04
文庫本・中古で百円


大学に入ってから一年ちょっとのあいだ、存在を知らなかった女の子。その子と偶然近所のコインランドリーで一緒になったからと言って、大学でも頻繁に会うわけではない。学部も、取っている授業も違うのだ。
わざわざ大学内で白石さんを探すために歩き回るわけにもいかず、見つけたからって何をするんだと問われると特に何も無く。頭の片隅に、「白石さんは今、このキャンパスのどこを歩いているんだろう」という疑問が浮かんでいるだけだ。ただなんとなく、けれども常に。

白石さんとまた話をしたいなと思いながらもコインランドリーに通う回数を増やすわけにはいかない。なんたってお金がかかるのだ。一度洗濯をするごとに三百円。近所では一番安いけど、無駄にお金を遣うわけにはいかないのである。
入学してからの一年目は授業に専念しようと思っていて、二年になってからアルバイトでも始めようかと思っていたけれど、思いのほかそんな余裕は無かった。いや、しなくちゃいけないんだけど。俺もまだまだ親に甘えてるって事だ。そして親も俺を甘やかしてくれる、一人息子だから。

そんなわけなので毎日毎日コインランドリーに行く事は出来ず、大学でも白石さんの姿を見かける事は無く、二日に一回の洗濯の時だって決まって白石さんが居るわけではない。
白石さんに「どうも、赤葦くん」という嫌味たっぷりのご褒美を貰ってから、十日間ほどが経過していた。


「……赤葦くん?」


だから、完全に気を抜いていた。洗濯が終わるまでの間家に帰るのが面倒なのでコインランドリー内にある椅子で読書をしていると、店内に入ってきた女の子に名前を呼ばれたのだ。


「…あ。ひさしぶり」


おかげさまで間抜けな返事を返す羽目になった。
白石さんは俺の「ひさしぶり」は無視して、けれど少しだけ頷くように返事をして、コインランドリーの中を歩き始めた。
終わった洗濯物を取りに来たところらしく、端の洗濯機へと進んでいく。だからいつも使っている端っこが埋まっていたのか。今日は先を越された。


「全然会わないね。大学で」


読んでいた文庫本を閉じながら言ってみたけど、白石さんは俺のほうを向いてくれる事は無く。洗濯機の蓋を開けつつ、そりゃそうでしょ、と答えるのみだった。


「ずっとここ使ってるの?」


しかし俺は会話を終わらせる気など毛頭ない。少しでも多く彼女の事を知りたいのだ。白石さんは何故そんな事を聞くんだとでも思っているのだろう、顔をしかめたけれど無視はしなかった。


「うん…ここが一番安いから」
「やっぱり?俺も前まで別の場所使ってたんだけど、ちょっと前にこっちのほうが安いって知って」
「そうそう、三百円だもんねー」


その時の白石さんの声は今までよりも少し高くて、どうやら会話しているうちに警戒心が解けてきたのだと思えた。白石さん自身も俺に対して意図せず愛想良くしてしまった事にハッとして、ゴホンと咳払いをして続けた。


「けど、いまお金溜めてるから。溜まったら洗濯機買うの」
「そうなの?生活必需品なら親が買ってくれそうだけど」
「まあね…でも家賃とか生活費とか、学費も親が払ってくれてるし。なんか言いづらくって」


そう言って洗濯機の蓋を閉める姿は、なんだか逞しかった。同い歳の女の子にしては。

大学生になってからまだ二年目の俺だけど、高校時代から成長した事があるかと言えば特に無い。自分の好物ならばレシピを見なくても作れるようになったくらいだ。毎月仕送りされてくる生活費は、余った時には貯めるよりも先にちょっと良いものを食べる事に使ってしまう。

意外としっかり者なんだなぁと感心していると、白石さんは全ての洗濯物を持参した袋に詰めて、俺の目の前にある机に置いた。俺の事をじっと見下ろしながら。


「…帰らないの?」


洗濯が終わればここに用は無いはずなのに、白石さんが仁王立ちしている。それどころか、机を挟んだ向かいの椅子を引いて腰を下ろした。


「終わるまで暇なんでしょ」


そして、かなりの上から目線で言ってのけた。まさか俺の洗濯が終わるまで一緒に待っていてくれると言うのか。唖然とした俺は返事をせずにただただポカンとしてしまった。


「本読んでるほうがいいなら、帰る」


白石さんは俺が先程まで読んでいた文庫本に目をやった。
私と喋るよりも本のほうが面白いなら帰りますだなんて気の強い事を言われたら、白石さんを選ぶに決まっている。こんなにツンケンしているくせに着ている下着はヒラヒラしてるって、興奮材料でしかないんだけど。


