線だと思われるかも知れないけれど。
もし今後他の誰かと付き合う機会が来るのなら、今回の事を参考にしよう。「メールで振られた」という一番ショックな事を誤魔化すために、そんな事ばかり考えていた。


「そういやバイト、どう?」


失恋した友人の話なんてつまらないのか、俺に気を遣ってくれたのか(まあ後者だろう)金田一は話題を変えてきた。
バイトとは前述のとおり家庭教師のアルバイトで、金田一も生徒の女の子を知っている。家庭教師として会う前に、駅で泥棒だかスリだかに財布を盗られていたのを二人で助けてやったのだ。ほぼ金田一の手柄だけど。


「あー…白石さんね。うち志望なんだってさ」
「え。そうなんだ」
「今んとこ難しそうだけどね」
「そこはお前の腕の見せ所だろ?」
「本人が頑張らなきゃ意味ない」


って口では言うものの、俺だって頑張らなければならないのは分かっている。が、どうやってあのトンチンカンな女の子を国立の四大に合格させればいいのかビジョンは浮かんでいなかった。


「で、頑張れそうなわけ?その子」
「…最近やっとスタート地点って感じ」
「へー」


白石さんは元々勉強嫌いだった事もあり、恐らく他の高校三年生よりも出来が悪くて要領も悪い。けど、とりあえず家庭教師の俺が居る時間だけは頑張れと指示した。
そうしたら最初のうちは二時間の勉強だけで疲れ切っていたけど、だんだん体力がついたのか慣れてきたのか、頑張り始めるようになった。


「けど、最初ボロボロだったんだろ?だいぶ凄いじゃん」
「まーね…思ったよりはね」


それをどんな風に褒めればいいのか、あるいは褒め過ぎない方がいいのかと言うのが悩みの種だ。調子に乗られると良くないだろうから。
もうすぐ一学期の期末テストだし、その結果が良かった時には褒めてみようかな。



それから、正直あまり期待はせずに白石さんの家を訪れた。
その間に元彼女から連絡が来ることは一度も無く。別れた次の日か二日後か、俺の部屋にある私物を返した方がいいのかと電話をしたのに出なかった。それ以降はもう俺からも連絡していない。だから、幸いにも彼女との思い出や振られた事についての喪失感は薄れつつあった。もう忘れて、生徒の大学受験に力を尽くそうと。
しかし、いきなりぐんと成績が上がる事なんて期待もしていなかった。


「……84点」


手にした解答用紙が本当に白石さんのもので合っているのか、何度も名前の欄を確かめた。白石すみれと書かれているので間違いない。
白石さんが大の苦手だった数学で八割以上の点数を取った。これには思わず驚いて、と言うか感動してしまって、「よく頑張りました」なんて柄にもない事を言ってしまった。


「先生に褒めてもらえるの、初めてかも」
「頑張ったら褒めるよ。ホントよくやったと思う」


なんて平静を装ってみたけど、マジかよ。こんなに出来る子だったっけ?平均点くらいは取ってくれるだろう、くらいにしか思ってなかった。
いっぽう白石さんは俺に褒められたのがよっぽど衝撃なのか落ち着きがない様子で、まだ何かを言いたげにそわそわと動いていた。


「…先生」
「何?」


白石さんはテスト用紙を机に置いて、膝の上で手を揉みながらしばらく口ごもっていた。…まさかカンニングしましたとか言うんじゃないだろうな。


「わたし、自慢の生徒ですか?」


けれど幸いにもカンニングなんかじゃなくて、しかし全く予想していない言葉を言われた。自慢の生徒デあるかどうかを本人に聞かれるなんて、思ってもみなかったのだ。だから、思わず「え?」と聞き返してしまった。


「えっと…わたしが良い点取ったら先生の評価、上がるかなって」


続けて聞こえてきたのはこんな台詞。確かに教えている生徒の成績は上がれば上がるほどに良い。家庭教師の派遣元からだって評価は上がる。けど、そんなの生徒には関係の無い事なのに。


「そんな事考えて勉強してたわけ?」
「……それもあるんですけど。そっちがメインではなく」
「さっきから何言ってんの」
「えーと…」


どうも本音らしきものが出てこなくて、俺は首を傾げるのも忘れて白石さんを凝視してしまった。
この子は元から俺の事を怖がっていただろうし、余計に言いにくくなってしまったかも知れない。けど、思い切って口を開いた。


「元気出ましたか!?」


白石さんは「言っちゃった!」みたいな顔で、でも目を逸らそうとはせずに俺を見ていた。
その視線に押されてたわけじゃないけど俺は、うまく反応出来なくて。だって、何かどう繋がって俺の元気の具合を確かめようとしているのだろうと思ってしまったから。


「元気……?」


聞き返すと、白石さんは小さく頷いた…かに見えた。俯いたから頷いたように見えただけかも知れない。


「先生、最近元気なさそうだったから。あの、原因は分かんない…ですけど」


そして、ぽつりぽつりとこんな事を口にした。俺が普段よりも調子が悪いのではと、白石さんは感じていたのだ。


「……そう見えた?」


まさか白石さんが気にするほど、目に見えて違っていたなんて。信じられなかったが、白石さんは迷いもせずに頷いた。


「見えました」


言葉を失うという表現は、こういう時に使うのだろう。俺は言葉を失った。確かにいつかの日曜日、別れたばかりの彼女の事を気にしてうわの空になっていたけれど。それだけで俺に何かが起きた事を勘づいてしまうような子だったのか。


「わたしは、良い点取ることでしか先生を元気に出来ないから」


そしてその俺のために良い点を取り、それが俺の「元気」に繋がって欲しいと思っていたのか。いや、俺が思わせていたのか。あの日、集中出来ずに妙な態度を取ってしまったから。

思い返せば期末テスト前の最後の日曜日、白石さんの顔はやつれていた。くまが酷いと言うか、なんと言うか。あの時は友人と遅くまで電話して夜更かししたと言っていたけれど、まさか夜中まで勉強していたのだろうか?それを俺に悟られたくなくて嘘をついた?俺の元気が無かったから。

本人に問い詰めると全部当たっていたみたいで、ここ数週間の白石さんの言動が全て繋がった。そして、胸の奥にあった重いものが消えていくような、そんな気がした。


「気にしてくれてありがとう」


こんな事、言うつもりなんか無かったんだけど。自然と白石さんへの感謝を口にしていた。白石さんもまさか俺が「ありがとう」 を声に出すような男だと思っていなかったらしく、息を吸い込んだまま反応に困っているようだった。


「………っ、あ、の」
「じゃあ間違えたところ確認しようか」
「あ」


何だかすっきりしたな、これで集中して白石さんとの勉強に取り組む事が出来るかも。そう思って返ってきたテストを並べようとすると、白石さんが何か言いたげにしていた。


「どうしたの?」


質問しても返事は無い。さっきまであんなに色々話していたのに。また膝の上に両手を置いてもじもじそわそわ、落ち着きのない様子であー、えー、と唸っている。まだ俺に何かを隠してるのか言いたい事でもあるのか。


「…なんでもないです」


しかし何でもないと言われてしまっては、それ以上を聞く事はできなかった。聞かなくても良いかな、と思えてしまったのだ。普段なら「最後まで言えよ」と突っ込んでしまうところだけど、今日はとても良い気分だっから。

Extra edition

本編で言うと、大体10〜14あたりのお話です。