「白石さんて、変わってるね」


でもそんな事を言ったら本物の変態になってしまうので、俺は必死に言葉を選んだ。怒らせず、犯罪者扱いされず、でも白石さんの表情がちょっと歪むような言葉を。すると思い通りに眉を寄せてくれたので、心の中でガッツポーズした。


「あなたほどじゃありません」
「変わってるなあ」
「しつこい」


こんな会話をしているのに帰らないって事は、俺の事を好いてはおらずとも嫌いという訳では無さそうだ。それならば答えてくれるだろうと、俺は新たな質問をした。


「地元、どこ?」


答える気なんかありませんって突っぱねられる覚悟もしていたけど、白石さんは頬杖をついて答えてくれた。


「都内だよ。でも通うにはちょっと遠くて」
「そうなんだ」
「一人暮らし、してみたかったし」
「親とか心配しないの?娘の一人暮らしってめちゃくちゃ反対されそう」


なんだか会話が弾んできたような気がする。主に俺が頑張って弾ませてるんだけど。おかげで白石さんも最初の頃よりはリラックスしているようだった。


「最初はされたけど…頑張れば実家からも通えるからね。でも色々一人でやってみたくって」
「ホームシックとかならなかった?」
「なったよ、最初は毎晩泣いてたかも」
「ふっ」


思わず吹いてしまった。気の強そうな女の子なのに、実家が恋しくて泣いた事があるんだ。それって物凄く不意打ちというかギャップというか、うまい表現が見当たらないけど俺のツボにばっちりハマった。


「男の子には分かんないでしょ!笑うなっ」


白石さんは俺が笑ったのを見てムッとしていた。わざと怒って見せてるのか知らないけど全然怖くないし、その顔を見て俺がますます面白がるという可能性は考えないのだろうか。
けど、大学生になった途端に一人暮らしを始めたのは自分も同じ。実家を思って寂しくなった事くらい、俺にだってあるのだ。男の子だからという理由でホームシックに共感出来ない事ではない。


「分かる分かる。俺もホームシックなったもん」


泣きはしなかったけど、引越しを終えて親が帰った後でワンルームに一人取り残された時のアレ。胸にぽっかり穴が空いた感じ。いつか誰かと遠距離恋愛でもしたら、さよならした時にこんな気持ちになるのかなぁと思ったもんだ。
しかし白石さんは俺が適当な事を言っていると思ったのか、疑うような目であった。


「……本当に?」
「そりゃあなるよ。いきなり一人になったら寂しいよ」
「赤葦くんって、寂しいとかいう感情あるんだね」
「え、なにそれ傷ついた」
「傷つくとかいう感情あるんだね」
「ひど」
「あははっ」


その時はじめて白石さんは、俺の前で警戒心をゼロにして笑ったかに見えた。笑わせようとして言ったわけじゃないけれど。
でも、結果的に良かった。白石さんって、怒った顔も笑った顔も俺の好みだなっていうのを知る事が出来たのだから。このまま話を続けたらもっと表情豊かになるだろうか。
…とウキウキし始めた時に、ちょうど電子音が鳴り響いた。


「あ!終わったんじゃない?」


真っ先に反応したのは白石さんのほうだった。聞こえないふりをしようとしたけど失敗だ、俺の洗濯が終わってしまったらしい。


「あ、ほんとだ」
「じゃあ私、洗濯物臭くなっちゃうから帰るね」
「え…あ」


白石さんは立ち上がると、机に置いていた重たそうな袋を 持ち上げた。「じゃあね」と何の未練も持たずに手を振って、俺が挨拶を返す前に出て行ってしまった。

洗濯物が臭くなるのは嫌なくせに、俺の洗濯が終わるのを待ってくれていたらしい。でもどうせなら俺が洗濯物を取り出してコインランドリーを出るまで滞在しようとは思わないのか。思わないんだろうな。そこがいい。今日は良い気分で洗濯を干すことが出来そうだ。